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『間際』

 耳元で唸りを上げる金属音。それは、この世ならざる異能の呼鈴。轟音は即座に止み、次の瞬間広がるのは水を打ったような静寂。数多あった人の姿は一つ残らず掻き消え、見渡す限りの景色には薄暗い闇が蔓延っていた。

 隔絶空間。鎖の男のパラドクスを介して侵入した、現実世界と同じ景観を持った異界。

 澱んだ空気を頬に感じながら、花蕗静が顔を上げる。間髪入れず、彼は自らの内心で前言を撤回した。


 薄暗い闇だけが蔓延る、異質な静寂。そのしじまの先に一つ、やはり異形の影があった。


 人間に近しい姿をしていた。

 黒のTシャツにデニムのエプロン、白のワークパンツにスニーカー。どこまでも凡庸で、ありきたりな装い。ただし、その中身は人の形を保っていなかった。

 本来頭があるべき場所からは無数の鎖が、まるで生き物の様にうねうねと蠢き。露出している両手もまた同様、辛うじて人間の輪郭にこそ収まってはいるものの、手先は鈍色の鎖として揺らめいていた。一目で、それは明らかに人間の姿ではなかった。


 風に揺れる案山子のように、意思を感じさせないまま屹立する人外。その姿を目視した花蕗静の胸中に去来したのは、一欠片の安堵であった。


 ――知らん人間ボカスカ殴り飛ばすよりゃ、随分気が楽でいいぜ。面がどこかは知らねーが、足腰立たなくなるまで度突き回してやるよ――!


 逡巡とも呼べぬ、一瞬の思考。その終わりを待つことなく、花蕗静が駆ける。形振りも後先も考えず、最短距離を最高速度で。


 策と呼べる策を、花蕗静は用意などしていなかった。

 そもそも彼のパラドクスは基本的に受け身の能力。接敵した相手を無条件で制圧するような仕様の力ではない。なればこそ、とるべき手段は一つしかなかった。

 自らの能力を以て、阻まんとするあらゆる攻撃動作を無力化しつつの近接格闘。花蕗静はただ一点、その一動作にのみ自らの勝機を見出していた。


 痙攣するように、鎖の異形の全身が大きく震えた。

 それがなにがしかの感知か、それとも単なる反応によるものかは知る由もない。だが、その一秒後。四方へ、爆散するが如く伸びた鎖は明確な敵意を伴って、花蕗静へと襲いかかった。


 都合三度目の体験。この世ならざる異形の鎖が、生身の自身へと差し向けられる、異常。そんな異質に、そう慣れる訳もなく。ほんの僅か気を緩めれば、本能的な恐怖は足を止めるに足るだろう。


 ——それでも。


 花蕗静の両腕が跳ぶ。

 周囲諸共その肢体を引き千切らんと迫る数多の鎖は、そのどれ一つをとっても彼の首には掛からない。そしてそれ故に、花蕗静の疾走は決して止まることがない。

 恐怖も、躊躇も呑み込んで放たれる逆理の拳が、全ての鎖を撃ち落とす。


 そして、最後の一歩は呆気なく訪れる。


 侵入時、花蕗静と鎖の異形との間に横たわっていた十数メートルの距離はあっという間に潰れ。半歩身を乗り出して腕を伸ばせば、互いの首に腕が掛かるまでに彼らは接近していた。


 異形の動作がぴたりと止まる。

 人の様相からは遠く外れたその外観からは、当然一切の思考を推し量ることが出来ない。だからこそ、静は止まらない。


 ——同じ轍踏むと思ってくれんなよ、幽霊野郎——


 先の戦闘において、花蕗静は自らの能力……その致命的な欠点を露呈している。

 それは、能力の適用基準が〝破壊〟ではなく〝無力化〟である点。

 鎖による強襲のように、打拳によって打ち払う事が出来る類の攻撃ならば問題はない。だが、圧力が継続される……〝押し付けるような〟攻撃となれば話は変わってくる。


 周辺には瓦礫の山。その中には、花蕗静の体躯よりも巨大な岩塊も存在している。それらを用いて二方向から攻撃され両の腕を封じられれば、三撃目を防ぐ手立てはない。


 想定される大きな問題は二つ。

 一つは、その致命的欠陥を〝鎖〟が認知している可能性。花蕗静のパラドクスを正確に把握していなくとも、晒した弱点を〝鎖〟が理解していないと言い切れる根拠はどこにも無い。そして当然、理解が及んでいれば同じ方法で花蕗静の制圧を試みることも、想像に難くはなかった。

 そしてもう一つは、そうした手段に打って出られた場合——花蕗静には、その動作を阻止する術が存在しないこと。


 故にこその超近接。

 接触面積の大きな攻撃を実行すれば自らも巻き込まれる位置まで距離を寄せることで、それを封殺する。無論、自爆覚悟の攻撃動作を繰り出されれば対処不可能だが、それはそもそも状況に依らず対応出来ない代物。静は最初から、相手の玉砕の線は思考から外していた。

 実行されれば一巻の終わり。そう割り切っていたことも、花蕗静の動作から躊躇を取り払う大きな要素の一つだった。


 放たれる二本の鎖。それらは真っ直ぐ、花蕗静の顔面を穿たんと迫り来る。

 だが、叶わない。花蕗静のパラドクスは、鎖による攻撃の一切を寄せ付けることはなかった。事〝鎖〟による直接攻撃相手において、花蕗静は完璧な優位であった。


 ぐるりと、花蕗静が体を捻る。

 両の拳は防御動作に割かれている。必然、攻撃動作は——脚。

 左足を軸に放たれる、胴元目掛けた後ろ回し蹴り。素人動作ながら、素の身体能力にモノを言わせた出だしの速いその一撃は、容易く異形を捉えた。

 激しく蹴り飛ばされ、異形がたたらを踏む。その姿と、今し方自らの脚に走った感触から、花蕗静は自らの予想が当たったことを確信した。


 異質な鎖をあやつり、岩塊すら打ち砕く超能を有しながらしかし、異形それ自体の身体能力は決して高く無い。

 先の二度の交戦の際にも感じていたその感覚は、今遂に確信へと形を変えた。

 端的に。ただの殴り合いであれば花蕗静に分がある。

 そして——静にとっては喜ばしい誤算もまた、その信憑性を大きく増した。


 ——やっぱ弱ってやがんな、こいつ。さっきの阿島さんの拳骨がてきめん効いてやがるんだ——


 差し向けられる鎖の速度が、先ほどの交戦時よりも明らかに遅くなっていた。本数自体も少なく、加えて先の二回の交戦時に使用していた〝不可視〟の鎖を、異形は未だ一度も使っていない。


 度重なる空振りに業を煮やしたと取れなくも無いが、花蕗静のパラドクスの仔細が不明であるならば、意図して〝不可視〟を使わないという選択がなされるとは考え難い。

 幾つかの体感と事実を以て、花蕗静は異形の弱体化を確信した。


 勿論、それらは確定的なものではない。根拠はあくまで静の体感でしかなく、絶対を保証出来る要素はどこにもない。だが同時に、その真偽を詳らかにする術もまた、ない。


 故に、尚攻める。


 ——考えてもしょうがねぇ事にぐだぐだ頭回してる余裕なんざ、こっちにだってねーんだよ。だったら後は、行くとこまで行くしかねーだろ——!


 戻した蹴り足を大きく前へ。踏み出したその脚を軸に、逆脚で追撃の蹴りを放つ。間合いを開けず、常に超近接距離を維持しての連撃。流れるように放たれたそれらは、明らかな負傷を異形へ与えていた。


 辛うじて人の輪郭に収まった身体をくの字に折り、悶えるようにふらふらとよろめく。それは明らかな、悶絶の様相だった。


 ——人間の面ぁしてねぇのは、やっぱラッキーだな。お陰様で遠慮なく、しこたまぶちこめるぜ——!


 体力が続く限り。

 パラドクスが持続する限り。

 そして、異形を打倒する、その瞬間まで。静は攻撃の手を緩めるつもりは一切なかった。

 刹那開いた間合いを一歩で潰し、更なる追撃を放とうと腰を回す。


 その動作はしかし、再び爆散した鎖の奔流によって中断を余儀無くされた。


 明らかに先ほどよりも広範囲——周囲を薙ぎ払うかのように展開される無数の鎖。至近距離に身を置く静には、それらの鋒を個別に視認することが出来なかった。


 ——っつっても関係ねーけどな‼︎——


 静のパラドクスは視覚に頼らない。

 仮に死角からだろうと、対応不可能な速度であろうと、そこに害意が介在するならば、それらは全て迎撃対象。歩みを止める要因にはなり得ない。


 荒れ狂う鎖の暴風。その中心にあって尚退かず。花蕗静が次なる一歩を踏み込む。


 

 金属音が鳴り響く。

 一本の鎖が、静の眼前へと向けられた。



「——は?」



 花蕗静が、絶句する。

 眼前に突き出された鎖。そこに絡め取られた、人間大の何か。


 押し寄せる濁流の如き鎖。それらを用いて周囲の物体を利用してくる——それは想定範囲内の攻撃手段。故に、それだけならば、言葉を失い身を強張らせる理由には到底ならない。


 しかしそれは、決して瓦礫や岩塊などではなかった。



「——合掌!?」


 全身を鎖に絡め取られ、苦悶の表情のまま目を見開いた——合掌抄帷がそこにいた。


 瞬間、静は理解する。今し方から、たった今。明らかに見当違いな方向へと広範囲に渡って伸ばされた鎖の、その目的を。


 ——合掌は馬鹿じゃねぇ。てめぇがココに引き摺り込まれりゃ状況が悪くなるなんざ、絶対にわかってたはずだ。アイツがむざむざ〝間口〟に寄る訳ねぇ。だから無理矢理探し当てる為に鎖をばら撒いたんだ。俺からの盾に使う為に——


 敵意を自動迎撃する花蕗静のパラドクスにおいて、敵意を以て差し向けられた〝人間〟の取り扱いがどうなるのか。他の物質と同じ様に無力化前提で打ち払われるのか、それとも効果対象外としてスルーされるのか。答えは、静自身にもわからない。

 だがもし仮に前者であった場合。迎撃動作が静の肉体を駆動することで実行される以上、人外じみた速度の打拳はそのまま合掌抄帷を撃ち抜くだろう。その威力は果たして〝無効化〟の範疇内で収まるものなのか——これも、答えはわからない。

「——っ糞が——!!」


 拳が解かれる。

 両腕を広げ、勢い良く放り出された抄帷を抱き止めながら、静は歯を食いしばる。


 絶対堅守。

 あらゆる敵意を打ち払う花蕗静のパラドクスは今この瞬間、解除された。そしてその一瞬に、異形の鎖が届いた。


 ——————‼︎


 轟音と共に、花蕗静の身体が大きく跳ねた。

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