82 民信無くば立たず
エルキ大河に布陣した王弟軍30000が、たった二日で壊滅の憂き目に遭い、敗残兵5000を再編成してもなお――王都内に残る兵力は、当初の半分――25000にまで減少した。
もはや野戦は叶わじと見て、王弟軍は籠城の構えを取った。
もっとも――それとて軍務を司る上級武官達による合議の末に採決された方針であったが……。
正式に戴冠してはいないとはいえ――実質的に王権を握っているヨハンは、「一切を任せる! ただし失策の際にはその責を取ることになること覚悟せよ!」と一任(ないし丸投げ)したまま、急ぎ足で内廷へ姿を消してしまい、以降連絡がつかない有様である。
平時においては王権を恣にし、官吏を頤使して、己は享楽に耽る王弟に、辟易とする家臣ではあったが――それでも甘い汁を吸えることは確かであり、その放埓さを許容していた王弟派閥の廷臣も、有事の際においてもその態度が改まらないとなれば、流石に眉を顰めずにはいられない思いであった。
先王たる獅子剣王は、確かに内政・政事に興味を示さず、家臣に一任が過ぎる向きがあったものの、軍事においては天才的な手腕を発揮し、その頼もしさだけで、王に傅くだけの価値があると認めていたものだと、古くからの宮廷貴族や官僚は、先王の御代を懐かしく思うのであった。
そのような折――獅子剣王の遺児たる王子リュカが、獅子剣王に伍する武威を示しながら、王宮へ帰参を果たそうとしているのである。
侵略戦争によって建国された尚武の国の臣からすれば、もはやリュカにこそ王権を委ねるべきではという気運さえ流れているのであった……。
***
エルキ大河の戦いから三日が経過した。
王子軍の前には、島国スぺサイド王国の海峡に臨む白堊の断層を思わせる、皓白の城壁が、リュカとヨハンの間に横たわっている。
「姉上……ついにここまで来ました」
リュカは久方ぶりに王都の外壁を見上げ、流石に感懐を抱かずにはいられなかった。
王都まではもはや、階を一つ余すばかり。
されどその階――最後の一段はあまりにも高く、まるで断崖の如き段差が、リュカの前に立ちふさがるのであった。
ここまで快勝を積み重ねてきた負け知らずの王子軍ではあるものの――これまでの城砦とは一線を画す防衛力を誇っていた。
王城を落すとなれば、尋常ではない時間と犠牲が生じることは、想像に難くない。
それすなわち、導くべく民を疲弊させることである。
王都を火の巷とするのは、リュカとしても由としない。
果たしてリュカはこの難問をどう打開するのか――王子軍の将兵は、固唾を飲んで次の行動を見守った。
ただ一人――後世の歴史書に王佐の才と記されることとなる、軍師ジャスパーを除いて。
「正当なる王太子殿下の御還幸に、なぜ強引に門を破く必要があるのでしょうか。内側より門戸を開かせ、堂々と御帰参されて然るべきことかと存じます」
というのがジャスパーの談である。
彼に言わせれば――〝攻城の法は已むを得ざるが為め也〟――城攻めは下策である、という事であり、真っ正面から攻め落すつもりなど、サラサラなかったのであった。
「それが出来たら苦労はせんだろ……」
呑気なことをのたまうジャスパーに、アイゼが呆れ半分で叱責するが――当の本人は至って真面目であった。
「いかさま。殿下には最後の御労を取っていただきます。御覚悟の程はよろしいですかな?」
「無論だ」
既に口裏合わせは済んでいるようで、リュカは緊張で指先を微かに震わせながらも、可能な限り鷹揚に務めようとする面持ちで頷くのであった。
リュカは単騎で本陣から進み出ると、城門の手前――矢頃にして一と半分の距離(約300メートル)の距離まで闊歩した。
城壁の上に構える弓兵が、緊迫のあまり矢を番えた。
「で、殿下!?」
「アイゼ殿――今は殿下を信じましょう。ここで殿下が射られるならば、それまでの御仁というだけのこと」
「貴様は最初からそうだ! 常に殿下を試すような真似を……!!」
「あなたが過保護に過ぎる故、バランスを取っているのですよ」
「いらぬお世話だ!」
エフィがこの場にいれば「夫婦漫才は後にしてください」とツッコミを入れそうなやり取りが続く中、リュカは城門の前で静かに手綱を引いた。
そして胸元に吊るした大粒のサファイアの首飾りを、小さな拳で握り込み――その権能を発動させるのであった。
「親愛なるスぺサイドの全ての民よ――聞こえておるか。余は先王リヒャルトの正統なる御子――王太子リュカ・ローゼンベルクである」
リュカの呼びかけは、狭間胸壁から顔を覗かせる弓兵のみならず、城下に住まう全ての民、王府に詰める文武百官の胸中を直に打った。
「余は愚弄卑劣なる簒奪者――先王が王弟、ヨハン大公により王宮を逐われ、流浪の身となった。されど、先王リヒャルト陛下の意志を継ぎ、親愛なる王国民を導くべく戻ってきた! 大公よりも余を王と認めるのであれば、どうかその門戸を開けてくれ!」
リュカは一縷の腹蔵もない、心口如一の演説を紡いだ。
これこそが、ジャスパーが考案し、そして詭計ばかり弄する偽僧が、初めて提唱した誠実なる策であった。
青薔薇の宝珠を通じて、王都に住まう全ての臣民に訴えかけ、王として認めて貰えれば、リュカは大義名分を持って凱旋を果たせるという次第である。
だが青薔薇の宝珠の意志を疎通する権能には、一つ条件がある。
所有者が対象者を仲間であると認識していなければ、声を届けることは叶わぬのだ。
かつて王宮という狭い世界しか知らなかった頃のリュカでは、イメージすることすら叶わない御業であっただろう。
だが、長い旅路を経て、多くの地を巡り、多くの者と誼を通じ、清濁併せた経験を積んだリュカは、城壁の向こう側にいる全ての臣民と、心を通じるに至ったのであった。
それすなわち――リュカにとっては、王弟軍として悪意や憎悪を向けられ、干戈を交えた将兵さえも、打倒するべき敵ではなく、導くべく臣民であると、本心から思っているからに他ならない。
リュカが臣民を心から信じ、臣民がリュカを心から認める。
その双方が為して初めて成立する策であった。
「余は貴顕等の心に直接語りかけており、その儀において余は嘘をつくことが叶わぬ。それを承知の上で、どうか耳を傾けて欲しい」
城壁に詰める弓兵は、摩訶不思議でありながら、どこか心落ち着く玲瓏な声音に敵意が萎え、弓を下ろした。
城壁の内側にいる民も、空を仰ぐようにして、リュカの次の言葉を待ち続けるのであった。
「余が登極を果たした暁にはまず――140年に及ぶスペイド人とハアト人の確執を撤廃することを約束する。知っての通り、余はハアト人の父と、スペイド人の母の間から生まれた。双方の民族は共に同じ神を崇め、同じ田畑を耕し、同じ土地に骨を埋めてきたではないか。スペイド人もハアト人も、挙国一致となって手を取り団結しなくてはならぬと考えている!」
リュカは声を振り絞って続ける。
「140年かけて刻まれた傷は、一日では癒えない、長い道のりになるだろう。 途中で倒れることもあるかもしれない。 余の力が及ばず、そなたたちを失望させる日が来るかもしれぬ。それでも余は、その道を歩くことを選ぶ。団結相成り大願叶いし時、スぺサイド王国はより強固にして富国たる大国になると信じている! そのための梯として、余が王国の礎となることを、どうか認めて欲しい!」
王子の演説はこれで一端の区切りとなった。
だが――その反応は芳しくない。
無理もないことである。
王国全体の人口比は、被征服民族が半数を超えるものの、王都に限っては征服民族が大半を占めている。
そんな王都民に対し、スペイド人にとって利があり、ハアト人の既得権益を損ないかねない国策を掲げる王子を、手放しで支持することは、できようもなかった。
「(やはり……ダメか……)」
反応がないのを見て、リュカは俯いて歯を食いしばる。
やろうと思えば、ジャスパーが代筆した書付をなぞるように読み上げ、耳障りのよい綺麗ごとや空約束を並べ立てることも、不可能ではなかっただろう。
だがそれでは本当の意味で、認められたとは言えない。
故にリュカは、己が心から望む国策を語ったのであり、それが民に認められなければ、「民あっての王」「民あっての国」を掲げるリュカは、王に足りえない。
だが――そんな空気を一変させる事態が、王城の最上部で起こった。
「傾――――注――――!」




