『臨戦』
――――
眼前に広がるのは、たった今まで歩いていた街並みと寸分違わぬ光景。だが、その異質さを確かめる必要など無い程、世界は明らかに異様だった。
先程まで数多くあった人々の姿。
道路を走る車の音。
天高くよりその陽光を大地へと降らせていた太陽。
それら一切は消え失せ、耳に痛い静寂と、不自然に薄暗い空ばかりが続いている。それは確かに、異界と呼んで差し支え無い魔境であった。
「これが例の……」
隔絶された空間。その内側を初めて目の当たりにした小理が、色濃い驚愕と僅かな怯えを隠せないまま呟く。それは決して誰かに向けた言葉では無かったが、しかしこの場においては応える声が一つあった。
「全くもって薄気味悪ぃ事この上ねーだろ。こんなモン作る奴の気がしれねーよ」
悪態を吐きながら、花蕗静が身構えた。
周囲への警戒と緊張を保持したまま、思考だけを高速で回す。
非マーキング状態でありながら、こちらの意思とは無関係に引き摺り込まれた隔絶空間。直前鳴り響いた鎖の音。となれば、選びとるべき一手は――
「逃げるぞ、明智さん!」
言うが早いか、静が駆け出す。
理解は届かず、それでも素早く反応した小理がその後を追う。追いながら、スマートフォンを取り出し画面を確認する。
「8時43分!電波は駄目っす!」
短く伝えられた情報に、静もまた端的に応える。
「手筈通り、よろしく!」
隔絶空間内から外部への連絡方法がない可能性は既に検討済み。物理干渉が遮断されている以上、電波の取り扱いについても恐らくは同じくであろう事は事前に予測していた状況だった。
当初静達は、パラドクス能力者が狙ってくるのは合掌抄帷であると予測していた。それでも万が一、抄帷達では無く静等が標的となった際の対応策。
それは、阿島京介達との合流。
二手に分かれた時点で、阿島京介は一つの取決めをしていた。それは、時間毎で自身が滞留するエリアを限定する事。
京介と抄帷の捜査範囲を幾つかのブロックに分割し、設定された時間内は対応するブロックに駐屯する。この取決めを以て、仮に連絡不可能な状況でも、静達は京介が居るおおよその位置を時間から割り出す事が出来た。
方法について言及はなかったものの、京介自身は隔絶空間内を探知する術が存在するらしい。空間が異なれど、近い座標まで合流する事が出来れば対処可能との事だった。
――我ながら、そんな確証弱っちい話を楯に必死こかなきゃならねーなんざ、お笑いぐさだぜ――!
内心ごちりながらもしかし、現状準備されている具体案はこれしかない。二人はその、不安定な策だけを頼りに目的のポイントへと急いでいた。
――但し。この策には最悪の懸念点が存在する。
刹那。鈍い金属音が鳴り響く。
小理がその音に体を強張らせたのはほんの一瞬。その間隙を縫って飛来する不可視の鎖を、
「――!」
踵を返し立ち塞がった、花蕗静の拳が撃ち落とす。
不可視の鎖が薄い紫色の光を放ちながら顕現する。その様子を視界の端に収めながら、静は自らの意思とは無関係に駆動し、迎撃を成し遂げた拳を軽く握り直す。
「超能力が取説付きで助かったぜ。お陰でちったぁ格好もつくからよ!」
張り上げた声の向かう先は無人。顕現した鎖は中途から不可視となり、極めて不自然に中空を漂っていた。
「面ぁ出す気がねーなら、付き合いきれねーぜ!」
小理に先を促し、再び静が駆け出す。その内心はしかし、言葉程威勢の良いものではなく、想定された最悪が厳然と横たわる現実を前に辟易とさえしていた。
検討段階で答えを見出す事が出来なかった要件の一つに、マーキング済み対象とそうでないものの差があった。
痣の無い静や京介が件の空間侵入出来た要因の一つは、自ら進んで内部を目指したという点が大きい。
では。マーキングの無い人間を、意図的に隔絶空間に取り込む場合どうするのか。
既に侵入した事実が存在する以上、それを不可能と断ずる事は出来ない。だが、なんら無条件だったとすればマーキングの意味がない。
そこで静達は、条件付けの下、一定の距離まで接近した対象を強制的に隔離する……マーキングはその為の物だったと仮定した。マーキングの無い人間を誘致するには、パラドクス能力者本体が何らかのアクションを起こす必要があると推察したのだ。
それを踏まえて、マーキング対象以外が隔絶空間に引き摺り込まれた場合の最悪のシナリオとはつまり、即時会敵。
万全の準備を整えた状態のパラドクス能力本体と、引き摺り込まれた瞬間鉢合わせるというパターン。
小理を捕らえんと放たれた鎖。それはあの時……昨日、静へと差し向けられたものと同質。不可視でこそあれど、起点からこちらへと向かい、軌跡を描き操作された悪意。
ならば、その根源がいる。
鎖の挙動を悠長に確認している余裕は無い。そもそも目的は解析と打倒では無く、逃走の一点のみ。
故に、止めない。
駆け出した足はただ先へ、振り返る事無く前へ。
「――!」
突如、小理が体勢を崩し転倒する。受け身にこそ成功したものの、激しく地面に体を打ち付けたその痛みに悶絶する姿へと視線を移した静は、思わず舌打ちをした。転倒の原因は明らかだった。
小理の右足首に巨大な鎖が絡みついている。不気味に発光するそれが、彼女の肉体から動作の自由を剥奪していた。
足を止め、小理を庇う形でその正面に立ちはだかる。
意識を集中し、両手を体の正面に構える。次の瞬間。
「っ!」
静の腕がそれぞれに駆動し、四度虚空を叩く。
鳴り響く金属音を伴って姿を表す四本の鎖。不可視のまま弾かれたそれぞれが、先程と同じ様に不気味に発光しながらその姿を顕にする。
「増量中かよ、いらねーアプデしやがって――!」
悪態を吐いた後、間髪入れず小理へと声を掛ける。
「まだ走れるかよ、名探偵!」
「――走らなきゃしゃーないでしょ!」
威勢の良い声に僅か安堵を感じながら。追い詰められた窮地の際で、静が一瞬の逡巡を。推し量るべきは自らの内に宿る異能、眼前の異形……そして自らの覚悟。
昨日、そしてたった今。
二度の運用を経て、花蕗静は自らに発現したパラドクスの性能をほぼ完璧に把握していた。
自身へと差し向けられた敵意を自動感知し、同じく自動で迎撃する。手の届く範囲のみ、限られた領域内のみの絶対防御。花蕗静が対処不能と判断する狂気をこそ打ち払う、堅守の剣。
ただしその能力の守護対象は、花蕗静自身のみ。
パラドクスはその保有者のエゴの顕在化であると、阿島京介は口にした。それが事実だとして、降りかかる火の粉を払う事だけに特化したこんな能力こそ、自らの深層であるなどとは。全く笑えぬ冗談と、静は自嘲的な笑みを浮かべた。
鎖による拘束。その標的が自らである限り、花蕗静が追い詰められる事はない。
確信では無く、自覚した能力から逆算されるただの事実。
標的が他者であれば、その身を守る事は叶わない。
明智小理にパラドクス能力は無い。無論、不可視の鎖を操る不条理に対抗する如何なる技能を有している訳でもなかった。
――貧乏くじだぜ、ったく――!
ならば。選び取るべき道などは、既にわかりきっていた。
「そのまま行ってくれ!」
それは、検討段階において、半ば以上冗談めかして語られた予備プラン。実行される事などまるで考えもしなかった策。
――いいや、嘘コケだな。てめーを誤魔化して何になるってんだ、ったく――
二分の一を引き当てようと二手に別れた以上、プランが発動する可能性は十分にあったのだ。それを冗談話と聞き流していたのは、単に花蕗静の未熟さ故だった。
パラドクスを有したのはほんの十数時間前。その短時間で、これまで積み重ねてきた〝ただの学生〟の価値観が丸ごと塗り変わる道理などない。
命を危険にさらされる恐怖。
凶器を向けられる怯え。
それらは花蕗静の視野を狭め、直視しなければならない現実からの逃避を助長した。
そんな己の弱さ、未熟さ。その一切を認めた花蕗静は、
「相手してやるよ超能力者!文句あるならハンデ寄越せよな!」
その全てを、踏み出す一歩で踏み躙り。今こそ自らの意思で、凶刃の前に立ち塞がった。
「〜〜っ!」
そして。選択の余地が無いのは、明智小理も同じだった。
危険を承知で同行しているとは言え、相手は子供。それも、面識らしい面識がこれまであった訳でも無い、赤の他人。
そんな子供を、狂気の矢面に、自ら逃走を図る。自尊や自負では無く、常識に根差した良識が彼女の動き出しを咎める。
――嘘っぱちだ、そんなの。
知らず並べ立てた言い訳に、小理が唾を吐く。
花蕗静のパラドクス保有が確定した上に、彼が自ら協力を願いでた時点で、一定の期待を抱いていたのは紛れも無い事実だった。それは過去、阿島京介によって救われた経験から来る甘えでもあった。
それでも、本来到底認めるべきで無い帯同を許可したのは、そのパラドクスに……否、花蕗静という人物に対しての信頼があったからこそであった。
――今更一丁前に大人ぶって、役にも立たない説教を垂れるな。選んだ以上、その選択に殉じろ――!
「〜〜無理しないでくださいね!」
怒号に近しい響きを有した叫びも置き去りに、遠ざかる足音。振り返らぬまま、離れていくその背中に。
「ここで無理しねーで、どこで無茶すんだよ」
仄かに愉快そうに、静が溜息を吐いた。
刹那。
「――!」
再び打ち出された拳によって、三度鎖が撃ち落とされる。
先程の撃ち落とした物と合わせて計五本。不気味にゆらめく鎖を睨み付け、静が不遜な笑みを浮かべる。
「小僧一匹に面の一つも出さねーなんざ、臆病極まれりだな。びびってねーで出てこいよ、超能力者」
本音半分、自分へと注目を集めて小理を逃す為半分の心持ちで放たれた、分かりやすい挑発。結果だけを言えば、その効果は絶大であった。
生き物の如く、不気味に蠢く鎖の全てが砂が崩れる様に霧散する。そしてその後方……電柱の影から、男は姿を現した。
その姿を視界に収めた静が、その笑みを深める。
「今日は紙袋じゃねーのかい。似合もしねーな、おい」
体型、服装は先日と全く変わらず。
頭部に被されていた紙袋だけが取り払われ、代わりにニットの目出し帽を身に付けた男が、そこに立っていた。
「この後に及んで、まーだ面隠したがるかよ。男のシャイなんざ需要ねーんだよ、間抜け」
続け様に放たれる静の挑発。その言葉に、目出し帽から露出した瞳が、薄く細められる。そして男は
「君はどうして、邪魔をするんだ?」
呟く様に、そう口にした。




