71 君におはようと言いたくて
深い深い、濃紺の水底のような場所。
痛みも苦しみも届かない、凪いだ静謐の中に、アイゼリーゼ・アイゼンハルトは揺蕩っていた。
これは、夢と現の間に広がる無意識の世界。
もしくは、現世と月星界の狭間を彷徨う走馬灯か。
***
「お初にお目にかかります。某はヒルデガルド・ローゼンベルク閣下の元、鎮撫騎士団副団長を務めておりました。アイゼリーゼ・アイゼンハルトと申します。よろしければ、アイゼと呼んでくだされば幸甚に存じます」
――五年前。
剣術において獅子剣王に次いで伍する者なしと謳われた、王女ヒルデガルドが不幸な事故により足を害った。
アイゼの直属の上官は――甲冑を脱いでドレスに着替え、鞍を降りて安楽椅子の似合う、深窓の令嬢へと姿を変えた。
ヒルダは鎮撫騎士団をイリアーナに託し、副団長アイゼと共に王宮に参内を果たした。
当時アイゼは、てっきりヒルダの供奉を任されるのかと思っていたのだが……。
彼女に与えられた任は、ヒルダの弟君――リュカ・ローゼンベルクの傅役。
当初は酷く困惑したのを、今もなお覚えている。
だが――その困惑は、リュカへの拝顔を迎えた瞬間、花信風に触れた冬霧の如く、跡形もなく霧散していた。
「(な、なんと可憐な御方なのだ……!?)」
たった8歳の少年を前に、アイゼは迷うことなく己の主君を定めた。
健康的な朱が差した頬は、朝露に濡れる白花のごとく瑞々しく、その瞳は大粒の蒼玉を、卓越した職人が魂を込めて研磨したかのように、美しく輝いており、清流の川のように滑らかに揺れる青髪は、絹糸を凌駕する艶やかさを帯びながら、守護聖人の頭上に佇む光輪を思わせるような輝きが、燭光を受けて煌めいていた。
アイゼの実家は尚武の家系であり、男女問わず騎士となるべく教育を施される。
アイゼの性分もまた、アイゼンハルト家の家訓と相成り、木剣を握り、皮鎧を纏い、泥と汗で顔を汚すことに関しては、なんら不満もなかった。
だが――己を着飾るに頓着はなかったものの、美しいものを愛でる感性においては、並みの女性を遥かに凌駕するものを持っていた。
その秘めたる性癖が、リュカを前にして、長い眠りより覚醒したのである。
「よ、よ……よろしく……た、頼む……」
アイゼの口上に返答するリュカは、明らかに怯えていた。
被征服民族との愛妾との間にできた落胤が故、厄介者として王宮の隅へと追いやられ、人と関わる機会が乏しい王子は、すっかり人見知りに育っていたからだ。
それでも――姉の背中から顔を半分だけ覗かせ、勇気を振り絞る様が、ことさらアイゼの性癖を撫でくり回した。
興奮のあまり頬の筋肉が緩んでしまうのを、耐えるのに必死であった。
しかしそこは歴戦の騎士。
アイゼは頬を引き締め体面を保つも、されどその心は幸甚に打ち震えていた。
「あら。人見知りなリュカにしては、随分と積極的じゃない。アイゼにリュカのお世話を任せる選択は間違ってないようね」
「(いや……どうみてもめちゃくちゃ警戒されているように見えるのですか……!? 無論、敬愛するアイゼ様の弟君――それもこのように愛らしい少年に仕えることが出来て、無上の喜びであることは確かでございますが!!)」
瞼を閉じればいつでも甦る、大切な思い出。
これが――アイゼとリュカの馴れ初めであった。
***
最初こそアイゼの放つ凛々しい風貌や、武人特有の圧に怯えを見せていたものの――リュカにアイゼに心を開くに、さほどの時間を要しなかった。
リュカはヒルダに代わって立太子され、アイゼはリュカを立派な王と育てるべく、傅役として勉学や教養や作法を教授した。
余の時間は、リュカを膝上に乗せて講談を読み聞かせたり、詩を唄ったり、庭園で花を愛で、時にその生垣の迷宮で迷蔵に興じることもあった。
また、アイゼもリュカも、共に敬虔深く、毎日欠かさず王宮の礼拝堂で祈りを捧げた。
共に並んで祈りを捧げ、時折薄目を忍ばせては、リュカの長く豊かなまつ毛や、瑞々しい薄桃色の唇や、織りたての絹布の如く、寸毫の翳りもない頬を覗き見て、耽美に浸ることを密かな役得としてした。
なお――アイゼは知り得ないことであったが、同様にリュカもまた、無防備に祈りを捧げている、アイゼの高い鼻や凛々しいかんばぜを盗み見ては、恋慕を募らせていたのだが……。
これまで一度もそのタイミングが重なり、二人の視線がぶつかったことがないのは、敬虔な二人に対するルナルシア神の計らいか。
とにもかくにも――年の離れた主君を慕う気持ちは、日を増すごとに、深く複雑に絡み合っていった。
守るべき主君への忠義。
慈しむ者への母性。
そして――恋慕。
三つが渾然一体となって、アイゼの胸中に、深い根を下ろしていた。
***
だが――王宮で過ごした五年間よりも、王弟ヨハンの謀反により、王宮から出奔した数ヶ月の方が、アイゼからすれば濃厚なものであった。
愛馬アグロに相乗りし、エルキ大河にかかる橋上で騎士ゴードンと決闘を果たし――
スタンス城でシュタンシュテット伯の奸計に嵌って、エルキ大河に身を投げ出し――
高熱を出した際には抱擁でもって温めた――
意識を失ったリュカと唇を重ねて人工呼吸を施した(その際、どさくさに紛れて唇に吸い付いた点は、不問に付して頂きたい所存であったが……)。
臆病で、誰かに守られなければ何一つできなかった少年は、気付けば王に相応しい器量を磨きあげていた。
民の痛みを己の痛みとして引き受け、兵の心に火を灯し、狷介な錬金術師の心の扉までもを開いて見せた。
気付けばリュカの周囲には、多くの賢臣が集い、リュカの歓心が他の侍臣に向くことに、妬心を燻らせることもあったものの……。
それ以上の気持ちで、君主の成長を喜んだ。
「(そうだ……)」
精神世界において、生温かい湯船に揺蕩うが如き追憶に浸っていたアイゼは――憶起するように、声を漏らした。
「(私は――殿下が玉座に登極し、王冠を戴くその日まで、死ぬわけにはゆかぬのだ……)」
例え肝脳が地に塗れようとも、戦い続けることを誓ったではないか。
心地よい走馬灯に享楽している場合ではない。
その時――アイゼの唇に、何かが触れた。
「(殿下……?)」
その感触に覚えがあった。
エルキ大河の岸辺で、リュカに人工呼吸を施した瞬間と同じ。
没薬を蜜で割り、ミルクで解いたような甘露は――リュカ唇に相違なかった。
そこから注ぎ込まれる、生命の奔流が、傷ついたアイゼの全身を癒し、毒を駆逐し、全身の血が躍動を取り戻すのを感じた!
「(ああ……殿下……! 殿下! そこにいらっしゃるのですね……!)」
アイゼは腕を伸ばした。
頭上に輝く光の糸を掴み、手繰り寄せ――アイゼは再び現世へと返り咲いた。
伏していた黄金のまつ毛が持ち上がり、親愛なる少年と同じ碧眼が、ついに開眼した。
***
「…………んぁ」
丸二日ぶりにアイゼが目を覚ます。
靄がかかったように朧気な視界に、最初に映り込んだのは、揺れ動く青い炎のような輪郭。
「アイゼ! 目を覚ましたのだな……!?」
「で……んか?」
「そうだ! わたしだ! ああ、良かった! 本当に良かった! ルナルシア月神よ、月星に召されし全ての守護聖人よ! 慈悲深き思し召しに至上の感謝をお捧げ奉る……!」
数度瞬きを繰り返すと、紗のかかっていたような視界が鮮明に晴れた。
そこには、先の夢で常に傍らにあり続けた、最愛の主君の顔がある。
リュカはアイゼの手を握ったまま、大粒の瞳からとめどなく涙を流していた。
熱い雫が、アイゼの腕に幾筋も零れ落ちてくる。
「(ああ……目を覚ました時、最愛の御方が隣にいてくれる……それがこんなにも心地よいとは)」
瘧が落ちたかのように、アイゼの頭は澄んでいた。
全身を蝕んでいた、痛みはどこにもない。
「温かい……」
何時間もの間、握り続けていたのであろう。
小さな御手に包まれた彼女の片手は、熱が籠り、お互いの手汗で湿り気を帯びている。
だが――彼女が温もりを感じたのは、手の熱が理由ではなかった。
その手から放たれ、心の臓まで届いたリュカの献身によるものであった。
「(心が……温かい)」
アイゼはゆっくり、毒素の抜けた腕をシーツから持ち上げた。
リュカの頬にそっと指を這わせ、透明の雫を拭いとるのであった。
***
アイゼが覚醒したという朗報に、リュカが歓喜したのも束の間。
凶聞がもたらされたのは、それから殆ど間も置かない時分であった。
カラスの濡れ羽色の艶髪を振り乱しながら、病室に飛びこんできたのは、リュカの唯一の友――エフィ。
「た、大変ですリュカちゃん!」
リュカが、アイゼが目を覚ましたことを告げ、エフィと喜びを分かち合う間も与えずに、エフィは口早に凶報を継ぐ。
「修道院の周囲が、征伐騎士団の旗に取り囲まれです――すなわち、王弟軍によって包囲されちゃってますです!」
「な、なんと……!?」
リュカはそっと窓の鎧戸を開け、外の様子を検めた。
そこでリュカは、見覚えのある重装騎士を発見する。
バケツをひっくり返したかのようなデザインの甲冑――これまで幾度もの間、リュカの前に立ちふさがってきた、王弟ヨハンが派せし鉄の猛将。
ゴードンの軍勢であった。




