『望遠』
「――怒って、ないの」
言葉がこの場に相応しくないと、言った直後に後悔の念に苛まれる。何故ならそれは、決して確認の為のものではなく、
「何にだよ。エグい解釈するじゃねーかよ」
彼ならば。――花蕗静ならそう答えるであろうことがわかっていながら。それでも彼自身にそれを言語化させた、あまりにも卑怯な、自己保身だったから。
「マジで、変な意味付けがあった訳じゃねーよ。ただ、アンタはそういう感じの人間なんだなって思ったーってだけ。他人様が好き勝手言ってるだけの口コミみたいなもんさ……タイミングが糞だったのは認める。それに関しては、悪ぃ」
「そんなことはない、けど」
自分を大事にするべきだ。
この世界に一人しかいない、かけがえのない存在だから。
折に触れ、幼い頃から言い聞かされてきたその言説が理解出来たと思える瞬間は、遂に今日まで訪れることがなかった。
自身を含めた全ての人間は押し並べて等価値。ただ、だからこそ……理解出来ないからこそ、そうであるべきだと自分を律してきた。
だから、助けを求めた。
実害はなく、捨て置いても構わなかった。そんな自らを襲った異様を解きほぐすために、彼……花蕗静に。
「――花蕗君、もう一度一つ、聞いてもいい?」
「なんなりと、お嬢様」
「自分を大事に……大切に思えないのは、やっぱり〝人間〟としておかしいのかな」
尋ねた理由は、合掌抄帷自身にもわからなかった。
これまでそうして生きてきた。
これからもこうして生きていくだろう。
〝人間〟というカテゴリ。〝常識〟という枠組。その中で〝こうあるべき〟という言説に縛られながら、普通を演じ、社会に溶け込む。
――こんなことを尋ねるべきではない。
本来あり得ぬイレギュラー……異常の際にてたまたま僅か歩みを共にしただけの、赤の他人。その過去も、正確な人間性も把握出来ていない、見知らぬ男。そんな人間に、本筋とは関係ない自らの内面にまつわる問いを投げかけるなどというのは、全く合理的ではない。
それでも、聞いてみたいと思った。
あの時目前で……或いはたった今し方、この眼の届かぬ最中で。誇張ではなく、自身の命すらを賭してこの身を守ろうと奮起した、この赤の他人から。
遂に今日まで誰にも打ち明けることのなかった問いの答えを、花蕗静の口から。
否定か。肯定か。彼がどちらを選び取るのか、合掌抄帷には予想もつかなかった。そんな彼女の逡巡はしかし、
「いや、知らん。後、主語がでけぇ」
そのどちらでもない言葉に、一蹴された。
「いつかの焼き直しだな。人間かくあるべき、みてーな哲学がやりてーんなら、頼る相手間違ってるぜ。有識者でも見識者でもねー人間に手綱握らせるなんざ、ほとほと馬鹿げた話だ」
それは、出会ったあの日。自身を頼ってきた合掌抄帷へと向けた自らの言を引用した言葉。
「人様に迷惑、とか。後はそうな、アンタとご両親との関係性は知らねーけど、まぁそこら辺に気ぃ回してるとかってのは一先ず置いといて、だ。てめぇを大事にするもしないも、それこそアンタ自身の自由だろ。ハッピー目指すばっかが人生でもあるまいに、やりたいようにすりゃいいし、横槍入れられる話でもねーだろ」
「……でも、それじゃあまるで――」
――異質ではないか。
言葉はその続きを形にするのを嫌って途切れた。
異常であること。あるいは異端であることを声高に、誰かと比較してアイデンティティに据える感受性など持ち合わせてはいない。自らを異常者であると認めることこそ、合掌抄帷にとっては最大の禁忌だった。
そんな積年の、思い悩んだ自らの内面をしかし、
「だったらどうしたって話だろ。仮にアンタが取り返しのつかねーサイコ野郎だったとしても、誰にも迷惑かけてねーってんなら、一向に大した話じゃねーよ」
否定も、肯定もせず。花蕗静は、ただ〝そういう人間もいる〟という、呆気ない言葉で『認めた』。
「勿論俺らは法治国家育ちだから、蛮族みてーにやりたい放題やることの免罪符には出来ねーだろうがよ。てめぇを大事に出来なくても、誰かを大切に思えなくても。そんなもん抱え込んで生きてるってだけの事を、他人にとやかく言われる筋合いなんかどこにもないぜ」
そこまで言い切って、一度視線を外して身体を伸ばす。
脱力し、再び視線を抄帷へと向けた静が悪戯っぽく笑う。
「第一てめぇを大事に出来ねー程度でイカれ自称するなんざ、それこそ大仰過ぎるぜ。そんなガバい判定横行したら、我が国は瞬きの間に魔窟になっちまうぜ」
おどけたようなその姿をどう飲み下せばいいのかわからず、抄帷は再び口を噤む。それほどに、言い放たれたそれらは彼女の想定の外側の思考だった。
だがやがて、ぽつりと。
「もしかしたら私は、助けてほしいだなんて大して思ってなかったのかもしれない」
今日までの前提に唾を吐く自らの本心が、彼女の口から溢れた。
「かも知らんな。ま、それこそ今更だけどな」
「そこまでわかってて、じゃあなんで。花蕗君は――」
助けることをやめなかったのか。その言葉が形になるよりも早く、
「それこそ今更過ぎるぜ。俺もアンタも、今やめでたく当事者同士だ。口火は流れで首突っ込んだだけでも、ここまで来て一人芋引いてられるかってんだ」
助けていた訳じゃない、と。その一点だけは明確に、花蕗静は否定の言葉を口にした。
「――――そっか」
長い沈黙を経たからといって、湧き立った疑念や積年の想いが解きほぐれるだなんてことはない。
それでも少しだけ。ざっくばらんに放たれたいくつかの言葉に、心が軽くなり。手前勝手に救われてしまったような心持ちに、また僅かばかり後ろめたさを感じる。
それでも、今この場において改めて、そんな言葉を口にしようとは到底思えぬ自身の内心が、会話の後先で変わった結果なのか否なのか。それすら、今の抄帷には判断できなかった。
「ま、言ってもこっちはとんと蚊帳の外だ。芋引くどころか、格好の一つもつかねーんだから締まらねー話だよなってのが今回のオチだな」
故に。今この場においてこれ以上、自らの心の内を探る事を抄帷はしなかった。その代わりという訳でもなかったが、相変わらずこの話題については不満げな顔を見せる静へと向けて、
「確かに。当事者二人共々除け者なんだからね」
なんて軽口を叩くに留めた。
「違いねーな……っと」
同意を示した矢先、ポケットを漁る仕草。
取り出されたスマートフォンのディスプレイを見て、静がやや複雑そうに眉を顰めた。
この状況での連絡。相手に一人、抄帷も心当たりがあった。
『まだ生きてるかい、静』
第一声を聞くや、静が通話をスピーカーへと切り替える。そのまま顎で、抄帷を促す。
「お疲れ様です、遠野さん」
意図を汲み取り、持ち主の代わりに挨拶を。これを受けてしかし、通話越しの遠野の声に驚いた様子は微塵もなかった。
『あぁ、合掌さん。合流出来たようでなによりだ。そちらの二枚舌も変わらずかな』
「お陰様で元気にしてるよ……このタイミングで連絡ってことは、もうなんか調べついたってか」
『ご明察……にしては声色が沈んでるじゃないか。自宅でも爆発したのかい?』
二人が軽い目配せをする。
頼んだ当人は勿論、静と遠野の会話から、恐らくは容疑者について調べてくれていたことを察した抄帷も、言葉に詰まる。
状況は大きく変動した。素性こそ未だ不透明ながら、既にその所在地までを押さえ、尚且つ間も無く現場には阿島京介が到着する。事ここに至り、遠野からの情報が重宝されるとは考え難かった。
「あー、実はその件なんだけどよー、実はもう大丈夫になったっつーか――」
そう、二人は共に思っていた。
『おや。自信はあったんだが、まさか先に幽霊を見つけ出すとは。流石ゴーストスイパー』
その一言を聞くまでは。




