『開門』
――菅野友尚。その生涯を、あえて言葉にして言い表すならば、それは〝凡庸〟の一語に尽きる。
『地元の高校を卒業後、実家が営んでいたパン屋にて働き始める。五年前に両親が亡くなってからは、店主として店を切り盛りしていた。自身の奥様と二人でね』
生真面目で勤勉。表立った悪癖や悪評がある訳でもない、地元のパン屋の店主。そんな彼の、隠匿され続けた本性が詳らかになったのは、半年ほど前。
「――痴漢?」
『あぁ。私用で乗り合わせた電車内でね、相手方の女子高生が声を挙げて捕物に発展……ま、よくあると言えばある話だね。ただ実際、これは冤罪でね。同乗した複数人の証言から濡れ衣は立証され、めでたく無罪放免となった訳だ』
しかし、騒動には更なる顛末が存在した。
『被害を訴え出た女子高生が、彼の娘さんと同級生だったんだよ』
「うわ、糞複雑。年頃の娘っ子にすりゃ、耳にも入れたくねー話だな」
『ところが随分と出来た娘さんだったらしくてね。騒動の前後を通して、彼と彼女の関係は良好だったらしい。もっとも、後々を考えれば最初の騒動の際にちゃんと捕まっておくべきだったとも思うけどね』
「含みがあるな。どういうこったよ」
『冤罪は、冤罪じゃなかったのさ』
件の痴漢騒ぎ以降直接的な物理接触は避け、もっぱら実行に移されたのは盗撮の数々であった。
出先で。あるいは自らの営む店先で。その標的は、女子高生。特に制服姿を好み、菅野は犯行を繰り返していた。
だが、それも長くは続かない。
娘と妻。偏執的なその本性が家族に露呈するのは、最早必然であった。
『見付けたのは奥様だったらしい。娘とは違い、彼女の方は最初の騒動以降……いや、以前かな。とにかく自身の夫に対して少なからず猜疑心はあったんだろうね』
「聞くに堪えねーな。それで嫁子供が実家に帰らせていただきますした訳か」
『大枠はね。君からもらった情報に合致してかつ、時系列的にも内容的にもきな臭いのは件の彼だけだったね……ただし、ちょっとばかり想定外はあったけど』
「想定外、ですか?」
『――故人なんだよ。この菅野って男』
「……なんだって?」
未成年者に対しての性加害。本来法の下で厳粛に罰せられるべきその身はしかし、自ら招いた破滅に耐えられなかった。
「――胸糞だな。手前勝手にやるだけやって、んなもん同情も出来ねーよ」
『それは同感。けどとりあえず、今の本筋はそこじゃない――だろ?』
「……って言ってもなぁ」
静が頭を掻きながら、ちらと抄帷を見やる。彼女もまた、今し方語られた聞くに堪えぬ犯罪者の末期と、自身らが今置かれている状況とを結びつけることが出来ず、困惑した様子であった。
「本当に怖いのは人間でした、的な話としちゃ面白かったけどよ。お生憎、例の変態の件ならもう――」
見つかった。そう言いかけた静の口が、止まった。
〝幽霊を見つけ出すとは。流石ゴーストスイパー〟
恐らく。遠野の言葉自体に、深い意味はない。慣れ親しんだ関係性から溢れた、些細な軽口。合掌抄帷を付け狙っていた変質者が、本当にこの世ならざる何者かであるなどと、遠野自身も思ってはいまい。
ただ一つ。大きな問題が、たった一つ。
――本当だったら?
「――花蕗君?」
静が口元を押さえ、黙り込む。その姿を案じて、抄帷は声を掛けるが、返答はない。代わりに、雑然と散らばった思考を整理するように、彼の口からはいくつかの断片的な情報が小さな呟きとして漏れ出した。
「――幽霊、マーキング、女子校生、パン屋、娘、パラドクス、逆説……逆……逆――――」
静の顔が青ざめる。同時に、彼の呟きを間近で聞いていた抄帷もまた同じように、愕然と目を見開く。
「―合掌」
「――はい」
応える抄帷の声にも、明らかな緊張の色があった。だが、そんな彼女の心情を慮る余裕は、今の静にはない。
「――珍しく朝飯がパンだった、って話があったな。それ、どこで買った?スーパーやコンビニか?」
「……出先でたまたま通りかかったパン屋。母がパンが好きで、その日の夜の間食を買うついでに、翌朝食分も、と……」
「この近くか?」
「ここからだったら、歩いて10分ちょっとだから……1キロくらい」
「……その店の、名前はわかるか?」
「……覚えてる。店の名前は――」
『〝サンセッテ〟、だったりするかい?』
抄帷の表情が、今までで最も激しい動揺を示す。そしてそれは、静もまた同じであった。
「念の為に聞いとくけどよ、遠野。菅野のやってたパン屋って、今どーなってるんだ?」
『……もぬけの殻さ。店主は自死、妻と娘も離散だからね。建物こそ残っているけれど、中身は伽藍堂だよ』
「――――合掌!明智さんへ!」
「はい!」
遠野が言い終わるや、静が吠える。その意図を正確に汲んだ抄帷が、自らのスマートフォンを取り出し、取っておいた名刺を頼りに明智小理へと通話を掛ける。
動作を視線の片隅に収めつつ、静は遠野へと言葉を投げる。
「悪ぃ遠野、急用だ!事が終わりゃ今度こそちゃんと礼するから、今は切るぞ!」
逼迫したその声色に動じるでもなく。それでも、その緊急性を察した遠野が、
『この期に及んで、だけどね。こっちはこっちでもう少し探り入れておくよ――気をつけろよ、静』
言って、先んじて通話を切った。
「――明智さん、合掌です」
丁度そのタイミングで、抄帷の通話が小理へと繋がった。
その様子を確認した静が、抄帷からスマートフォンを受け取る。
「明智さん悪ぃ、阿島さんにも聞こえるように出来るか!?」
『へ、花蕗さん?いや、出来るっすけど――っと、オッケーっす。どうしたんすか、そんな慌てて』
阿島京介のパラドクスは〝感知〟。
静達の無事を、随時確認しながらの道中であったのだろう。小理の声色は困惑していた。そんな彼女へと向けて、静が声を張る。
「逆だったんだよ、全部!」
『――えぇ?』
言葉の意味を測りかねて、小理が言い淀む。そんな彼女に代わり、阿島京介が疑念の先を引き継ぐ。
『どういうことか説明出来るか?』
言葉に、静と抄帷が目を見合わせ、互いに軽く頷く。最悪の想定は既に、二人にとっての共通認識となっていた。
「今向かってる先のドッペルゲンガーは本体じゃねぇ!というより、こっち側に本体は居ねーんだ!」
『……何?』
「野朗は端からずっとあっち側に居たんだよ!俺らの考え方自体が間違ってたんだ、アイツのパラドクスに本体なんざ居なかったんだよ!」
現実世界から異界へ。出入りし、対象を同じく隔絶空間へと誘致するのではなく、そもそも本体は常に隔絶空間に存在しており、現実世界の対象を引き摺り込む。
痣は誘致に必要なマーキングではなかった。
隔絶空間へと足を踏み入れた者にのみ刻まれる烙印だったのだ。
そして。仮定が正しいとすれば、大きな問題が浮上する。
――阿島京介達は、一体何者のもとへと向かっているのか。
「――デコイだ、阿島さん!」




