81 姫将軍ヒルデガルド
スぺサイド王国が首都――ブルーメン。
中央に聳える白亜の王城の内は、見た目の荘厳な格調とは、およそかけ離れた慌ただしさに支配されていた。
理由は単純明快。
簒奪者たる王弟ヨハン大公の謀略により、暗殺の憂き目から命からがらに出奔した王子が、軍勢を引き連れて王都を包囲しているのだから、これが慌てずにいられるか――という次第である。
軍務長官はエルキ大河の戦いから敗走してきた残兵の再編制並びに、王都の防衛強化に追われ、財務長官は王都の城門封鎖によって、物資の流通が途絶えることへの対策に頭を抱え――それ以外の官僚も、文官武官問わずに、寸陰を惜しむ思いで奔走していた。
挙句、最も信を置いていた騎士ゴードンまでもが、王子軍に変節する始末。
ヨハン大公は存じぬところではあるが、「いっそ王子に帰順すべきではないか?」とさえ思う宮廷貴族や官僚まで現れ始めた。
王宮で淫逸に溺れ、王としての役割を果たさず、放埓を貪る王弟と、自らの意志で王都を奪還せんとする活力を実力を持った王子――どちらが今後のスぺサイドを富国へと導いてくれるかと思えば、後者に票が傾くのは、無理もないことであった。
そんな多事多端に包まれた王宮において、最も焦慮を抱いているのは――他でもない、王弟ヨハンであろう。
「ヒルデガルド王女殿下はおられるか!?」
「いるに決まってるでしょ。歩けないんですもの」
現場の指揮も、内務の業務も、全て臣下に委ね(それは平時からであるが)、ヨハンが駆けこんだのは、傀儡せしめようと手元に置いていた、鳥籠の中の姫君――ヒルデガルドの私室であった。
彼女は混乱を極める王宮内の喧騒を知ってか知らずか、安楽椅子に優雅に端座し、温葡萄酒を乳で割り、蜂蜜と香辛料を溶いた嗜好飲料――甘乳酒でアフタヌーンティーに興じていた。
そこには一縷の焦りもなく――むしろ愛しの弟がすぐそこまで来ている事実に、愉悦さを抱いてさえいた。
彼女は熱を帯びた玉杯を卓の上に乗せると、室内を彩るリュカの肖像画(ただし女装姿)を眺め、果たして愛弟がどれだけ成長したのかを思い浮かべながら、恍惚とした笑みを湛えている。
「リュカが戻ってきたそうね。これにてあなたの天下はおしまい。王様ごっこは存分に楽しめて?」
最初からそうなることを予期していたかのように、ヒルダは淡々と告げ、玉杯で淑やかに唇を湿らせた。
その所作で、獅子を思わせる燃えるようなオレンジの髪が、燭光に照らされて優雅に揺れる。
「何を言う。まだ終わっておらぬわ」
「ほう――まだ何か、悪あがきの手札が残っているのかしら? でもそれなら、ご勝手にどうぞ。わたしは甘乳酒を飲んだ後は、リュカを出迎えるためにおめかししなくちゃならないのよ」
「捕虜たる姫にめかし込む必要などあらずや。しかし案じなされるな。これからあなたを人質として、表六王子に王位を諦めるよう迫る故、姉弟の感動の再会にまみえるのは確かですぞ」
「はっ」
ヨハンの言葉に、ヒルダは鼻を鳴らして嘲笑する。
「私を人質にするですって? その程度であの子の王道を止められると思わないことね」
「うるさい! 黙れ!」
「むぐっ!?」
ヨハンはもはや冷静な判断を下すだけの思慮を欠いていた。
乱暴にヒルダの頬を鷲掴みにし、耳障りな正論を遮る。
「わたしの権威が揺らぐと見るや否や、いけしゃあしゃあと粋がりおって!」
ヨハンは怒気を飛ばして威迫する。
そこには貴公子然と振舞っていた優雅さはなく、30半ばにしては若々しい面にシワを刻みながら眉を歪めた。
頬を鷲掴んだ暴力と相まって、自らの意志で立つことも叶わないヒルダは、居竦んで大人しくなると踏んでいた。
だが――追い詰められて平静さを失うあまり、失念していた。
目の前にいる深窓の令嬢は、かつては姫将軍と称され、鎮撫騎士団を率い、剣を振るった歴戦の武人であることを。
王族の権威を笠に着せ、放蕩、放埓に耽り、真剣を持って命を奪い合った経験などないヨハンの武威如きで、彼女が畏縮を覚える道理はなかった。
「…………」
「ぐっ……!?」
むしろ彼女は、その逆を為した。
瞳から放たれる覇気だけで、ヨハンを黙らせてしまうのであった。
彼は己の怯懦を恥じ、平静を取り繕うと励むものの……。
彼の実兄――獅子剣王と同じ緑色の瞳に睨まれ、かつての兄の威に呑まれて怯えていた記憶が、脳裏に生々しく蘇った。
ヨハンはかねてより、リュカのことを臆病者、軟弱者、表六者と謗ったものだが、ヒルダに言わせれば、子供染みた癇癪を直すこと叶わず、30半ばまで齢を重ねたヨハンの方が、よほど惰弱者と言えよう。
「そ、その目で見るな! 兄上と同じ目を向けるな! わ、わたしが……女を殴らぬと思うたか!?」
「では逆に問うけど――私が男を蹴らないと思っていたの?」
ヒルダはゆっくりと、安楽椅子の肘掛けに両手を置いた。
ヨハンが彼女の姿を完全に捉えられていたのは――そこまでであった。
次の刹那――蹴ッ!
「がっ!?」
真下から迸った衝撃に、ヨハンは顎を打ち砕かれ、絨毯の上に頽れた。
顎に罅が入り、歯が二本抜け落ちた。
起き上がろうとするも、腕に力が入らず、上体を起こすことすら適わない。
朦朧とした視界で、辛うじてヒルダを視界に収める。
脳震盪に見舞われ、幾重にも揺れる模糊とした視界であったが……。
それでも――足を害ったはずのいざり姫が、片足で泰然立ち、もう片方の足を大きく振り上げているのは――理解できた。
ヨハンの顎を打った正体不明の衝撃は、綺麗な半円を描くように放たれた上段蹴りだったのだと、ようやっと理解するのであった。
「な、なぜ……立っている……!? お前は……五年前の落馬で、脚を不随したのでは……なかったのか!?」
「そういうことになっているわね」
少しずつ視界が鮮明さを取り戻していく。
二重三重に重なっていたヒルダの輪郭が一つに収束すると、彼女は嗜虐的な艶笑で口元を飾り、床に這いつくばるヨハンを見下していた。
「そういう……こと、だと?」
「騙していてごめんなさいね。でも全ては、リュカを王位に就かせるために必要なことだったのよ」
「つ、つまり……足萎えは演技……だったのか……!? 欺いていたのか!? 国民全員を!?」
「五体満足のままでいれば、正嫡の私が王位を継ぐことになっちゃうでしょう? でもそれではいけないの。私では旧態依然とした王国の陋習を拭い去ることはできない。被征服民族と征服民族が抱える、140年に及ぶ確執を取り除くには――スペイド人とハアト人、双方の血を受け継いだリュカが、王位に就く必要があるのよ」
「く、狂っている……!」
二つの民族の差別意識を取り除き、健全な国家を形成する。
それこそが彼女の悲願であり、そのために彼女は、自らの足を封じてまで、リュカを王太子に冊立するよう、仕向けたのであった。
「お、おい! お前ら! わたしを助けよ!」
ヨハンは部屋の前に控えさせていた近衛兵を呼ばわった。
ヒルダの武が、全盛期から衰えていないとしても、今の彼女は丸腰である。
控えている武装兵は五人。
一斉に襲い掛かれば――いかに姫将軍とて無傷ではいられまい。
数拍の後――ゆっくりと、オークの無垢材で作られた扉が開く。
だが――そこに立っていたのは、甲冑を纏ったヨハンの私兵ではなく、女中服を着た双子の少女であった。
ヒルダが腰元として侍らせている、お気に入りの侍女である。
その背後に、絨毯に血を吸わせている兵士の亡骸が五つ積み重なっているのを見て、ヨハンは恐懼した。
彼の予想が正しければ、あの細腕の侍女二人が、訓練を積んだ五人の近衛兵を、一方的に殺したことになる。
そして凡庸なるヨハンの推察は、今回に限っては、悲しいことに正鵠を射ていた。
鎮撫騎士団の団長を務めた、生粋の武人である彼女が、自ら召し抱えた侍女――それがただの召使いであるはずがなかったのだ。
「それで、なんだったかしら? 私を人質にして、リュカを諦めさせるのだったかしら? どうぞご自由に。まあ――出来ればの話だけども」
「この女郎が!! ならば本物の跛にしてくれるわ!!」
ヨハンの脳震盪は癒えていた。
懐に呑んでいた小刀を抜き放つと、ヒルダの腿目掛けて振り下ろす。
「遅すぎ」
だが――ヒルダの蹴りがヨハンの手首を打つと、小刀は彼の手から抜けて舞い上がる。
ヒルダは回転する柄を空中で逆手に掴むと、再び絨毯に叩きつけたヨハンの手の平へ、刃を突き立て――
――ドスッ!
――縫い留めてしまった。
「こ、こ……この詐欺師があああああ!!」
「きゃんきゃんとうるさいわね。その下品な口も縫い付けるわよ」
――蹴ッ!
「ごはっ!?」
ヒルダは同じ髪色の叔父を足蹴にして気絶させると、双子侍女にヨハンの身柄を拘束するように指示を出すのであった。
――ゴトンッ。
その時――背後から、レンガが擦れる音がした。
不思議に思って振り返ると、暖炉の奥のレンガが、内側から押し出されるように、一枚ずつ外されていき、その奥にある空間から、黒髪黒装束の少女が姿を見せた。
ヒルダの私室は、一部の王族しか知り得ない隠し通路がある。
かつてリュカとアイゼが脱出に用いたのと、同じ通路である。
ヨハンは隠し通路を検めた上で、ヒルダの足ではこの垂直の縦穴を使って逃げることは叶わなじと判断し、彼女にこの部屋を使わせ続けていたのである。
「あら、可愛らしいお客様だこと! 丁度甘乳酒 を煎れてあるのだけれど、飲んでいくでしょう?」
頬を煤で汚した侵入者の少女を、ヒルダは両手を合わせて嬉しそうにもてなそうとする。
予想外の歓待に、黒髪の少女はきょとんと面食らっていた。
「あの……あたしは王太子リュカ・ローゼンベルク殿下の特使として、幽閉されているヒルデガルド王女殿下を救出しに参ったのですが……」
黒髪の少女――エフィは、改めて室内を観察する。
下半身不随と聞いていた王女は溌剌と二本の足で絨毯を踏みしめており、ヨハン大公は手の平を負傷して伸びており、そのヨハンを同じ顔をした二人の侍女が縛り上げている。
「えっと、これは……あたしの助け、必要なかった感じです?」
おとぎ話のお姫様は、勇者の助けを座して待つのがお約束であるが――姫は姫でも姫将軍。
彼女においては、その定跡が当てはまるとは限らないのであった。




