合掌抄帷のパラドックス
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かけがえのない、たった一人しかいない、自分。
それを大事にできない自分の居場所は、この世界にはきっとないのだと。幼い頃からずっと、今日まで思い続けていた。
自死を選ばねばならないほどに追い詰められている訳じゃなかった。日常生活が不可能になるほど追い込まれていた訳じゃなかった。ただ漠然と、自分が他人と異なるという事実に対する緩い焦燥だけが、いつまでも胸の内に燻っていた。
良いも悪いも、正も否もない。ただ異質である、と。本当に、言語化することすら困難な、形のない陽炎のような不安感。
だから、他人から見える自分を指標にした。
〝人として〟という、ひどく大雑把な基準を遵守すること――それだけが、歪な私が辛うじて〝普通〟でいるための手段だと、そう信じ続けてきた。
「――はっ。こっから見てろってんだ――」
血塗れの体で立ち上がる。蒼白な顔には余裕の欠片もなく、言葉が虚勢であることはきっと、誰の目にも明らかだった。
それでも、彼は立ち上がった。
色濃い恐怖に震えながら。差し向けられる凶器に怯えながら。満身創痍の体躯に、それでも鞭を打って。痛みに苛まれ、疲弊に侵されたまま、それでも彼は笑ってみせた。
――花蕗静は英雄じゃない。聖人でも、ましてや超人でもない。燃え盛るような正義感も、煮えたぎるような義侠心も、きっと彼にはないのだろう。花蕗静は間違いなく、ヒーローなどではなかった。
では、何故。
それでも立ち上がるその理由はしかし、既に彼自身の口から語られていた。
助けられるから助けるのではなく。
助けたいから助けるのではなく。
ただ、自分に助けられる可能性があったから。
言葉にすれば本当に瑣末で、いっそ陳腐にすら聞こえるだろう、ただそれだけの理由、ただそれだけを胸に、彼は立ち上がった。その姿は愚かしく、不格好で。
それでも。
――てめぇを大事にするもしないも、それこそアンタ自身の自由だろ。ハッピー目指すばっかが人生でもあるまいに、やりたいようにすりゃいいし、横槍入れられる話でもねーだろ――
私はきっと変わらない。
遠い未来の話ならば露知らず。この土壇場で、これまで生きてきた生き方の全部を覆すことは、私にはできない。
それでも、見惚れた。
あり得ないような異常の下、荒唐無稽の今際の際で、それでも。そんな現実全てが霞むほど、愚かしく不格好なその姿は、どうしようもないほど気高く、眩しく見えた。
――これは一時の気の迷いなのかもしれない。異常な状況下で昂った精神に由来する、すぐに通り過ぎてしまう高揚に過ぎないのかもしれない。
それでも、この気持ちは確かに自らの内から生まれた、確かな感情だった。
自分を大事にできないままで構わない。
選んだこれまでが失敗だったとしても、いい。
それでも選べるなら。
歪が歪のまま、それでもいいというのなら。
私は、花蕗静のように生きてみたいと。
確かに強く、そう思った。
――――
轟音が唸りを挙げる。
逃げ込んだ脇道、左右の建物の壁が崩落する。その理由は、最早確認するまでもなかった。
「――合掌‼︎」
咄嗟の動作だったのだろう。未だ動く左手で、花蕗静が合掌抄帷を通りの中央へと突き飛ばす。
「――花蕗君‼︎」
崩落した瓦礫が二人の間を分断する。尻餅をつきながら、抄帷が顔を上げる。瓦礫そのものと、巻き上がる土煙によって抄帷は静の姿を確認することは出来なくなっていた。
「――――っ!」
その身を案じ、崩落の現場へと駆け寄ろうと立ち上がる。だが、その足が踏み出されることはなかった。
歩道の中央。揺らめく鎖を蠢かせ、異形は尚そこに立ちはだかっていた。
未だおぼつかない足取りで、ゆっくりと抄帷へと歩み寄り、距離を詰める。その姿を真っ直ぐに見据えてから――抄帷はゆっくり目を閉じる。
私が犠牲になれば。
私なんかどうなっても。
私が、私が、私、わたし。
「――冗談じゃない」
自らへと向けて、小さく呟く。
それらは全て、自己犠牲などという高尚な代物ではなかった。その先、その後を何一つ考えないただの思考停止、現実逃避。自分のことなんて大事じゃない癖に、考えているのは自分のことばかり。なんと愚かしいパラドックスなのか。
私ではない誰かが新たな犠牲者になるかもしれない。
そしてまた、不条理に傷つけられるかもしれない。
私から始まったこの闘いは、もう私だけのものじゃない。
無力も無知も承知で足を踏み入れたなら投げ出すな。
自己満足の降伏なんかいらない。
敵う敵わないも関係無い。
見知らぬ誰かを救ってみせろ。
この凶刃がもう二度と、誰にも向けられぬように。
抗え。退くな。
私の勝手で、私自身を投げ出すな。
「――――」
震える手も、怯える心も。だからこそ、今立ち向かうための後ろ盾に。花蕗静も感じたであろう恐れを、同じように踏み抜いてみせる――
ゆらりと、異形の右腕が正面へと突き出される。その動作に呼応するように、抄帷の右腕を絡めとる鎖が顕現する。
攻撃動作に用いられたこれまでのものとは異なる、マーキング対象を拘束するための鎖。その形を抄帷が視認したのとほぼ同時、それが力任せに引き寄せられる。自らの手元へ、求めた少女を手中に収めるために。
「――――っ‼︎」
抄帷が両脚を肩幅まで広げ、渾身の力を以てこれに抗う。細やかで、その場しのぎに過ぎない――しかし確かに、はじめて明確に示された抵抗の意思表示。
――やるべきことは決めた。なすべきことも見定めた。だが、覚悟を決めたところで合掌抄帷に都合良く、異形を打倒する力が宿るわけでもない。一人では、手も足も出ない。
――だから、信じる。
無茶は承知。無理を言ってることなど、言われなくたってわかってる。そもそもこの期に及んで他力本願など、全く格好付かないことこの上ない。だけど、それを無様だとは思わない。悪いことだなんて、全く思いもしない。
――適材適所とはまさに、彼自身の言葉なのだから。
「――――っ」
手繰り寄せようとする力は、昨日味わったそれよりも遥かに弱々しいものだった。それでも、華奢な体躯の抄帷とは当然比較にもならず、この拮抗は瞬きの間に崩壊するだろう。
声を出そうともがく。けれど、渾身の力を込めた口元の歯は食いしばられ、目的の言葉を吐き出せずにいた。嗚咽のような呻きばかりが漏れ出す自身の非力を呪いながら――けれどそれすら今は煩わしいと、必死に思考を巡らせる。
歯を食いしばったまま叫ぶ。そのために最適な言葉を、模索して模索して――見出す。
――見知らぬ誰かを救う。そんな生き方をしてみたいと思った。そうやって生きた先に、こんな自分でも居ていいと思える場所があるのかを知りたくなった。だから今こそ。今だからこそ。
「――――静ぁぁぁぁぁっ‼︎‼︎」
私を、助けて。
「――んなでけぇ声じゃなくても、聞こえるってんだよ」




