72 尼僧の得物
「我らは、敵国にて虜となり、獄を抱いたまま崩御された愚王リヒャルトに代わり、政事の一切を取り仕切られた英傑ヨハン大公直属が麾下――征伐騎士団である。御修道院にて、昏君リヒャルトが唯一持ち得ていた武辺さえ持ち合わせぬあまりか、ヨハン大公に妬心を抱き、徒に治世を乱さんとする、妾腹の王子を匿われていると聞き及びし次第。かの矮首には、王国140年の歴史を重ねし王冠の重みに耐え余るかと存ずる次第。故に――御修道院には即刻、件の落胤王子の引き渡しをお願い申し上げる」
ナハティガル修道院の門前。
つづら折りの丘の裾には、50人余りの兵に包囲されており――
征伐騎士団より遣わされた使者は、修道院長フローレンツに対し、上記の口上でもって、王子の引き渡しを要求した。
――数日前のこと。
ケーヒニス砦でツギオストロ伯との連合軍が敗れ、潰走する憂き目を見たゴードン。
だが、彼は王都へ帰することなく、野伏に転じてケーヒニス砦の近郊に伏していた。
王弟ヨハンからの寵信が失墜したゴードンにとって、此度の敗北は文字通りの馘首を意味する。
亡父の仇討ちを果たすことなく、斯様な形で命を終えるのは、断じて本意ではない。
だが――そこに好機は訪れた。
王子がごく少数の手勢のみを伴い、砦を発ったのである。
これ幸いと、ゴードンは功を立てるべく王子の後を追い、ナハティガル修道院を包囲した――という次第であった。
確かに騎士アイゼリーゼは強敵と認めざるを得ない。
だが――どのような猛将であろうとも、軍を失えばただの一個の騎士に過ぎない。
優れた個と言えど、圧倒的質量を誇る勢に対しては、無力なのである。
如何に剽悍な鷹であっても、嘴と爪を失い、挙句に翼までもがれては恐れるに足らない――というのがゴードンの談だ。
修羅に堕ちたゴードンにとって、もはや騎士道に殉じるよりも、奸を弄してでも手柄を立てることが優先であったのだ。
さて――再び視点を修道院に戻せば、無言を貫くフローレンツに対し、使者が更に言葉を重ねていた。
「我らもまた月神に僕であり、清廉を掲げる騎士の端くれに存する――僧院を襲い、僧を害することは本意にあらず。賢明なるご返答を頂戴したく存ずる」
「…………」
ゴードンの代理としてつづら道を登った使者は、先代のゴードン卿の御代より、二代の主を支えてきた老参謀である。
武人であると同時に、分筆の学も修めている初老の騎士は、書吏がしたためた書状を読み上げるかのように、表面上は慇懃に見える言葉を並べ立てるも、その内容は脅迫に等しく、挙句先王並びに王太子に対する酷い嘲弄を並べ立てていた。
一方――限りなく脅迫に近い要求を受けたのは、参謀より頭一つと半分、背の高い女僧。
前髪の一房のみが灰色に染まった、鳶色の長髪を、一本の太い三つ編みに結った――フローレンツである。
彼女は鷲の如く鋭い、榛色の瞳で使者を見下ろす。
その圧は、数十年を騎士として過ごしてきた老参謀ですら、内心で尻込みしてしまう凄みがあった。
無論――そのような弱みはおくびにも出さなかったが。
「…………」
「ご熟慮の程、尤ものこと。だが、今一度按じて頂きたい。戦に明け暮れ、碌な統治もままならぬまま世を去った先王の遺児と、愚王に代わりスぺサイドの治世を守り続けたヨハン大公と――そのいずれが次代の王に相応しいかを」
フローレンツは黙行を課した修行僧のように、沈黙を貫くばかりであった。
巨岩を相手しているようで、暖簾に腕押しといった手応えに、征伐騎士団の参謀も、舌の根が乾くお思いを覚えながら――それでも言葉を重ねた。
しかしその実。
先方の不安とは裏腹に、フローレンツは、どちらの王族を推戴するかは、とっくのとうに定めていた。
彼女が思い浮かべた人物は、臣のために顔を汚し、服を泥まみれにさせながら騎行し、徹宵の看病を厭わず、王族の身でありながら修道女相手に頭を深々と垂れ、ルナルシア月教の徒たらんとする、あの小さな背中。
王道を歩まんとするとする、若き獅子の姿であった。
――ビュンッ!
刹那――一筋の白光が走った。
「っ!?」
参謀は一瞬、何が起こったのか、理解できなかった。
だが一拍の後――彼の頸動脈の際に、鋭い痛みが走り、赤い細線が、皮膚の上から滲み出した。
フローレンツの手を見る。
修道服の袂から引き抜かれし細身の長剣――王国では馴染みの薄い異国の武器――細剣が握られていた。
彼女はその巨躯から刃を抜き放ち、目にも止まらぬ速度で振り抜くと――老参謀の首の皮一枚を、寸分の狂いもなく薙ぎ払いしたのである。
あと数ミリ、彼女の手元が狂っていれば、頸動脈が傷つき、噴水の如く吹き出した鮮血が、修道院の門戸を赤く彩っていたことだろう。
「これが僧院の答えです」
この時フローレンツは、初めて口を聞いた。
彼女は濡れた剣先を血振るいすると、刃を己の眼前に垂直に掲げる。
細身の刃は、まるで線のように彼女の顔に溶け込んでしまった。
目の前に刃があるのに、見えない。
その奇妙な恐怖が肝を冷やし――参謀は首筋を抑えながら、後ずさる。
「その言葉、ゆめゆめ後悔なさらぬよう」
もはや負け惜しみにしからない言葉を辛うじて言い残し、老参謀は脱兎の如く、つづら折りを駆け降り、本隊の軍勢の中に消えていくのであった。




