『夜の抄帷、静の先』
視界の端を、赤い風が駆ける。
精細さや流麗さの一片も含まない、粗雑で粗暴な前蹴り。それでも、待ち焦がれた少女を目前に、周囲への警戒が途切れた異形を撃ち抜くには、十分すぎる一打。形振りを構わず、勢いのまま放たれた一撃はその鳩尾を捉え、異形を後方へと退かせた。
「――はっ、舐めてっから‼︎」
埃を被り、血に塗れ。右腕は機能を失い、恐らくは体力も既に限界間際まで追い込まれながら。それでも尚、口角を上げ、目を見開き、眼前を見据える。満身創痍の花蕗静は、未だ健在であった。
「――花蕗君!」
息を切らしながら、合掌抄帷が駆け寄る。
「今し方振りじゃねーか、当事者。腹ん底からお呼びなようで、何か用かい」
視線を外すことはなく、声だけを少女へと。言葉は、常と変わらない軽口であった。だが、そこには最早隠しきれなくなった疲弊と消耗がありありと滲んでいた。
「助けて欲しい」
そんな擦り減った彼の現状、それら一切を鑑みることなく発せられた救助要請。短く言い切られた言葉に、視線の端で異形を捉えたまま、僅かに首を動かして隣に立つ姿を見やる。
「辛いと思う。でも、今あなたの力がないと、アレを止められない。だからもう一度、後一度だけ……ごめん、無理して」
視線は既に静ではなく、眼前の異形へ。その姿に硬さはなく、怯えの色も感じられない。ただただ、人ならざる異質の次の一挙手一投足を決して見逃すまいと、その姿を捉え続けていた。
決然としたその姿に、場にそぐわぬほうけ顔を晒しながら、静が数度目瞬きをした。
「さっきまでめぇめぇ泣き言吠えてたってのに、丸っ切り別人じゃねーか。それが〝助けて〟って面かよ」
「一度二度泣き言言ったから、全部諦めなきゃいけないなんて決まりなんかないでしょう。それとも、転んで立ち上がれない人の方がお好みだった?」
棘混じりの軽口をいなすでも無く、かと言って正面から受け止める訳でもなく。挑発の気配を孕んだ、軽口で返す。確かにそれは、数分前の合掌抄帷からは考えられぬ姿だった。
「――馬鹿言え、泥臭ぇのが嫌いな男の子なんざいねーよ」
「ジェンダーバイアスじゃない?それ」
「うっるせ」
そんな彼女の姿に――血の気の引いた顔のまま、それでも心底から愉快そうに静が笑う。
「一応聞くぜ。助けてってのは、こっから尻尾巻いて逃げ出す手伝いって話か?それとも――」
「――勿論、アレを止める」
束の間、地面に伏した悶えていた異形がよろよろと立ち上がる。その最中にあって尚、静は声を挙げて笑った。
「最高だな、おい。そんだけ言い切るってんなら、なんか一つくらい素敵なアイデアあるんだろうな」
笑顔は笑顔のまま。鋭利な鋒のような眼光を異形へ。
気を抜けば砕けそうな全身を奮い立たせ、残された左腕を構える。
「考えがある。けど、やって欲しい事は変わらない。――アレを、ぶっとばして」
「はっ、小難しくねーのは好きだぜ。勝算は?」
「知らない」
「上等」
短く交わされた言葉。それらが途絶えたのと、異形がおぼつかなかった足元を踏みしめたのは、ほぼ同時であった。
未だ霧散せず、顕現したままであった拘束の鎖を手繰り寄せようと、異形が腕を振るう。その動作に即座に反応した抄帷の両脚が、地面を蹴った。
「‼︎」
全速力で間合いを潰す。そもそも双方の距離が大きく離れていた訳でもなし、あっという間に抄帷の体躯は異形の懐へと潜り込んだ。
異形は動かない――否、動けなかった。
それは明らかな異常行動。本来あり得ない選択肢。
拘束から逃れるために続けられてきたこれまでの闘い、そのものを覆す逆理。
「――っ!」
抄帷の両手が、異形の胸ぐらを掴む。
意表を突き、無傷で辿り着いたこの距離感から決して離れまいという、断固たる意思表示。そんな彼女の意思も、意図も理解出来ない異形が再びその身を強張らせる。
その一瞬こそが、目的。
合掌抄帷の後方。半身だけを前に向けて振り抜かれた花蕗静の左脚が、異形の脇腹に突き刺さる。
合掌抄帷を盾にする。
合掌抄帷が選んだ策。それは奇しくも、異形と全く同じものだった。
疑問は最初――一番初めに隔絶空間へと連れ去られた時からあった。
異形の有する鎖の異能はまさに超然。そもそも、誰の手も届かぬ異界へと連れ去られたあの時点で本当は、合掌抄帷の命運は尽きていたはずだった。だが現実はそうならなかった。何故か――その問いの答えは、一つしかあり得ない。
異形にその気がなかったから。
――単に私の殺害だけが目的だったなら、チャンスは幾らでもあった。だけどそうしなかったのは、主目的が違う可能性があるという事。現にさっきも、アレは私を〝捕えよう〟としていた。アレの本心は多分、〝私を殺したくない〟。……少なくとも今はまだ。だから、その感情を利用する――!
渾身。
蝕む激痛と、失血による眩暈。襲いくるそれら全てに蓋をして蹴りを放った静は、抄帷の意図を正確に汲んでいた。事前に打ち合わせることも出来ず……採った行動それ自体も突飛であったにも関わらず、それでも。
故に、一手速い。
予想だにしない行為に対しての困惑。それに応対するための思考。それら全てを省略した花蕗静の動作の方が、異形の振り翳す凶刃よりも、一歩先を行く。
振り抜かずに引き戻された脚を軸に、静の全身がコマのように回転する。放たれるのは、追撃の後ろ回し蹴り。
この期に及んで尚、正確に制御された蹴撃は寸分違わず、再び異形の右脇腹を深々と穿った。
遂にバランスを崩した異形が、後退の仕草を見せる。後ろへ半歩後ずさる、その逃走はしかし――
――絶対に、逃がさない――!
引きちぎれそうな右腕をもう一方で抱き抱える、合掌抄帷によって阻止される。
異形から感じられる体重は、人間のそれとさして変わらない。とは言えそもそも小柄で華奢な体躯。自分より重量のある――ましてや静の蹴り、その衝撃も加わったそれらの体積を完璧に押し留めることは土台不可能。
――それでも、せめて、少しでも――!
間合いが開けば再び鎖による全方位攻撃が来るだろうことは、想像に難くない。そうなれば、最早二人に打つ手はない。合掌抄帷にそれらの異能を打ち払える力はなく、また、仮に花蕗静が単騎で生存したとしても、そこから更に戦闘を継続することは不可能。
逃すわけにはいかない。その為にも――
「――‼︎」
抄帷の表情が凍り付く。
四方に展開された異能の鎖……その鋒が、真っ直ぐ彼女を捕捉していた。
――この策に打って出た時から頭の片隅にはあった、最悪のパターン。即ち、異形が合掌抄帷への執着を捨て、諸共屠らんとその凶刃を彼女自身へと差し向ける事。
予想外だったのは、その攻撃動作に周囲の建造物や瓦礫を用いなかったこと。
至近距離故、自身をも巻き込みかねない攻撃動作を避けたのか。それとも最早、そうした物ものを利用するだけの余力が残っていなかったのか、抄帷に判断する術はない。
どちらにせよ、考えることに意味はない。
合掌抄帷がただの人間でしかない以上、放たれる異能を防ぐ手段などなにもないのだから。
揺らめいた鎖。既に片手に足るほどしか操作出来ていないそれはしかし、それでも合掌抄帷にとっては不可避。打ち払う事も、避ける事も叶わない、迎撃不可能な超能の不条理。それらが一斉に、抄帷目掛けて撃ち放たれる。その渦中にありながら、抄帷は目を閉じず、力も緩めない。ただ一つ、その脳裏には微かな思考が。
――見てろといったのはあなただ。逃すわけにはいかない。だから、その為にも――
――私を守ってみせろ、花蕗静‼︎
轟音が鳴り響く。
放たれた迎撃不可能な鎖、その全ては『故に、迎撃可能である』。
効果範囲は手の届く距離。
超能然とした奇跡も、世界を塗り替えるほどの奇蹟も伴わない。繰り出されるのは徒手空拳、持たざるものの体躯一つ。
ただし。その只中でさえあれば、あらゆる害意がその目的に到達することはない。どれだけ凶悪だろうとも、どれほど強大であろうとも。その鋒が致命に至ることは、決して無い。
それこそが、花蕗静のパラドクス。
持たざる者が、それでも何かに挑む為のか細い奇跡。
何人の侵略をも許さぬ、逆理の異能。
これこそが最後の策。
パラドクス能力が、本体の『認識』を根拠に運用されるという前提を利用して決行された、合掌抄帷の切り札。
花蕗静のパラドクスが『自らに向けられた殺意や敵意を伴った暴力』を撃ち落とす力ならば――鋒の行く末を全て『花蕗静』へと固定してしまえばいい。
―――仮に私を狙っても、その行先に花蕗静がいるならば――
「――悪意と敵意は、俺のもんだ――‼︎」
左の拳によって撃ち落とされた鎖。その間隙を縫った静の蹴りが三度、異形の脇腹へ。最初の一撃から、時間にすれば僅か十秒ほど。その間に放たれた三連撃に、異形が全ての動作を停止した。
打ち砕かれた鎖は砂のように崩れ落ち、本体頭部は天を仰ぎ見る形で硬直している。そして、その一瞬の後。
「‼︎」
抄帷の腕に絡み付いていた鎖が、その根源たる痣諸共霧散した。
「離せ‼︎抄帷‼︎」
言葉は一息に。受け取った抄帷の動作もまた、躊躇なく実行された。
隔てる壁はものは今やなく。無防備となった異形へと向けて、静が駆ける。
――考えていた事がある。
相手がもし、正真正銘の人外……もしくは紛う事なき幽霊の類であった場合、花蕗静にはそれらを行動不能にする手段が存在しない。だが、阿島京介は花蕗静に異形打倒の可能性を見出していた。それは、何故か。
三度の会敵。その経験から導き出される答えは極めて単純。そしてそれは――一番初めに静が選び取った手段と完全に同一であった。
「――……――……ぁ」
刹那。
圧縮された時間の中で、静と抄帷は確かに聞いた。
声帯などどこにも見受けられない、異形の姿から漏れ出した、末期の言葉。
「――……それ、は、ワタ、し、の――……――」
恐るべき執着から発せられた、怨嗟の未練を。
――あぁ、きっとよ。てめぇにも色々ありゃしたんだろーよ。好きでそんなナリになる奴なんざいねーよな――
静の身体が、跳ぶ。
肩口に飛びついたその両脚が、残る全ての力を込めて異形の頭部を挟み込む。
――てめぇの過去が、今が。てめぇの今日までがどんだけしんどくて、一杯一杯だったのかなんざ知りゃしねぇ。けどな、そんな全部、どれ一つもよ――
「――誰かを踏み躙っていい理由にゃなんねぇんだよ、そんなもんは――っ‼︎」
静の重心が、左手下方へと落ちていく。
締め上げた両脚は異形の頭部を決して離さぬまま、筋力と重力によって体躯は旋回する。
――人の形をしている以上、打撃は有効なはず。ならば、それ以外の物理干渉も、同じく。
鈍い金属音。
今までの轟音とは明らかな異質――それは確かに、異形の頭部が胴体から引き千切られた音だった。
「――やっぱよ、ガキの時分はなんでもやっとくもんだな」
技の名は、フライング・ヘッド・シザーズ。
逆理の異能が支配する超然の決着は、現実と地続きの一撃であった。




