76 最後の戦いの幕が上がる
10000にまで膨れ上がった王子軍が、ケーヒニス砦と発ち、王都へ向け進発したのは――あれから二週間後のことである。
季節は初夏を過ぎ夏に移っていた。
北国のスぺサイドとしては、烈日と呼んで差し支えない日差しが蒼穹から降り注ぐ。
青々とした草原は、緩やかな波紋を連ねながら風を受け、それらを踏み均す軍勢の冑は、白い光を弾き返し、数千に及ぶ槍の穂先が、眩耀の飛沫を散していた。
王子軍が王都に到達した時――王弟ヨハン率いる軍勢は、既に布陣を完了させていた。
各地よりヨハンに与する地方領主を参集させた結果、その兵力を50000まで膨れ上がらせ、王都の城壁に梯子一つかけさせまいと、王子軍を待ち構えていたのである。
「アイゼ殿の治療を断念して、先を急いでいれば、これほどの軍勢を相手にする必要はなかったのですが」
というのがジャスパーの談である。
もとより本気で言っている訳ではない。
王子軍にとっても、王子にとっても、アイゼの生存が戦況を大きく左右することは、疑いようのない事実であり――当初の予定から乖離が生じたのであれば、別の策でその乖離を埋めるのもまた、軍師の務め。
既にジャスパーの脳裏には、十を超す策が蠢動し、その全ての仕込みも整っていた。
また――王弟軍50000の軍容は以下の通りである。
城内に20000の兵を温存し――
城門の前に10000――
エルキ大河にかかる橋の前後に5000――
エルキ大河を渡った先の平原に15000――といった具合である。
また、大河を扼する橋上の軍勢は、征伐騎士団の旌旗がはためいており、指揮官にはゴードンが据えられていた。
ゴードンはナハティガル修道院での一幕の後、梟首を覚悟でヨハンの元に帰城した。
だが――ヨハンは此度の敗戦の咎を全て不問に付すと、これまで通り、ゴードンを重用することを約束し、再び5000の兵を預けたのである。
それは決して、ヨハンが懐の深さを示した訳ではなく、面前まで迫るリュカの軍勢に、ようやっと焦りを覚えたからに他ならないのだが……。
ヨハンとて予想外だったのだ。
まさか、たった一人の家臣と共に、こけつまろびつ出奔した、なんの後ろ盾も持たない繊弱な王子が、数ヶ月の内に10000もの兵を集めて舞い戻ってくるなど、ヨハンはもとより、他の誰も予測できない仕儀であり――ヨハンの焦慮も詮無きことであろう。
ヨハンは眠れる獅子を谷底へ突き通した結果――端倪すべからざる王子の才を、開花させてしまったのである。
かくして――エルキ大河を挟んで、王子軍10000と王弟軍30000の野戦――後の世でエルキ大河決戦と記される事となる戦いの幕が、切って落とされたのであった。
***
城内に20000の兵を温存しながら、、なおエルキ大河の前後に30000の陣を敷いた王弟軍。
そこから約一キロ手前の小高い丘の頂きを、王子軍は本陣と定めた。
リュカは木台の上に立ち、一糸乱れぬ整列で閲兵した兵士達を見下ろしながら、鼓舞を孕んだ演説を宣した。
その声は決して大音声ではなかった。
むしろ鈴を転がすような玲瓏にして、小鳥が囀るような、雅やかな調べである。
にも関わらず、その清韻は陣の最奥に立つ末端の兵にまで、ことどとく胸中に沁み込んでいく。
それもそのはず。
彼の演説は――青薔薇の宝珠による、思念の伝達によってもたらされたものであるからだ。
『貴顕らにはまず、わたしの為にここまで付いてきてくれたことに、至上の感謝を述べたい。そしてあと少しだけ、その命をわたしに預けて欲しい。聖女メロコティーニャに誓い、スペイド人とハアト人の確執を取り除き、誰も飢えることはなく、悪は悪として裁かれ――それ以前に、悪に染まらなければ生きていけぬような世を糺し、王道楽土を築くことを約束する』
リュカは王都を脱し、様々なものを見てきた。
特権にしがみつき、贅を恣にする貴族。
征服民族と被征服民族との確執。
農奴の貧相な食事。
悪に落ちざる得なかった剽盗。
その剽盗の世界で生きていかざるを得なかった女子供達。
剽盗と結託して汚職を働く貪官汚吏 《たんかんおり》。
隙あらば他領に侵略せんとする領主。
そして――生まれながらの王族であるが故に、それら俗世の悲鳴を知らずに悠々と生きてきた、他でもない自分自身。
それもまた、リュカからすれば、糺すべき咎であった。
故にリュカは決意した。
一点の翳りもない完璧な王道楽土を築くことは叶わぬとしても、少しでも理想の王政を敷くことを。
『此度の戦いが終われば、末端の兵に至るまで、全ての者を厚く遇することを約束し、志半ばに月神の腕に抱かれることとなった者には一人残らず追悼の意を示し、その家族が飢えることのないよう弔慰金を用意することを誓う。だが、全ては王宮を蝕む王弟ヨハンを討ってこそ成る。わたしは今ここに集いし勇者たちの顔と名前を全て胸中に刻み、今後決して忘れぬ! だからどうか、あと少しだけ、わたしに力を貸してくれ!』
王子の檄を前にして、兵達は一斉に鯨波の吶喊を上げた。
今の演説の一言一句は、リュカが己の心から絞り出したものであり、書付の一枚も用意していない。
それ故に、兵達の心に染み入ったのであろう。
側に控えるジャスパーは、完全に王の将器を身に着けたリュカの成長に涙ぐみ、アイゼに至っては滂沱の涙を流していた。
士気は最高潮に達した。
野戦における戦力差は三倍。
しかも、野戦の後には戦力差二倍にもなる攻城戦が控えている。
にも関わらず、王子軍の中に敗色を憂う者は一人もいない。
リュカが王都目掛けて、手を掲げる。
兵達は、一糸乱れぬ転回で、身を翻し、リュカと同じ方角を見据えた。




