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『異界断崖』

——————

 金属音が鳴り響いた。

 その音に、思わず両の耳を塞ぐ。塞ぎ、瞬きを挟んだ次の瞬間。合掌抄帷がっしょうとばりの世界が暗転した。


 風景が変わったわけではない。

 目に見える異常が現れた訳でもない。

 それでも、彼女を取り巻く世界は明らかに、瞬き前のそれとは完全に別種の異界となっていた。


 街を行く人がいない。

 建物の灯りが付いていない。

 先程まで共に周囲を見渡していたしじま小理さりの姿も。そこには、抄帷以外何者の姿もありはしなかった。

 水を打った静けさ。

 自らの鼓動、骨の軋みばかりが響く静寂の中で、抄帷は押さえていた耳から手を離す。そのまま辺りを見回して、微かに喉を鳴らした。

 

 異界。

 

 彼女は判断を迷っていた。明確な異常の只中にあって、自らが次に執るべき行動を決めかねていた。ただ、そんな悠長な逡巡も長くは続かない。

 沈黙の渦中に再び、金属音が鳴り響く。

 今度は耳を塞ぐことも、瞬きをする事もせず。起こるかもしれない新たな異常を警戒して、抄帷が身構える。だが。


 そんな彼女の気構えを嘲笑うかの様に、その異常は牙を向いた。


 突如抄帷の右腕を、固い感触と不可解な重さが襲った。ずしりと軋むその違和感に、視線を向けた先。先程までは確かにそこになかった不気味な鎖が右腕に絡みついていた。鎖素子の一つ一つが拳程もある巨大なそれを前にして、抄帷が息を呑む。


 どこから。

 いつから。

 堰を切って溢れるはずだった数多の疑問はしかし、物理的な衝撃で寸断される。


 絡みついた鎖ごと、抄帷の体が強引に引っ張られた。


「……!」


 鎖の伸びる先を確認する余裕もない。

 痩せ型とは言え、人間一人を相手取るにしては余りにも強烈な力に、抄帷がもう片方の手で絡み取られた腕を掴む。


 ——息気を抜けば関節毎腕が捥がれる。


 そう思わずにはいられない程の力に、抄帷が体勢を崩す。

 地面に激しく体を打ちつけ、抄帷が大きく表情を歪める。痛みを堪える様に体を丸める。だが、鎖から伝わる力はそんな苦悶の暇さえ彼女に与えない。

 鎖が、倒れ込んだ抄帷の体を滑らせる様に手繰り寄せられる。

 視線を挙げる余裕などない。その進行方向の先は――エントランスのガラス扉。


 轟音。

 正面から力任せに、エントランスのガラスが砕け散る。散らばったその欠片の只中を容赦無く引き摺られ、抄帷の体にはみるみる切創と擦過傷が刻まれていく。

 咄嗟に、開けかけた目を固く瞑る。

 ガラス片が目に突き刺されば、視力を失う。

 この異常事態の渦中、外部からの情報を得る術を失う事を恐れての動作だった。緊急の異常の中にあって、それでも。抄帷の内心は驚くほど冷静だった。


 ——だが、肉体はそれに追従しない。


「——……!」

 

 乱雑に掛けられた負荷に耐えかねた肉体が悲鳴をあげる。

 欲して止まない一呼吸が行えず、今や合掌抄帷は酸欠に苛まれ失神寸前だった。

 身体中無数に刻まれた傷の耐え難い痛みだけが辛うじて、飛び掛ける彼女の意識を繋ぎ止める楔だった。


 やがて。始まりがそうであったのと同じ様に、前触れなく突然、鎖から力が抜ける。

 

 約一秒。

 

 慣性のまま地面を滑った後、抄帷の体がようやく停止する。更にその数秒後。忘れていた呼吸を思い出した身体が、渾身の力を込めて酸素を肺に送り込む。同時に、無呼吸と緊張で鈍化していた痛覚が正常を取り戻す。そのあまりの痛みに、抄帷が苦しげに呻いた。


 薄らと目を開ける。

 正面へ投げ出された右腕には、未だ鎖が絡みついたままだった。

 立ちあがろうと、体に力を入れる。その動作を阻害したのは、やはり痛み。視線を下肢へと向ける。上着で守られていた上半身と違い、制服のスカートから伸びる足回りの損傷は極めて甚大だった。


 歯を食いしばる。

 痛みにもんどり打って泣き言を言うだけならばいつでも出来る。だが、今はとてもそんな状況ではない。

 いつまた理不尽な力が自身を襲うともわからない。ならば、このまま地に突っ伏して苦しんでいる猶予などはない。すぐにでも立ち上がらなければ。


 だが、遅い。

 

 痛みを堪えながらもがく抄帷の前に……それは姿を現した。



 紙袋を頭から被り、左手に鋸を携えている。

 異常者の模範回答の様なその姿を見て、抄帷はより一層噛み締める口元に力を込め直し、痛みが思考の妨げになる事を拒んだ。

 

 物言わぬ異様な姿。その右手には、抄帷の腕に巻き付いた鎖の先が握られていた。


 ——この人だ。


 理屈も理由も、皆目見当もつかない。故にそれは、ひたすらに無根拠な確信だった。

 目の前の不審者こそは。今を取り巻くあらゆる異常の元凶。そして恐らく、一連の失踪事件の中心も、また同様に。


 当然の恐怖。

 正体不明に対してではない。今まさに自らの身に差し迫る危機に対しての、怯え。そんな至極当然な感情の激流の中。抄帷が選んだ行動は


「あなたが、誘拐事件の犯人ですか?」

 覚えること。ただ、それだけだった。


 ——恐らく男性。身長は170半ば、肥満気味、黒のTシャツにデニムのエプロン、白のワークパンツにスニーカー——

 視線を上から下、細やかに動かし観察する。


 現状は、どう控えめに見積もっても最悪だった。

 この場を切り抜ける妙案などは皆無。顛末はそれ相応の末路以外思い付かない。だからこそ、一つでも多くの特徴を。少しでも沢山の手掛かりを探し、見つけ、記憶する。


 万が一。もしくは、億が一。

 この最悪を抜け出す事が出来た時。ほんの僅かでも有益な情報を残す為に。


 苦い、鉄の味がする。口の中が切れているのだろう、不快な味覚に顔を顰める。それでも、まるで何事もなかったかの様に言葉を続ける。

「この鎖も、痣も、あなたが原因なんですか?」

 答えはない。それは構わなかった。そもそも何か、明確な回答を求めて言葉を選んだわけでもなかった。少しでも記憶の為の時間を稼げれば僥倖。言葉に、それ以上の意味はなかった。


「——————」


 言葉に反応を示しはせず、男は無造作に手元の鎖を引き寄せる。それに伴い引き摺られた身体に奔った鋭い痛みに、再び抄帷の表情が歪む。それでも、その目線が男から外される事はなかった。


 恐怖も焦燥もこの期に及んで未だ淡く、肉体反応以上の色味を映さないその瞳を見下ろして、男は――


「——————!!」


 野太い金切り声を挙げた。


 突然の挙動に一瞬身を固めながらしかし、抄帷は未だ冷静さを保ったままだった。

 紙袋の男が肩を戦慄かせる。

 小刻みに震える身体と、荒い鼻息。そこから示される心理を読み解こうと試みた抄帷の思考を拒絶する様に、男は鋸を振り上げた。その動作に、さしもの彼女も身を強張らせる。


 男の意図は火を見るより明らかだった。

 迎える結末などはどう考えても一つしかあり得ない。

 そんな窮地の断崖で、合掌抄帷の脳裏に浮かんだのは、花蕗静はなふきしじまの言葉だった。


 ——彼の言う通りになってしまった。大丈夫などと自分で言っておいてこの様では確かに、笑い話にもならないか。


 万策などとうに枯れている。

 諦めの先、遂に閉じようとした瞼の奥。薄暗く翳る視界の端を——赤い影が掠めた。

 


 振り下ろされる凶器。その凶刃よりも速く。

 花蕗静の飛び蹴りが、紙袋の男を捉えた。


 男の手から鋸が落ちる。二メートル近くを転がったその身体は、明らかに痛みに苦しんでいる様子を見せていた。苦悶に蠢くその様を視界の端に納めたまま、静が抄帷へと声を掛ける。


「悪ぃ、遅れた!大丈——」


 言い掛けた言葉が止まる。


 剥身の顔、下肢の惨状。

 上から下までボロボロに汚れ、ほつれた衣服。鎖の痣からもそこかしこ出血している。血塗れと呼んで差し支えないその姿を見て、静が下唇を噛む。


「花蕗、さん——」


 弱々しく名を呼ばれ、漸く気を取り直した様に。静が、横たえられた抄帷の体を起き上がらせ、そのままひょいと背中に背負った。


 未だ地に伏し悶える男の姿を一瞥して、静が全速力で走り出す。走りながら、言葉を。こんな状況の中にあってしかし、余りにも軽い調子で、言う。


「目一杯ぶち込んでやったからよ。ターミネーターでもない限り、そうすぐに立ちあがっちゃ来ねーだろ。あのサイコ野郎が追っつく前に、とっととずらかろうぜ」


 声色には微かに笑みの気配すらあった。抄帷が、目の前の背中を見やる。


 荒い息。汗ばんだ首筋。

 方法や理屈はまるでわからない。それでも彼が。花蕗静が、自らを助ける為に全力を以てこの場に来てくれた事。揺るがないその事実だけは、合掌抄帷にもはっきりと理解出来た。


「――」


 自身の無鉄砲、その尻拭いを任せてしまった事に対する謝罪か。あるいは、感謝か。掛けるべき声を見つけられないまま、荒く揺れる背中から振り落とされぬ様にと、捕まる腕に力を込める。


 込めて、戦慄する。

 ——右腕に絡みついていた筈の鎖が、消えていた。


 現象がどんな意味を有しているのかを推し量る術は無い。だから本来、その不可解について思い悩む事に意味は無い。それでも尚、反射的に巡った思考の答えは、二人にとって最悪の形で提示された。


 けたたましい金属音を伴って、今再び忽然と。合掌抄帷の腕を、異形の鎖が絡めとる。

 鎖に力が込められる。出所もしれないその力に抗う余力など到底有りはせず、抄帷の身体は呆気なく、静の背中から引き剥がされる。


「合掌!」


 静が急停止して振り返る。


 地面に叩きつけられ苦しむ抄帷。その、背後。

 僅かばかりの昏倒から立ち上がった異常者は今一度、その凶刃を振りかぶっていた。

 躊躇いなく、静の足が地を蹴る。その挙動を見て、男が、再び現れた抄帷の腕の鎖の先——自ら握るそれを、力任せに引き寄せる。


 抄帷の身体が地を滑る。その様を見て、静が渾身の力を両脚へ込める。


 抄帷との距離は静の方が近い。引き摺られるその姿に追い付くのは十分可能な距離。だが、男の手には得物がある。その長さ分だけ、静よりも男の鋸……その刃の到達の方が、早い。


 ——間に合わない。


 ——引き摺られる抄帷の身体を抱き抱えて回避する。

 ——男にもう一撃何かしらの打撃を入れて怯ませる。

 どちらも現実的では無い。その前に、刃は抄帷の身体へと突き立てられるだろう。


 思考とも呼べぬ一瞬の逡巡。

 

 

 辛うじて抄帷の側へと辿り着いた静は。今まさに振り下ろされた凶器の前へと、自らの身を投げ出した。

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