70 乙女の唇で酸いも甘くするように
修道院長フローレンツは、リュカの懇願を聞き留め、アイゼが侵された毒を解毒する薬の調合に取り掛かるのだった。
――数刻後。
「本来であれば熊や獅子に使う強さの薬なのですが、彼女の生命力を加味すれば問題ないでしょう」
「(問題ないんですか……)」
フローレンツ修道院長が、アイゼを蝕む毒を駆逐する解毒剤の調合を終えたのは――太陽が稜線と沖天の中間に達しようという時分であった。
リュカ一行は、フローレンツを労い、固唾を飲んで――彼女の唇に薬液が運ばれるのを見守った。
だが――
「ごっ……げ……っ」
「アイゼ!?」
――ほんのりと粘り気を帯びた、薄緑色の水溶液は、アイゼの舌に触れた瞬間、喉奥に滑り落ちることなく、吐き戻されてしまった。
唇の端から頬へ、唾液混じりの薬液が伝い落ち、シーツに染みを作った。
「これは、どういうことだ……?」
「申し訳ございません、薬の効能自体に問題はございませぬが、もはや彼女に残された時間も少なく、飲みやすさについては苟且と付しておりまして……」
フローレンツは、アイゼの口元を布巾で拭いながら、「まあ、時間をかけ丹精に作り上げたとしても、苦渋なる代物であることに代わりはないのですが」と付け加えた。
すなわちアイゼは、異物を口にした際に、思わず嘔吐いてしまう、生き物の持つ本能によって――解毒剤を危険なものと判じ、反射的に吐き戻してしまった――という次第であった。
瀕死の床にあってなお、動物的本能を失わないアイゼの飽くなき生命力。
それが今回に限って、仇となってしまったのである。
この時代において、経口を経ずに、胃袋や血中に直接薬剤を投与する手法は確率されていない。
ここまで来て、新たな障壁が、リュカの前に立ちはだかるのであった。
悲観するエフィとジャスパー。
されども。
その傍らで――
「……フローレンツ殿、薬を頂けますか」
「は、はい」
――ただ一人。
リュカだけが、蛾尾に並々ならぬ決意を漲らせると、修道女より薬杯を受け取った。
王子は薄緑色の水面を、睨みつけるようにひと息見つめた末――杯を呷り、ひと匙分を口内に含んだ。
未だ膨らみを知らぬ喉仏が、緩やかに隆起した。
「っ!?」
その様を見て、フローレンツの榛色の瞳が、驚愕で見開いた。
本来ならば、半日かけて弱火で煮詰め、数日乾かし水分を飛ばして粉状にし、蜂蜜や香辛料で練り合わせ、苦みを誤魔化すことで、ようやっと人の舌に耐えられる産物である。
今リュカが口内に含んでいる解毒剤は、意識がない患者が、味を自覚しないのをいいことに、味の良し悪しを苟且に付して調合された粗製の代物。
月神の僕として、あらゆる苦悩に耐え忍んできたフローレンツであっても、舌上に乗せて吐き出さずに我慢できる自信はない。
だがリュカは――アイゼへの慈愛の慕心――すなわち強靭な精神力だけで、やり遂げたのであった。
「…………っ!?」
峻烈なえぐみが、口腔に広がる。
肉体が反射的に、嘔吐せよと信号を発してくる。
泥を煮詰めたような苦みを前に、横隔膜が痙攣を繰り返す。
目尻には涙が滲み、鼻奥が痺れ、ひりつくような拒絶感に眩暈までしてきた。
もはやこれそのものが毒液と呼んで差し支えない程の不味さである。
良薬は口に苦しとは言ったものだが――かの猛毒を解毒するに至るには、これほどまでの苦みを必要とするという訳であろうか?
「(わたしは毒に侵される苦しみを知らない。なぜなら、他でもないアイゼが、身を挺してわたしを庇ってくれたからだ! なら――これからアイゼに与える苦難の一端くらい、わたしが共有できずにどうする!)」
その一念が、リュカを支え、耐え抜いた!
そのままリュカは、アイゼの白いおとがいを持ち上げた。
血の気が失せたことで、彼女の弾力の失せた干からびた唇に、リュカの瑞々しい薄桃色の唇が静かに重なり――薬液はアイゼの喉奥に流し込まれた。
「なっ!?」
その様を目の当たりにして、エフィを始めとした者が驚愕を浮かべる。
だが――彼女らが本当の仰天に見舞われるのは、これからである。
――ゴクリ。
「え……アイゼさん、今、飲んだんですか……?」
アイゼの喉が、ゆっくりと動いた。
渋いワインを、乙女の唇で甘く変えるように――リュカの唇を介して、アイゼは良薬を嚥下したのであった。
「恐らくではありますが、本能で理解したのでしょう……唇に触れた感触が、リュカ殿下のものであることを。そしてアイゼ殿は、決して殿下の唇を拒むようなことは致しませぬ」
「え……それはちょっと怖いんですけど……」
日頃より王子の侍臣達が辟易していた、アイゼの唯一の欠点――リュカへの病的なまでな慕情が、此度のアイゼの命を救うに至ったのである。
「ぜぇ……ぜぇ……!」
「りゅ、リュカちゃん大丈夫!? お水、お水でお口すすいで!」
「大事ない。アイゼが侵される毒の苦しみと比すれば、この程度で根をあげてはいられぬ」
唇と目尻を拭ったリュカであるが――そこにフローレンツより、更なる絶望的な言葉が飛んできた。
「申し上げにくいのですが殿下……この薬ですが、二刻おきに五匙分の摂取を必要としております。今一度繰り返す仕儀となりますが……よろしいですか?」
「それも問題には及ばぬ。アイゼの体から全ての毒が駆逐されるまで、幾度でも繰り返そう」
リュカは双眸に揺るぎない決意を宿し、そう答えるのであった。
***
その後もリュカは、甲斐甲斐しくアイゼの看病を続けた。
半刻おきにアイゼの体表に浮かんだ汗を拭い、水差しから水を飲ませ、二刻おきに件の苦薬を口移しで飲ませた。
今でこそ総勢5000を超える王子軍であるが――王宮を出奔したばかりの頃、リュカに付き従う者は、アイゼただ一人であった。
かつてスタンス城の露台から、エルキ大河から身を投げた折、晩冬の冷水に晒され、リュカは意識を失い高熱に侵された。
その時アイゼは、人工呼吸でリュカを救い、高熱の際は付き従って世話をした。
現在のそれは――まさにその逆の様相を現わしていた。
かつて受けた奉公を忘恩することなく、主君としての責務を果たすが如く。
「リュカちゃん、少し休んだ方がいいんじゃいです? アイゼさんのことは、あたしが診てるですよ」
「気持ちだけ受け取っておこう。常に傍にいたいのだ。わたしが床に臥せった時は、アイゼは片時も離れずにわたしの手を握っていてくれた。意識がなかった時も、なぜかアイゼの手の温もりだけは感じることができた。そして、目を覚ました時にアイゼが隣にいてくれた時、どれほど心強いと感じことか。だから――わたしもそうしてやりたいのだ」
「……分かったです。それじゃあ、食事だけ持ってくるです」
ナハティガル修道院への道中、リュカ達は夜通しの行軍により、一睡もしていない。
リュカの白い肌に刻まれた濃い隈が、彼の疲弊を顕著に物語っていた。
それでもエフィは、リュカの意を尊び、アイゼの看病を一任し、病室を後にするのであった。
「アイゼ、ようやっと理解した……看病する側というもの……存外に辛いものだな……お前がもう目を覚まさないのかと思うだけで、胸が潰れそうになる」
見守る側になって初めて覚える感情。
しかしリュカは、アイゼがかつて抱いたであろう感情の一端が垣間見えた気がして――それさえも愛おしいと感じるのであった。
***
アイゼへの薬液を投与が――九回を迎えた。
陽はとうに落ち、切られた窓から覗く十六夜の月が、そんなリュカを心配し、沈むのを惜しむかのように、西の稜線から顔を覗かせていた。
「アイ…………ゼ」
リュカの献身的な看病と、劇薬にも等しい苦みを誇る良薬が功を奏したか、青白かったアイゼの顔色は、幾分かの赤みを取り戻し、血管に根を張っていた青黒い腫瘍も薄くなっている。
しかし――目を覚ます気配だけは、一向に見せることはなかった。
「大、丈……夫だ……わたしが……側に……いる……」
流石のリュカの精神力も、限界を迎えようとしていた。
ケーヒニス砦を発ってから、既に丸一日と半日、一睡もしていないのであるから、それも仕方のないことであった。
細い首は船を漕ぎ、妖精がぶら下がっているのではと錯覚するほどに、重い瞼が大粒の蒼玉を隠そうとしている。
「アイゼ……アイゼ……」
リュカは意識を保つため、幾度も、最愛の者の名前を呼ぶ。
だが――ついに限界を迎えた。
リュカの白皙の頬が、シーツの上に落ちた。
「(ついさっき……薬を与えたばかりだ……そして二刻後には、一番鶏が鳴く頃合い故、次の投薬まで寝過ごすことはないだろう……それまで……少しだけ……)」
かくして、隔絶した精神力で意識を保ち続けていたリュカも、ついに意識を手放したのであった。
しかし――それでもなお、寵臣を労わる王子の手は、決して彼女の手から解かれることはなかった。
窓の外。
月が沈む直前――最後の月光が、リュカの横顔を慰撫するように照らし、稜線の向こうへと消えていった。
その瞬間。
――ピクリ。
アイゼの指先が僅かに動いて、絡みつくリュカの指を握り返したことに、夢の世界へと旅立ったリュカは、知る由もなかった。




