68 修道院長フローレンツ
【前回のあらすじ】
毒矢に侵されたアイゼを救うべく、リュカ、ジャスパー、エフィは近隣にあるという医学に精通した修道院を目指すべく、砦を出立するのであった。
リュカ一行が、件の女修道院――ナハティガル修道院に到着したのは、ケーヒニス砦を発って一昼夜が経過し、払暁の空が東の稜線を白く滲ませる時分であった。
件の修道院は官道を外れた辺鄙な一帯にある。
また陵丘の起伏が激しい地帯であった。
そのため雨が降ると、窪地は酷くぬかるんでしまう。
道中、アイゼを乗せた幌馬車は、泥濘に車輪を奪われ、やむなく馬車を乗り捨てた。
リュカは自身の背に、アイゼをたすき掛けにし担ぎ、鞍の後輪に乗せると、再びアグロに拍車をかける。
絹の下履きが膝まで茶泥に染まり、背中に重くのしかかるアイゼの恵体を支えながらも、リュカはただひたすらに前を見据え続けた。
リュカの繰るアグロは、駿馬であると同時に悍馬の気風も兼ねており、大人一人と子供一人を乗せながら、一度も休息を挟むことなく、騎行を果たした。
エフィとジャスパーも、泥濘に棄てた馬車を引かせていた空馬に馬具を付け替えることで、なんとかアグロの健脚に追いついた次第である。
「リュカ殿下、あの建物がナハティガル修道院でございます……!」
「ようやく着いたか……!」
正面は東方を指している。
稜線から顔を覗かせた明々しい払暁が、リュカの蒼眼を灼いた。
王子は柳眉の上に手で庇を作って、朝焼けを遮ると、改めて丘上に建つ修道院を検めるのであった。
石造りの修道院は二階建てで、屋根の上に、ルナルシア月教の象徴の彫られた鐘楼が吊るされている。
建物そのものはこじんまりとしていたが、その周囲には修道院の数倍の面積を占める墓地が広がっており、かの建物の歴史の古さを静かに物語っていた。
リュカは逸る気持ちを抑えること叶わず、アグロの腹に更なる拍車をかける。
アグロもまた、己が主人の危篤を察してか、己で己に鞭を入れ、土を踏み均しただけのつづら折りを駆け上っていく。
「ここまで来たらもう自力で走った方が早いです!」
エフィはリュカに置いて行かれまいと、疲弊した馬を捨て、暗衛として鍛えた俊足で、つづら道を一直線にショートカットし、泥に汚れた月毛の尾を追いかける。
「拙僧は肉体労働は専門外なのですがっ!?」
独り残されたジャスパーだが、主君と生徒を置いて、一人だけ悠々としている訳にもいかぬ。
彼もまた馬を降りると、ぜぇぜぇと息を切らしながら、つづら道を道なりに駆け上るのであった……。
***
「御修道院にて、名医と名高い高僧がいらっしゃると仄聞し、参した次第です。何卒、賢者殿のお知恵を拝借したい所存なのですが……」
「…………」
アグロから下馬したリュカは、アイゼの踵を引きずるようにして、修道院の門戸を叩いた。
しばらくして現れたのは――――目を疑う程の長躯を誇る尼僧であった。
息を切らせて追いついたジャスパーの背丈は180センチに達するが、それよりも頭半分ほど高い。
リュカの頭部は、彼女のへその辺りに位置する身長差である。
肩幅も厚く、リュカの肩幅が、彼女の腰幅に軽く収まってしまう程の恵体だ。
リュカはこれほどの長身の女人に会うのは初めてであり、背丈の違いから、自ずと仰ぎ見る体勢になる。
それすなわち、自ずと見下ろされる体勢になるので、なおさら畏怖を覚えたものであった。
しかし――それでも臆することなく、それでいて慇懃に、リュカは俄かの訪問を詫びた。
そんな尼僧の年頃は30前後と見えた。
かれこれ十年以上に及ぶ精進の賜物か、その顔立ちは清貧でありながら気品に溢れている。
鳶色の長い髪を、太い一本の三つ編みに結って背中に垂らしており、若白髪だろうか――前髪の一房だけが灰色に染まっている。
臈長けたかんばぜも相まって、まるで小夜啼鳥のような印象を与える女人であったが、首から下の恵体と、物欲が削ぎ落された高僧の研ぎ澄まされし眼光を鑑みれば、どちらかと言えば鷲に近い――というのが、最終的な第一印象であった。
「弊修道院は、傷病者に、門戸を鎖すことは決していたしません。どうぞお入りください」
表情に乏しく、鋭い眼光も手伝い、けんもほろろな印象を抱かせるものであったが――反面彼女の口から出た言葉は、慈悲に富んでいた。
彼女は半歩下がると、彼らを玄関に招きいれる。
そしてリュカの背から、患者をひょいと奪い取り、軽々と横抱きにしてしまった。
見かけにそぐわぬ怪力である。
身長190センチに及ぶ彼女に抱かれるアイゼは、175センチの長躯を持ってしても、まるで大人と子供のように見えた。
「朝駆けの無礼を働くこと、平にご容赦願い奉る。誠に痛み入る所存です」
「お言葉には及びません。修道院僧は未明には床を空にしておりますば、丁度朝の祈りを終えて、無聊に暮れていた所です。わたくしは弊修道院――ナハティガル修道院の院長を務めている、フローレンツと申します。あなた方は?」
恵体の修道女――フローレンツに先導されながら、リュカ一行は修道院の中に招き入れられる。
清貧を是とするルナルシア月神の教義に遵するように、絨毯やタペストリーといった装飾品は見られず、壁龕に彫られた聖像だけが、石造りの回廊を彩っていた。
「わたしは――リュカ・ローゼンベルクと申す」
「ローゼンベルク……?」
王家の名を耳にし、フローレンツは一瞬だけ、凝り固まった表情を動かした。
アイゼを抱いたまま立ち止まり、榛色の炯々とした瞳に――リュカの典雅なかんばぜを映す。
遥か上方から見下ろされると、まさに上空より獲物を狙う猛禽類の如き圧がある。
「いかさま。わたしはローゼンベルク家に名を連ねるものです」
リュカは此度の問いに対し、偽りなく本名を答えた。
だが――それは王権を笠に着せ、アイゼの治療を強要するためのものではない。
虚偽なく、誠意をもって応ずることこそが、此度において重畳な結果をもたらすであろうことを、彼女の敬虔深い瞳から察したからであった。
ナハティガル修道院は王家直轄領に位置している。
もし既に王弟ヨハンの魔の手が、この修道院に及んでいれば、エフィを除き武道の心得のない、寡兵のリュカ一行は、彼女らに捕らえられてしまうであろう(リュカは言わずもがな、根っからの文弱であるジャスパーの武力は一兵卒にも劣る)。
「(だとしても、だ……)」
だがリュカには確信があった。
フローレンツなる修道女は、確かに猛禽類めいた威武を纏っているが、同時に碩学と篤信に富んだ徳僧であると。
であれば――たとえリュカが王族であれ、敵対派閥の領袖であれ、同じ月神に祈る僕として、誠意ある対応を返してくれるはずと判じたのである。
「…………」
「っ……!」
アイゼの血の気の失せたかんばぜを挟んで、リュカとフローレンツの視線が角逐する。
その様相を、エフィとジャスパーは、ただ黙して見守るのであった。
「確かに……面影があります」
「え?」
「獅子剣王の」
「(獅子剣王……父上のことか……!?)」
彼女はもしや、父王リヒャルトと縁ある者なのだろうか?
リュカは諮問したい気持ちであったが、フローレンツは一人で得心してしまった様で、再び背を向けて回廊を進み始めた。
リュカとしても、今は閑談に興じるよりも、アイゼの治療を先に願いたい。
彼女の正体を探るのは後にし、大人しく修道服に隠れた広い背中を追うのであった。




