『今際』
肩から下、腕がまるまる燃え上がっている。
明滅する意識の只中。花蕗静はそんなあり得ない状況を半ば確信していた。それほどに、襲いくる痛みは苛烈であり、これまで一度たりとも味わったことのない類の代物であった。
明滅する意識に、ぼやけた視界。
投げ出された五体は全身余すことなく激痛が走り、身を捩るだけの動作にも耐え難い苦悶を伴った。そんな只中で、自らの右腕を見て――再び静は絶句した。
右腕が、真っ赤に染まっていた。
眼を覆いたくなるほどの夥しい出血。加えて打撃による骨折。甚大と言うにも生温い、常軌を逸した負傷であった。
「――花蕗君!花蕗君‼︎」
切り裂く様な叫び。それは、遂に今日まで……自らの窮地において一度も発せられることのなかった、合掌抄帷の悲鳴だった。
うつ伏せに倒れていたらしい身体をのろのろと起こし、顔を上げる。そこに居たのは、初めて見る表情の少女であった。
絶望と恐怖。混乱と困惑。それら全部をないまぜにしたような、悲痛な表情。大きく見開かれた目――見れば唇はわなわなと震えていた。
徹頭徹尾、出会ったその日から人形の様な無表情を貫いてきた彼女の初めて見る姿から逆算して、花蕗静は自らの現状が極めて深刻であることを再認識した。
――大したこっちゃねーぜ、こんなもん――
軽口を叩こうにも、声が出ない。口はぱくぱくと開閉するばかりで、言葉らしい言葉を紡ぐには至らない。
とにかく立ち上がらなければ。思い、身体を起こそうと無意識に利き手……血塗れの右腕を地面へと突く。
「――――‼︎‼︎‼︎」
肘から下が爆発した様な激痛に身体がこわばる。そしてそのまま、静は再び地面に突っ伏す。
「花蕗君‼︎花蕗君‼︎」
悲鳴は既に嗚咽に近い響きへと変わっていた。
耳鳴りやまぬ耳で、その声を聞きながら。静が再び立ちあがろうと、今度は左腕を地面に突く。
何か、精緻な思考がそこにあったわけではなかった。そもそもそんな余力など到底、微塵もありはしなかったのだから。それでも立ちあがろうともがいた、その動機は本当に瑣末なもので。
――いつまでもそんな面ぁ、させっぱなしって訳にもいかねーよなぁ――
正義感も、義務感も。伴う思考など何もなく。ただただ、そんな瑣末で稚拙な思い一つで、その身を起こそうと力を込める。
だが。
それを、異形の凶刃が許さない。
しなる鞭のように振り抜かれた鎖が、静の腹部を側面から撃ち抜く。その衝撃に耐えられる訳もなく、静の身体は数メートルほど吹き飛ばされた。
「――――っ」
痛みも、負傷も。とっくに限界など超えていた。最早声の一つも出せず、仰向けに転がった先で指一つ動かせず。花蕗静にこれ以上、なす術はなかった。
金属音が鳴り響く。
足元のおぼつかない様子の〝鎖〟の異形がそれでも、ゆらりと花蕗静へと向けてその歩みを進める。近寄るその目的など、火を見るより明らかだった。
ゆらりと、鎖が揺れる。その鋒が、花蕗静を捕捉する。
穿たれる次の一撃。それよりも早く、
「やめて‼︎」
静と異形の間へと飛び出し、両腕を広げた合掌抄帷の叫びが響いた。
「――あなたの目的は私ですよね。私のことは好きにしていいです。だからこれ以上、もうこれ以上彼に危害を加えないでください。お願いします、お願いします――」
異形の動きが止まる。
揺らめいていた鎖は異形の下へと戻り、崩れかけた人型の姿を再構築する。
取り繕われた人間の偽装。その足がゆっくりと進み、その手が抄帷へと伸ばされる。
抄帷は抵抗しない。
既にその意思の欠片すら、彼女の内には残っていなかった。
自らを愛せない異常者。
人の振りをするばかりの人形。
その身の丈にそぐわず、考えもなしに他者に救いを求めた愚か者。そんな自身が招いた、花蕗静の想像を絶する負傷。
責任を取らなければならない。
彼女の内に残されていたのは、からっぽの諦観だけだった。
――――
これが、結末。
無力な子供が、分不相応な綺麗事を叶えようと挑み破れた、なんら変わり映えしない現実。
覆ることのない、ただの結果。
短い日々の、ここが終着点。
――――
「――ふざけてんなよ、くそったれ」
合掌抄帷のすぐ横を一撃、蹴りが飛ぶ。
目的としていた少女を目前に生まれた、あまりにも分かり易い油断。その隙を突く、破れかぶれの一撃。先程までの流れるような動作の面影もない、無骨で乱雑な前蹴り。
だが、その効果は絶大であった。予想だにしていなかった一撃だったのだろう、異形は地面をゴロゴロと転がるばかりで立ち上がる素振りをすぐには見せなかった。
抄帷が大きく眼を見開いて後方へと視線を向ける。
右半身を真っ赤に染めて。血の気の引いた真っ青な顔に、山程冷や汗を浮かべ。それでも歯を食いしばり、今もう一度だけ立ち上がった花蕗静が、そこにいた。
「――っ、一回、身ぃ隠すぞ!走れ!」
言って、まだ動く左手で抄帷の手を掴み、静が駆け出す。その動作を咎めることも、止めることもできないまま。抄帷は促されるままその後を追った。
一分ほどを走った先、脇道に入り身を隠してようやく静が力無く腰を落とした。
「これで、ちったぁ、場も持つだ、ろ、糞が――」
言いながら、制服の学ランを脱ぎ、その袖を使い血塗れの腕を首から吊るすように器用に固定した。
「ガキの時に鉄棒から落っこちてな、その時とった、杵柄だ。なんでも経験、しとく、もんだぜ――っ」
言いながら、荒れた呼吸を必死で落ち着かせようと試みる。当然そう容易くはいかず、痛みに蝕まれた浅い呼吸が続く。その痛ましい姿に抄帷が、
「ごめん、なさい」
震える声で、謝罪の言葉を口にした。
「わ、私のせいで花蕗君のう、腕が――」
これに静は、青ざめた顔のまま不敵に笑って見せた。
「ありゃ、俺の、見込みが甘かったぜ。アンタが、来たくて来た、訳じゃ、ねーだろ」
「それは――でも、だけど、もう――」
「それによ、リトルガール。アンタの、言ってた通りって、話だ。こんくらいは、よ。バチっと、ひっくり返して、ガッとやってやんだよ――男の子、だからな、こちとら」
「だけど、でも、だけど――」
抄帷が膝から崩れ落ちる。そして、静の左の袖口を弱々しく掴む。そのまま絞り出すように、言葉を。
「――もう、いいよ」
諦めの言葉を、口にした。
「私のせいっていうのは、別に今この瞬間だけじゃなくて。最初からここまでずっと、私のせいで色んな人に迷惑をかけて、花蕗君にも大怪我させて。だから、ありがとう。もういいよ、ごめんね。ごめんなさい――」
抄帷は、小さく笑っていた。
今まで一度も静に見せたことのない、笑顔。
全てを諦めた弱々しい、笑顔。
「――――」
静が、袖口を掴んでいた抄帷の手を振り払う。
そしてそのまま、その手で。
抄帷の胸ぐらを掴み上げた。
「俺が未だ、卓に残ってるのに!アンタが勝手に、アンタを諦めてんじゃねぇよ‼︎」
そんな体力の余裕があるわけが無い。
そんな必然性がある訳も無い。
それでも渾身の力を込めて、全霊を以て。
静は、抄帷へと言葉を伝える。
「アンタはしくじったかも知らねぇ!俺だってそうだ!けどな、そんだけだ!けどな、だからアンタが悪かったです、なんて道理があってたまるかよ‼︎」
――そうだ。
彼は。花蕗静はずっと、今と同じ事を言い続けてきた。
「アンタがアンタを大事にできないのは構わねぇ!だからって、他人がアンタを好きにしていい理由にゃなんねーんだよ、そんなもんは‼︎ だから、何度だって言うぞ」
巻き込まれた自分がどれだけの痛手を負おうと。
状況が救い難く、困難に陥ろうと。
たった一つ、同じ事だけを。
「アンタが俺のとこに来てから、今この瞬間まで! アンタが悪かったことなんざ一度もなかったし、アンタが謝んなきゃなんねーことなんざひとつもなかった‼︎ だから、中途半端で、アンタが勝手にアンタを、投げ出すんじゃねぇ‼︎」
――――
ずっと。
ずっと、同じ事を。
彼は、私に伝え続けてくれていた。




