『極彩色の夜へ』
時間が止まる。
その場にいた全員が、起きた事象の意味が分からずに硬直する。特に、間違いなくその中心であった花蕗静の動揺は大きかった。
振り下ろされた凶器。空手の静にその刃を防ぐ手立てなどなかった。反射で躍り出たところで出来る事と言えば、肉の盾となって一時の刹那を稼ぐ程度。その、筈だった。
直撃寸前。振り下ろされた刃は打ち払われた。誰でも無い、花蕗静の左拳によって。
未だ固く握り込まれた拳に痛みはない。どころか、何かとぶつかった様な赤みの欠片もない状態だった。刃の側面を叩いたとしても、それは明らかに不自然な無傷だった。
だが、静の動揺の理由は別にあった。
振るわれたその拳は、静の意思とは無関係に放たれたものだった。そしてまた、到底人の物とは思えない速さだった。
反射や反応ではなく。
明確な迎撃の意思を持ちながら、自らの判断からは隔絶されたまま放たれた打拳。間に合う事も防ぐ事も叶わない筈の凶器を圧した、徒手空拳。
——抄帷と、紙袋の男の驚愕は同じ物だった。
突如放たれた打拳。その駆動の異様さにこそ、彼女達は困惑していた。その思いは同様にありながら、静の内心に渦巻く戸惑いの源泉はそれだけではなかった。
「——————」
静の表情が歪む。その苦悶は、外的な物では無く。
——頭が割れる——
頭を内側からヤスリで削り取られる様な不気味な痛み。耐え難い頭痛に吐き気すら覚えながら。無傷のまま――しかし実態として、花蕗静は昏倒の淵に立たされていた。それは、これまで一度たりとも経験したことのない、異様な体感だった。
持っていなかった筈の機能が動き出す。知り得なかった筈の知識を以て。まるで最初からそれを有していたか、あるいはそもそもそういう存在であったかの様に、脳と肉体が運用され始める。
「花蕗さん!」
明滅し、寸断されかけた意識を呼び戻す、凛とした声。
視界の端。驚愕に加え、気遣いの色味を滲ませた合掌抄帷の表情を見て、静が力の抜けかけた全身を奮い立たせた。
「——問題なしだ、今んとこな」
抄帷が困惑を深める。
静の言葉が虚勢である事は明らかだった。ただ、その不調の原因がわからない。極限状況由来の緊張とも異なるその様子に首を傾げる。
静の視線は男を捉え続けている。
凶器を弾かれた事実に対しての狼狽は色濃く。先程までは見境もなく凶刃を振り翳していた男は今、明らかに慎重になっていた。
張り詰めた一瞬の空白。その静寂に、静が抄帷に向けて言葉を忍ばせる。
「——今この場で、俺が突然超能力に目覚めたっつったら、どう思う?」
言葉の真意など分かるわけがない。
故に、言葉は最も馴染みある……偽らざる本心だけで構成される。
「……緊張でおかしくなってしまったのかと思います」
場違いで、けれど間違いの無い言葉に、静は笑った。
「違いねー」
笑いながら。両の腕を前へ。
左拳は体の正中線上、目線の高さ。
左足をやや前方に向け、重心は中央に。
抄帷が戦慄する。
それは、知識としては彼女も知っているものだった。だがそれは、全くもってこの場に相応しくなどない代物。
——ボクシングの、オーソドックス。見紛う事なき、臨戦の構え。
——馬鹿げている。
今すべき事は、この場からの逃走以外に無い。その術も、出来るかどうかもわかりはしないが、それでも。それ以外の選択肢がある訳がなかった。
あり得ない速度で打ち出された一撃。確かにそれは衝撃的ではあったが、それを根拠に抵抗を試みるだなんて愚行でしかない。
凶器による追撃が未だ無い理由は、たんなる偶然。予想だにしなかった反撃に今は未だ狼狽しているのかも知れないが、そんな停滞もいつまで続くか分からない。
——抄帷の考察は、正しかった。
凶器を握り直し、既に動作は次の一撃を放つための構えをとっていた。
止める術はない。一度立ち止まってしまった静に、先程までの速度も無く。必然今度こそ、振り下ろされる刃を正面から迎え入れるしかない。
紙袋の男が剣の達人、だなんて事はきっと無いだろう。
軌道はひたすら直線的であったし、抄帷の目からみても、その動作はただ振りかぶった得物を振り下ろすだけのもの。
それでも。最短距離で放たれる刃を、一般人に過ぎない花蕗静が捌ける道理はない。それは、疑いようもない。
その、筈だった。
「——っ!」
紙袋の男にこそ遂に、身を震わせる戦慄が走る。
不自然かつ直角に弾かれた鋸。
刃の撓む間抜けな金属音が反響するその中で、もう一度再現された状況に対して驚愕を示さなかった、ただ一人。花蕗静が一歩を〝踏み出す〟。
花蕗静に、格闘技の心得は無い。
運動神経そのものは人並み以上だったが、それも学生の中ではという条件付き。今とっている構えにしても遊びの延長で覚えた、付け焼き刃にすらならない様な代物でしかなかった。
それでも。その歩みを前へと推し進めた理由は二つ。
今まさに自らを苛み続ける異変。自身の内に、これまでなかった筈の奇怪な能力の発芽。その感覚は気の所為と片付けるには余りにも具体的で生々しく。同時にその力の機能を、静は正確に理解していた。
歩き方を教わらずとも歩ける様に。
説明がなくとも、手で物を掴める様に。
発芽した奇怪な異能。
その全容を、誰に説かれるでもなく静は理解する。
『迎撃不可能な暴力を迎え撃つ』
自らの内に感じる異質な感覚を言語化するならば、機能はその一言に集約される。
間に合わない刃に拳が届く。
打ち払えぬ暴力を無傷で圧する。
無論、馬鹿げている。
窮地に都合良く不思議な力に目覚める。そんな物、フィクションの中でしかあり得ない。抄帷の言葉を借りるなら、頭がおかしくなったと断ずる方が余程健全。そんな気の迷いを根拠に身の振りを決めるなど、正気の沙汰では無い。……本来ならば。
だが。そんな常識の介在を断じて許さぬ程、静の内に生まれた感覚は明瞭だった。故にその体感は、己の判断を掛ける価値のある代物だと確信が伴った。
そして、もう一つ。
合掌抄帷を拘束する、不気味な鎖。忽然と現れ、いつの間にか消え失せ……そして今また彼女を絡めとる鉄の枷は未だ健在である。その出現・消失の要因が全く分からない以上、次また都合良く鎖が消えてくれるのを期待する事は出来ない。
静の状態は、極めて深刻であった。
突然の異能。その発芽に伴う体調の悪化には際限が無く。最早いつ倒れるとも分からない状況であると、静は自覚していた。
抄帷を担いでもう一度逃げる余力は無い。
倒れれば、そこで終わる。だからこそ、今。
訪れるかもわからない、次の奇跡を待つのではなく。
今、ここで。この男を打倒する他道はない。
撃ち放たれた右拳が、紙袋で隠された男の顎元へと疾る。
——相手が如何に不審でも。人間でありさえすれば、打撃は効果がある筈だ。
だが、拳が男の顎を捉える事は終ぞなかった。
腕が伸び切る直前。突然軌道は不自然に曲がり、見当違いの方へと向かう。
その先は虚空。自らの意思に依らないその駆動に、静が目を見開く。次の瞬間、拳は見えない何かを捉えた。
金属音が鳴り響く。一瞬の間を空けて、静がその音の正体を知る。
一瞬前まで何もなかった、その場所に。突如、鎖が顕現していた。
何処から、などと野暮な疑念が首をもたげる事はなかった。空中で撃ち落とされ、切れた凧のように揺れる鎖の先は、紙袋の男が握っている。原理の解明など必要ない。あの鎖は、男によって操られ、こちらに襲いかかってきたのだ。
不可視だった理由も。顕現の要因も。
今冷静に観察し、解析する寸暇は無い。
静の上体がするりと地面に向かって落ちる。
膝抜き、腰を回し。シーソーの様に、対角の右脚が高く上げられる。
一連の動作は流動的に。繰り出された蹴りは今度こそ、男の顎を下方から撃ち抜いた。
抄帷を拘束していた鎖、静へと差し向けられたもう一本。その両方が……現出した時と同じ様に、忽然と霧散する。
足に残る確かな感触。
よろめく男の姿。
二つを確認して、静が体勢を立て直し、更に踏み込む。
千載一遇。
恐らく唯一、最大の好機はしかし。次の瞬間、呆気なく砕け散る。
力が抜けた様子で、静が地面に片膝を付く。
——決着よりも先に、静の肉体に限界が訪れた。
「——!」
呼吸すらままならず、膝に続けて片手を地面に付ける。そうでもしなければ最早、体を起こしておく事すら叶わない。花蕗静には既に、腕一本満足に挙げるだけの力も残されてはいなかった。
「……冗談じゃ、ねぇぞ——!」
己の不甲斐なさに内心悪態を吐く。だが、そんな事で状況は変わらない。
決着を決め切れなかった。
これ以上は動けない。
激情で現実は変わらない。その事実だけが、満身創痍の眼前に立ち塞がる。
もんどり打って苦しむ男。だが、それも長くは続かないだろう。次の瞬間には再び、凶器は振るわれる。
——だったら、どうした。
虫の息。
今度こそ正真正銘万策尽きたその体で、その目で。
それでも静は抵抗の意思表示を止める事はなかった。
それは既に――狂気に近い代物だった。
その時。
「いいや、確かに。この場は君の勝ちだ」
後方から、男の声が。
続け様、小さな打撃音が鳴り、次の瞬間。
咆哮の様な轟音と共に、廃墟は倒壊した。




