『極彩色の夜へ・廻』
「なんだ、普通に喋れんじゃねーか。勿体付けやがって」
そもそも強い必要性を感じていた訳ではなかった。故に早い段階で切り捨てていた意思疎通という選択肢。それが突如実現した驚きは確かにありつつ、さりとてそんなことよりも、放たれた言葉それ自体への嫌悪感の方が今は余程大きかった。
「言ってる意味がわかんねーな。逆に聞かせろよ、一体てめーは何がしてーんだ?」
警戒は解かない。
徒手空拳はそのままに、内なるパラドクスは臨戦体制を保持。次なる奇襲に備え、自身へと向けられる敵意の一切を感知し続ける。
花蕗静のパラドクスは無敵では無い。
自動感知による全方位迎撃は発動中……即ち待機状態の間のみ発現する。花蕗静のパラドクス発動とはつまり、この待機状態の発現と維持であった。そして、あらゆる身体機能がそうであるように、その保持時間は無限では無い。つまるところ、
——メチャクチャキツい!!
悪態を吐きながら、平静を装いながら。加速度的に摩滅していく体力と、伴って削られる精神力。手にした超能を振るう、その為の負担は想像を遥かに超えていた。
「――っ!」
静の拳が飛ぶ。
虚空を裂き、絡め取らんと差し向けられた不可視の鎖を打ち払う。何度目かの繰り返された光景に、目出し帽の男は苛立ちを募らせている様子だった。
目に見える動揺。この機を逃すまいと、静が笑う。
「会話の最中にちょっかい掛けてくるなんざ、さてはてめーモテねぇな?飯中スマホいじるタイプだろ、おい」
返る答えはない。代わりに男の口を突いたのは、今し方眼前にて繰り広げられた出来事に対しての疑問。
「君は、見えているのか。この鎖が」
「どーだかな。答え合わせは済んだと思ったけどな。つっても、俺は構わないぜ。気になるんなら気が済むまで、だ。いくらでも付き合ってやるよ」
虚勢。
澱み無く語られる言葉の全ては虚偽であり、虚仮脅しでしかなかった。
接触前段階の鎖を感知する術がない以上、花蕗静はパラドクスを解除出来ない。一呼吸の暇を求めたその間隙を狙われれば、その一撃を防ぐ手立ては存在しない。
だからこそ、花蕗静は退かない。
――この状態で明智さん追いかけて、追っかけられてやってる間にガス欠起こしゃそこで詰み。体良く阿島さんの救援が間に合わなきゃ転がされて終いだ。
かと言って、このまま受けに回ってダラダラ時間掛けりゃそれこそジリ貧。と、来りゃ道は一本だろ。
静が駆ける。
地を踏み、飛び込むように。眼前の男へ向かい、最短距離を行く。
「――」
男が一歩後退る。動作に滲み出した動揺を察した静が、地を蹴る脚に尚一層の力を込める。その進行を阻止せんと、不可視の鎖の次々が静を襲った。
だが、止まらない。
矢継ぎ早に放たれる幾本もの鎖はしかし、疾走する体躯を決して捕らえない。常人には見る事も叶わない筈の意思ある狂気は、花蕗静の逆理を絡め取れずに虚しく打ち払われるばかりであった。
距離にして残り2m。
最早瞬きの間で潰せるだけの距離に接近しながら尚、静は自らの異能を一切緩めずにいた。
――ここだけ。
花蕗静が単独で、目の前の男を打倒し得る可能性が存在する、唯一のタイミング。それは今、この瞬間をおいて他には有り得ない。
目出し帽のパラドクスが数メートルの射程距離を有している事は自明の理。この場での男の最適解とはつまり、花蕗静から距離を取りつつ、鎖による牽制を継続する事。そして恐らく、それは本来男が想定していたであろう動作。
鎖のパラドクスが静と同じく、何かしらを消耗しながら放たれているのか。それとも無尽蔵に継戦可能な代物なのか。その答えを推し量る術はない。だが恐らく、こちらの体力が尽きるよりも圧倒的に長時間運用可能なのだろうと静は断定する。でなければ、リスクを負ってまで静の眼前に姿を晒した根拠の説明が付かない。
――大方どうせ、まだなんか隠し持ってんだろ、先輩超能力者――!
花蕗静の行動を一方的に封殺し、拘束する何か。
未だ見せていない策略が存在する事は想像に難くない。その上で、自らの逃走と遠距離からの鎖による攻撃を以て花蕗静を自らに寄らせない。それが可能だと踏んだからこそ、男は姿を現したのだろう。
だが。
――そんなちょろく転がされるかってんだよ――!
駆け出した静の姿に男がとった行動。
追撃でも逃走でもなく、足下だけを後ろに退いた。
それがそのまま、静が選び取った特攻という選択肢が、男の想定に含まれていなかったであろう証明。
身を投げ出し。危険の坩堝へと躊躇なく飛び込んでいく異常性。男が見誤ったのは、その一点。そしてその一点こそ、花蕗静ただ一つの勝機。
静の疾走が止まる。誰でもない、花蕗静自身の意思によって。
遂に潰された2mの距離。
手を伸ばせばすぐにでも届く、超近接。
体躯を低く沈めた静の眼光が、下方より男を捉える。
至近距離から放たれた不可視の鎖。
常人の反射神経ならば反応不可能なそれですらしかし、先程までと何ら変わらず、静のパラドクスを捕えられない。
撃ち出された拳を引き戻し、静が腕を伸ばす。
だが、その腕が男を組み伏せる事は無かった。
「――――――――っ!!」
激しい破砕音。
左右から突如響いたその音の出所を、静が知ったのは自らの行動の後だった。
左右に大きく広げられた自らの腕。その腕に、へし折られた電柱がそれぞれ激突する。
パラドクスの副次効果か、衝突による痛みこそないものの、物理的には到底有り得ぬ質量をぶつけられた拍子の轟音が静の鼓膜を揺さぶった。
――野郎、鎖を使って持ってきやがったのか!考えやがるぜ、クソが――!
コンクリート塊を力任せにぶつけられる。人間の肉体強度では当然耐えきれぬその質量と圧力はしかし、花蕗静のパラドクスを打破するには至らなかった。
だがそれは、目出し帽の男にとっては誤算ではなかった。
激突を経て尚、圧力は継続する。
鎖によって掴まれた電柱は引き続き、静の体を圧殺せんと押し付け続けている。パラドクス発動状態の両腕が、その思惑通りに破砕される事はない。だが問題は――
――次の一撃を防ぐ腕がねぇ――!
常軌を逸した反応速度。接触段階であらゆる殺傷能力を無効化する、強固な防御性能。その二つを有しながら尚、静のパラドクスが無敵ではない最大の要因。それは、それらの卓越した性能の発現が、彼自身の肉体駆動によってのみ実現されるという点。
超能を用いてしか防げぬ暴力を以て、その両腕を封じ込める。その上で、がら空きになった残りの肉体へと凶刃を飛ばす。能力の仔細を知らぬまま男が投じた一手は、奇しくも花蕗静のパラドクスを圧する最適解であった。
最早不可視である必要が無いと判断したのか、それとも詳らかにする事によって恐怖心を煽ろうとしたのか。男の手元に鎖が顕現する。
静の背筋を、冷たい物が伝う。
この鎖は拘束を目的としていない。
目出し帽から垣間見える薄ら暗い瞳が、言葉よりも雄弁にその事実を突き付ける。この一撃は、電柱を打ち砕いたのと同じ出力で放たれ――花蕗静の頭部を打ち砕く。
コンクリートをへし折るだけの力を真正面から受け止める。その後の肉体が原型を留める道理などある訳もなかった。
興奮状態だった感覚が、冷や水を浴びせられたかの如く冷静さを取り戻す。一方で思考は混乱の極致に。唯一理解出来たのは――明確な恐怖。
死に対する怯え。生き物としては余りに真っ当な防衛本能。気を抜けば足は震え、冷や汗を垂らし、命乞いすら口を吐くだろう、その恐怖の底で。花蕗静は選び取る。
――――見ろ!!
目を逸らすな。
瞬きもするな。
挙動を見逃すな。
タイミングを逃したら死ぬってんなら、死んでも逃すな。この期に及んで糞の役にも立たない命乞いなんざ、してたまるか――――――!
昨日まで、正真正銘ただの子供……一学生に過ぎなかった花蕗静が、極限の恐怖の淵で見せた狂気にも似た執念が、その肉体に立ち止まる事を許さなかった。
直線的な軌道を描き飛来する鎖を、首を振り、正に紙一重で回避する。男が驚嘆を肩の震えで示したのと同じタイミングで、花蕗静は自らのパラドクスを解除する。
逆理の力を失った両腕を引き戻す。
膝から下方へと滑る様に体躯を沈める。
沈めた推進力をそのまま前方へ、更に一歩を詰める。
流れる様に、全ての動作はほぼ一息に完遂される。
一瞬前まで静の身体のあった空間を、左右から引き寄せられた電柱が押し潰す。対象を見失ったそれらは互いに激しく打ち合わされ、轟音と共に砕け散った。
その轟音よりも速く、静の身体は男の真横……半身分後方の位置まで到達していた。
男が迎撃の為今一度鎖を操る。
男から向かって左手やや後方、半身分の背中へと向かって『迎撃不可能』な一撃を放つ。
「――――舐めてっから、なぁ!!」
『故に、迎撃可能である』。
即座に再起動した花蕗静のパラドクスが、不可避の一撃を〝だからこそ〟打ち払う。
撃ち出された拳をそのまま伸ばし、男の左手首を掴む。
動揺のまま、その手を振り払おうとする男のバタついた足元へ向けて、鋭い足払いが放たれた。
体勢を崩した男が前方方向へと倒れる。その背中を追う形で、静が馬乗りの姿勢をとった。
倒れ込んだ左腕を、同じく左手で掴み。残る右手は右足で押さえ込む。自由の効く右腕は引き続き、絶対防御運用の為に構えながら。
息の根を止めたわけでも無い。
相手のパラドクス発動を完全に封殺している訳でもない。
それでも今、男がとるであろうあらゆる全ての動作より、花蕗静の打拳の方が速いことは、火を見るより明らかだった。故に。
「今度は文句ねーだろ。この一連は俺の勝ちだ、先輩」
うやむやのままだった昨日からの超然は、ここに決着した。




