『激昂』
吹き出す汗に、乱れた呼吸。
心臓は早鐘を撞くように荒ぶり、知らず追い込まれていた酸欠に耐えかねた肺が酸素を求めて痙攣する。
自らの内。発芽したパラドクス能力……『迎撃不可能である。故に、迎撃可能である』。その能力の全容を事前に把握していたとは言え、知識や体感が経験に還元される道理はない。超能を有するという一点を除けば、あらゆる面において常理の内側に立つ花蕗静にとって、たった今踏み越えた一連こそは、正しく死線そのものだった。
体力的にも精神的にも際の際。力尽きる寸前まで追い込まれながら、それでも今優勢を保っていられる現状の要因は、これは最早運が良かったとしか言いようがなかった。
『迎撃動作は花蕗静自身の肉体駆動によって実現される。故に、反射・反応以外の人体構造上不可能な動作は出来ない』。目出し帽の男は確かに、花蕗静のパラドクスの核心に到達していた。
無論その仔細を事細かく理解していた訳ではないだろう。それでも二度の交戦……その過程における現象と、考察する為の試行錯誤の果て、静の超能――その最大の欠点にまでにじり寄っていた。
あと一手分戦闘が長引けば、地に伏していたのは自分だった。背筋の凍る冷たい確信に辟易としながら……そんな内心をおくびにも出さず、静は至って平静に、余裕すら匂わせる声色で口火を切った。
「さぁ、どうするよ。降参するなり、洗いざらいゲロするなり、好きな方選ばせてやるよ」
言いながら内心で、静は京介達の到着を若干の焦りと共に待ち望んでいた。問題解決の最終段階が他人頼みというのは些か格好の付かない話ではあったが、そんな見栄を張る余裕が無いことも確かな事実。
実の所、未だ花蕗静が追い詰められている現状が打破されている訳ではなかった。
マウントを取って優勢に立っているのは間違いない。だが、その先の制圧方法については完璧なノープランであった。
……これが遠野辺りであれば、腕の一本もへし折っていたのだろうなぁ、と。ここには居ない腐れ縁の男、異端の隣人の顔を思い描きながら静が鼻で笑う。
追い詰められた極限状態、選択の余地なき交戦の只中であるならばまだしも、今や無抵抗となった人間相手に更なる暴力を加えるという選択肢は、静の中にはなかった。
「ほれ、とっとと選べよ。どーすんだ、ぁあ?」
背中側に固定した左腕を締め上げる。無論重篤な怪我にならぬ様注意を払いながら、ではあったが。それでも、その結果としての痛みは、地に伏す男の新たな呻き声を引き出すには十分な代物だった。
くぐもった呻き声が止む。やがて、一呼吸分の間を置いて、男は口を開いた。
「――君も、あの娘が欲しいのか」
静が眉を顰める。言葉の示す人物が誰なのか、思い悩む余地はなかった。
「あー、お嬢さんの事な。馬鹿言ってんじゃねーよ、んな趣味ねーっての。つーか、てめーは何のつもりでアイツをつけ狙ってんだよ」
静の言葉に男は答えない。
代わりにその口から漏れ出たのは、要領を得ない、
「でも、あれは私のなんだ。私の手元に置かないと……」
エゴに塗れた、余りに自分本位な欲望だった。
「それこそ馬鹿言うな。どう言う理屈であちら様が、てめーのモンって話になんだよ変質者。ふかしてんじゃねーよ、ボケ」
言いながら。静の胸中には、自ら口にした言葉以上の不快感が渦巻いていた。
そんな感情に行動の手綱を握られる事を嫌って、話題を逸らす。膠着状態の今、やるべきことは時間稼ぎ。京介達の到着まで波風を立てず、男を過度に刺激せずに、拮抗した現状を維持する。その為にも、余計な感情は抑え込むべきだった。
「私の手元に置かないと……私の……」
「わかったわかった。気色悪ぃ限りだぜ、ったく。結局他の女子高生連中もてめーの仕業って事でいいのかよ」
「他の……あぁ、アレらは違ったんだ。あれは、間違いだった」
「――……何?」
抑え込むべきだった。そんな事は痛い程理解していた。
「私の見る目がなかった……彼女達は私の望んだモノとは違った。仕方がなかったんだ」
「――てめーは、何を言ってんだ?」
「清廉さも、清純さも。彼女達には足りなかった。その事を初めに見抜けていればよかった……あれは失敗だった」
その理解を、形容し難い憤怒が握り潰す。
「てめーの物差しで勝手に測って、期待してた代物とは違ったからコイツは失敗ですさようなら、ってか。ふざけた事抜かすのも大概にしろよイカれ野郎」
左手を締め上げる力が増す。痛めつける事を目的とした訳ではなく、ただ我慢ならない怒りの発露としての動作だった。
合掌抄帷を除く他の被害者達は、花蕗静にとって完璧な赤の他人。その身に起こった不条理も理不尽も、まるで関係のない他人事でしかない。見ず知らずの彼女達へと向けられた底無しの悪意など、放っておけばよかった。そうするつもりだったし、今でもその考え自体に変化はなかった。
だが、知ってしまった。
人格も、尊厳も。人が人として在る為に必要な最小単位を踏み躙る、眼前の悪意を。自らの欲望を実現する為だけに振るわれる狂気を。そしてそれらはどうしようもなく許し難い、花蕗静にとっての禁忌そのものであった。
「てめーの望みが何かなんて興味も湧かねーよロリコン野郎。はっきり言っといてやる。女子高生のガキ相手に暴力使わなきゃ果せないってんなら、てめーの望みは最初から糞だ。全部不正解なんだよ、イカれ」
花蕗静は探偵では無い。警察でもなければ、無名の天才でも無い。それでも、男の言葉が指し示す被害者達の末路を想像出来ぬ程に木偶でもなかった。
「……君には、わからないか」
「わかるつもりがねーっつってんだよ。ゴリゴリの加害者が一丁前に、誰かに理解してもらおうなんざ笑わせんな」
この男の素性など知らない。
超能・パラドクスが彼にどんな影響を齎したのかはわからない。だが、だがそれでも、
「仮にてめーの過去がどんだけ悲惨でも、今のてめーがどんだけ不遇でも、俺はてめーに同情しねーぞ。何回でも言ってやるよ、てめーのやってることは全部糞だ。それだけ忘れてくれんなよ」
男が遂に自らの言葉で明かした失踪者達の顛末を、〝だから仕方がなかった〟などとは言わせない。それだけは、断固として許すわけにはいかない。
「……私のなんだ。私の手元に……私の……」
うわごとの様に尚繰り返される言葉に、静の右腕が目出し帽へと伸ばされる。
「しつけぇし、興味ねーって言ったろ。とりあえずはてめー、先ずは面ぁ拝ませてもらうぜ。話はそっからだ」
行動に大きな意味はなかった。
既にその身を晒し、襲撃し、返り討ちの結果として組み伏せられている男の素顔を知った所で、この期に及んでそこに大きな価値は無い。奇しくも遠野の言葉通りの結果であった。だから、男の素顔を暴こうとした理由は、ただひたすら、花蕗静の感情以外にはなかった。
罪なき少女を私欲で弄んだ悪漢。にも関わらず自らの素性は隠そうという卑劣。許し難いその身勝手を許さぬ為の行為だった。
故に。花蕗静は予想していなかった。
「――……は?」
目出し帽を剥ぎ取ったその中身。それが人間の形をしていないという異常は、花蕗静にとって全く、考えもしない事態であった。
先程までは確かに、目出し帽の隙間から覗いていた虚な目も。チラチラと見えていた首筋の肌も、今やその名残すら無い。目出し帽の中身は、不気味に蠢く鎖の束であった。
交戦時にこちらへと牙を向いた大振りな鎖。それらが何本も束ねられ、人の頭程の大きさになっていた。その姿は余りに現実離れした、不可思議なものだった。
――押さえ込んでた腕も、背中も、全部間違いなく人間の感触だった。一体どういう理屈だ――!?
突如混乱の淵に立たされた静に追い打ちをかけるが如く。次の瞬間、束ねられ、人の形を成していた鎖が解け、紫色に発光・点滅を開始する。
直感としての危機感。左腕を離し、男の背中から飛び降りて距離をとる。その動作の直後、倒れ込んでいた男の全身が不気味に蠢き、そして――
紫色の閃光。鈍い金属音と共に、鎖が四方八方見境無く伸びていく。
先程までの交戦と同じく、一人でに飛び交う鎖。違ったのは、その本数。静が交戦した際には最大五本程だった鎖は、咄嗟に視認出来るだけでも二十を超えていた。それら全てが無軌道に飛び交う。
――捌き切れるか、今のこの身体で――!
既に静の体力は限界近くまで消耗していた。とは言え、一本一本がまるで、弾丸の様な速度で爆散する鎖をパラドクス無しで対処など出来るわけがない。
――やれなきゃ詰むってんなら、やるしかねーだろ――!
今再び、静の腕が構える。炸裂し四散する狂気を撃ち落とす為に。その、次の瞬間。
「――――――!!」
男の背後から現れた、異端者・阿島京介の拳が、男だった鎖の爆散……その中心部を殴り付け、粉砕した。




