『帰還』
異形が、崩れる。
本体は無論、身に付けていた衣服から何まで。打ち払われた鎖がそうであったのと同じように、まるで砂が解けるように崩れ去っていく。
勢い良くしゃがんだ拍子に尻餅をついた抄帷が、見上げる形でその行く末を見送る。誰の目にも、決着は疑いようがなかった。
「――花蕗君」
束の間止まっていた思考が再開し、今何よりも優先すべき事柄に思い至った抄帷が、視線を動かす。
血に塗れ、うつ伏せのまま微動だにしないその姿に、抄帷の顔が途端に真っ青になる。
――そもそもが限界であったことはわかりきっていた。それでもあの状況を切り抜け、異形を打倒するのにどうしても彼の力が必要だった。
「――静」
――そう。必要だった。
たったそれだけのために、たかがその程度……実利的な判断のみで、私は彼を窮地へと追いやった。
「――静!」
直視し難い、愚かしく残酷な現実を前に、抄帷は大きく取り乱した。
金切り声のように張り詰めた声。震える手が、動かないその肩を揺する。
「静!静‼︎」
そんな結末を望んでいた訳ではなかった。
こんな終わりで良い訳もなかった。
急激に冷え込んでいく自らの体温に歯を鳴らし、それでも尚懸命に呼び掛けるその声に、
「――受け身とりそこねた、糞が」
不満も顕に、花蕗静が答えた。
「――生きてる」
「アホ抜かせ。ほとんど死んでるっつーの」
言葉に脱力し、再び地面に座り込む。その姿に、殊更不満そうに花蕗静が文句を口にする。
顔色は真っ青。玉のような冷や汗を額に滲ませ、自らの出血が飛び散り全身真っ赤に染まりながら、それでも。
「――――生きてた――――」
それだけ。ただそれだけで、今は良かったと。抄帷は、今日までの人生において最も深い、安堵の溜息をついた。
「――ま、五体満足とまではいかねーが、一先ず全箇所欠品なしだ。派手にやった割にゃ軽症だ」
言いながら、静が身体を起こす。苦悶に僅か顔を歪めながら、視線は前へ。自らが打倒した異形へと注がれた。それに倣い、抄帷もまた、崩れ去るその姿を改めて見やる。
「――目標達成、でいいのかな」
異形の上半身は既に消失していた。残された腰から先も徐々に……だが確実に、その形を保てず崩れていく。そんな終わりの姿に、呟くように抄帷は口にした。
「どーだかな。どっちみち、こっちはもう打ち止めだ。野郎に隠し球があるなら、ここで詰み。考えるだけ徒労だぜ」
「……それもそうだね」
「ま、この感じだと行けそうな気ぃするけどな」
言いながら、静は顎で抄帷を……その右腕を指す。
巻きつくように刻まれていた紫色の不気味な痣が、そんなものはまるで初めからなかったかのように消え去っていた。
「キレイなもんじゃねーか。勝鬨の裏付けにしちゃ、十分だろ」
「――……うん」
「さて、とだ」
よろめきながら、花蕗静が立ち上がる。
「ケリ付いたってんなら、いつまでもこんな所用ねーだろ。とっととずらかろうぜ」
既に足元は覚束ず、表情にも力が無い。
「わかった」
だが、それを今指摘することに意味はない。なればこそ、やるべき事は彼の言う通り。いち早く、この隔絶された異界からの脱出以外には考えられなかった。
応えながら、自らも立ち上がって。ふと、些細な疑念が抄帷の脳裏を掠めた。
「……全ての鎖は、アレが作り出したものだよね」
「ぁあ?なんだ今更、そらそーだろうよ」
「こっちへの出入口に用いられる鎖も、だよね」
「……だから?」
「アレを倒して、鎖も……アレ自身も消えちゃった訳だけど」
「…………」
「――今、間口の鎖まで消滅したら、私達ってどうなるんだろう」
「――――あー……」
静と抄帷が二、三瞬きを交わし合う。そして、どちらからとも言わず、一斉に走り出した。
合掌抄帷の疑念。その答えは『わからない』。
空間生成自体は異形の能力ではないと阿島京介は予測していた。だが、当の本体が既に不在である以上、その真偽は確かめようがない。
事実は一つ。空間への出入りが異形の鎖を介してのみ行われてきたこれまでがある以上、二人に思考の余地はない。
目指すは空間侵入の起点。廃ビル崩落跡地。
「――っ遅い!静!」
同時に駆け出した二人の距離が緩やかに開く。前を走る抄帷の声に、静が顔を歪ませながら、なんとか足を前へ出す。
「この、っざけ、こっちゃ、重症、人、だぞ――気ぃ、使えってんだ、よ――!」
素の身体能力に限れば、花蕗静が合掌抄帷に遅れをとる道理はない。だが、限界寸前の身体を、空っぽになった体力で無理矢理に駆動させているだけの今の静には、既に満足に走る動作を実行出来る余力など微塵も残ってはいなかった。
意識は既に細切れに。冷静な判断や熟慮の余裕はまるでなく。霞んだ意識は視界と連動し、次の一歩を踏み出す事を頑なに拒む。
その視界を――燻った思考を、
「――あなたと一緒に戻れなきゃ、私達の負けになる‼︎だから走って、静‼︎」
合掌抄帷の絶叫が、叩き起こす。
――言ってくれるぜ、全く。さっきから無理難題ばっか押し付けやがって、人をなんだと思ってんだっつーんだよ……だけど、そうだな。こんな土壇場で、ようやっとここまで来て、時間切れのギブアップなんざ格好付かないにも程があるよな――
「――――っっっ」
バラバラに砕けそうな身体に、尚鞭を打つ。
もつれる脚に力を込めて、一歩でも速く、一秒でも早く。
再び正面を見据えた抄帷の目が、〝間口〟の鎖を捉える。
その現在に胸を撫で下ろしたのも束の間、表情には即座に緊張が揺り戻る。
地面から生えるように揺らめく、最後の鎖。地上から一メートル程の長さで屹立する、その頂点から。鎖は、砂のように崩れ始めていた。
――最悪の想定が当たった。やはり〝間口〟の鎖も、異形の消滅に伴って瓦解を始めている。そしてその進みは、想定よりも遥かに速い。
目視直後は一メートル程だった筈の鎖は、既にその半分ほどの体積を失っていた。
残る距離は十メートル弱。二人は互いに渾身の力を込めて地面を蹴る。
最早十センチ程までに消失した〝間口〟に、抄帷の手が掛かる。消え入りそうな鎖を掴み、抄帷は振り向きざまに叫ぶ。――そしてそれは、間一髪、間に合わないであろう距離を残し尚歩みを止めなかった花蕗静の叫びと同時であった。
「静、手を‼︎」
「手ぇ貸せ、抄帷‼︎」
――――そして、鎖は消え失せた。




