67 水魚の交わり
スぺサイド王国は冷帯気候国である。
とはいえ、初夏から夏の時期に関しては気温は25度にも達し――民草は額から汗を流しながら労働に勤しんでいた。
農民は秋の恵みを祈りながら田畑を耕し、職人は炉の熱気に炙られながら鉄を鍛え、兵は練兵に精を出していた。
だが、ケーヒニス砦の城頭に掲げられた王旗――
その間下に位置する士官用の一室にいる一組の男女に関しては、そんな爽やかな汗とはほど遠い――粘りつくような脂汗を顎まで滴らせているのであった……。
「本当に……拙僧で構わないのですね……?」
「くどい……リュカ殿下が叡覧あそばされる前に、早くしてくれ……」
「しかし、殿下の沙汰を待った方がよろしいかと……」
「殿下はあまりにも優しすぎる御方だ! 私は殿下の剣になると誓ったが、重荷になると誓った覚えはなく、もはや片腕を失った私に存在価値はない! ルナルシア月教において自裁は禁じられている――故に、貴様に頼んでいるのであろうが……ぜぇぜぇ!」
士官用に宛がわれた寝室で相対しているのは、王子軍将軍のアイゼリーゼと、軍師ジャスパーであった。
アイゼは寝台の縁に背を預けて、床に座しており――ジャスパーは彼女の前に立ちふさがりながら、右手には数千もの血を啜り続けてきた、彼女の得物が、半ば強制的に握らされている。
アイゼは声こそ張りを保っているが、毒に侵されたその顔色は蒼白を超えて黄土色に変色していた。
一方のジャスパーもまた、彼女の体調に感じ入るところがあるのか――同様に顔色を青ざめさせ、歯噛みする口元の横から冷や汗を垂らしている。
アイゼは先の戦いにおいて、ゴードンが王子目掛けて放った飛矢を、身を挺して庇った。
これまで数多の戦場を駆け抜けてきた豪傑である。
矢が腕を貫いた程度など屁でもなく、傷口を軽く洗い流して、包帯を巻くだけの処置に留め、気にも留めなかった。
だが――数刻後。
気付けば彼女の腕の血管は――樹木が根を張るが如く、下は手首まで、上は首筋まで青黒く変色していたのである。
応急的な瀉血でなんとか一命は取り留めたものの、毒素は今なお、アイゼの肉体を蝕み続けていた。
アイゼの動物的本能は、既に悟っていた。
もう自分は長くないことを……。
「私如きの身を案じ、殿下をいつまでも砦に縛り付けておくわけにはいかぬ……早く私の首を落としてくれ」
「その介錯を仰せつかるのが拙僧とは。案外信頼されていた……と解釈してよろしいので?」
「吐かせ……汚れ仕事を押し付けたに過ぎぬわ……貴様なら良心の呵責なく、私の首を落せると思うてな……」
勿論――今の言葉は、アイゼの諧謔である。
リュカを除き、己の介錯を委ねられる程に信頼足りうる人物は、王子軍においてジャスパーを置いて他にいなかった。
故に、彼女の看病に精を出し、進軍の準備を一向に進めようとせぬリュカを、エフィに頼んで適当な口実をつけ引き剥がして貰い、その隙に元婚約者を呼びつけたという次第であった。
今際の際であることを考慮すれば、一笑も出来ぬ冗談であるが……。
「早くしろ! 流石のわたしも、断頭台で無聊を託つ程の胆力は持ち合わせておらんぞ! 一思いに斬首するのも、処刑人の慈悲であろう……!」
「承知……いたした」
ジャスパーはアイゼの言葉を呑み込み、ゆっくりと長剣を掲げた。
石壁に切られた窓より差し込む初夏の日光が、彼女の愛剣を照らし、銀光を一刷毛纏わせた。
「(これまで多くの人間の血を啜らせてきたが、最後に吸うのが私自身の血とは、皮肉なものだ……だが、これもまた因果の応報か……)」
ジャスパーとアイゼは、阿吽の呼吸で同時に頷く。
彼女が痛みを感じぬように、容赦なき慈悲を下そうとした――その寸前。
「何をしているジャスパー殿!? 今すぐ剣を収めよ!」
息を切らせ、絹糸のような青髪を前髪に張り付かせながら、彼女らの君主であるリュカが飛び込んできた。
少女のような少年は、アイゼを庇うように、ジャスパーの前に立ちふさがった。
その後に、複雑な面持ちのエフィが続いく。
エフィはアイゼの介錯が敢行される間、リュカを遠ざける役割を担っていた。
だが彼女はリュカの忠臣であると同時に、無二の親友でもある。
良心の呵責に抗えきれず、アイゼとジャスパーの密事を漏らしてしまったのであった。
「よいのです……殿下……私はもう、役に立ちませぬ……」
「黙っていろアイゼ! 傷に響くであろう!」
リュカはエフィに目配せをした。
意を察したエフィは、アイゼの毒に侵されていない側の腕を肩に回すと、彼女を寝台の上に横たわらせた。
すると彼女の強靭な精神も限界を迎えたのか、そのまま気を失ってしまうのであった。
額よりとめどなく汗が吹き出し、豊かな胸が僅かに上下しているのを見るに、辛うじて息があることを認めてから――リュカは改めてジャスパーと対峙する。
「ご理解ください殿下……我々に残された時は刻々と失われております。これが最善なのです。どうか、アイゼ殿を楽にして差し上げてくだされ」
「否。わたしからすれば、アイゼを失ってまで得る玉座に価値はない」
「今の殿下は、王国の全ての民の未来を担っておられるのです。寵臣一人を顧みて、その御歩みを止めては、やがて万の民が死に至ることとなりましょう。一度玉座を目指したからには、その歩みを途中で止める訳には参りません」
「…………」
「確かにアイゼ殿は、1000の兵に匹敵する戦力を持っております。されど言い換えれば、たかだか1000です。我々には4500の兵が残っております。それを十全に駆使するには――〝兵は拙速なるを聞くも、未だ巧久なるを睹ざるなり〟――それ即ち、迅速なる王都への強襲が不可欠なのです。ご理解くださいますよう」
ジャスパーは重ねるように、南方の近況を報告した。
先々の戦いで掌中に収めたスタンス城には、1000の兵士を残している。
そこから放たれた伝書カラス曰く――南方の王弟派閥に属する諸侯が続々と出兵し、スタンス城を攻囲しつつあると。
すなわち、スタンス城が落ちた場合――王子軍は北と南から挟撃され、ケーヒニス砦での籠城を余儀なくされる。
そうなっては王都を奪還する所の話ではない。
そうなる前にケーヒニス砦を発ち、王手の一歩手前まで迫った王都を落す必要があるのだ。
南方より迫る軍に追いつかれるのが先か、王子軍が王都を掌中に収めるのが先か。
かかる瀬戸際において、アイゼの延命に限られた時間とリソースを注ぐ余裕は、残されていないのである。
――斯したることを、ジャスパーは噛んで含めるよう諭すのであった。
「…………」
しかし。
それに対するリュカの返答は、智者と名高いジャスパーが脳裏に描いた、十を超える予想の、そのいずれでもなかった。
「ジャスパー殿は、どれだけの間、息を止めることができる?」
「そ、そうですね……体を動かさない前提であれば、一分弱といった所でしょうか」
「では、陸に揚げられた魚は、どれだけの間生存できる?」
「品種によりけりですが、まあ……持って十分、といった所でございましょう……それが、何か?」
「わたしが魚であるとすれば、アイゼは水だ。水なくしてはどれだけ尾を動かしても前へ進むことは叶わず、すぐに死んでしまう」
「拙僧やエフィでは……殿下の水に成り得ませぬか……?」
「身を弁えよジャスパー。これは嘆願にあらず――我が勅と心得よ!」
「ッ!?!?」
リュカの蒼玉の双眸には、有無を言わさぬ覇者の如き気魄が宿っていた。
思わずジャスパーは、手に持っていたアイゼの長剣を取りこぼし、一歩後ずさった。
糸のように細い瞳の奥が、後頭部を殴打されたかのように、ぐわんぐわんと揺れ動く。
弁舌において誰にも引けをとらぬと自負していたジャスパーが、たった13歳の少年の気魄に圧倒され、自慢の舌が縺れ、喘ぐように息を漏らすだけで、その勅令を黙って聞き入れることしかできないでいた。
もはやそこには、数ヶ月前に出会った、女騎士に守られていただけの柔弱な少年の面影は、ない。
可憐さの中に苛烈さを内包した、紛れもない王の覇気が――そこに在った。
「貴様の知略はその程度かジャスパー」
「…………で、殿下」
「あたしもリュカちゃんが正しいと思うです……老師」
「エフィまで……」
アイゼの汗を拭い、寝かしつけたエフィもまた、リュカの傍らに立ち、ジャスパーを諭した。
「老師は、王の器を見極めんとしてリュカちゃんを試し、あたしを使って、失敗したら弑するのも辞さない程の無理難題を押し付けたです。それだけのことをしておきながら、いざリュカちゃんから無理難題を出された時、自分だけ正論を盾にのらりくらりと煙に撒こうとするのは、ちょっと――ううん、かなり身勝手だと思うです。自分はイレギュラーにおいて、軌道修正のできない無能です、と言ってるようなものですよ」
「……っ!?」
弟子とは思えぬ強い言葉に、ジャスパーは面を食らう。
だが――何も言い返せない。
全くもってその通りであると、ジャスパーは気付かされたのである。
ジャスパーは敗北を認め、己の不徳を恥じ、智者としてあるまじき行いをなしたことを――その全てを受け容れて、膝をついた。
「拙僧が間違っておりました。まさに蒙が啓かれた思いに存じます。拙僧は、殿下が自らの御意志で王となって頂きたく、かつて難題を課しました。にも関わらず、拙僧は僭越にも、王佐の才だなんだと増長し、才を衒うあまり、殿下に対し己が策を押し付けるような真似をいたしてしまいました……これは君側の奸たらんとした、不敬の極みに他なりませぬ」
ジャスパーの声は震えている。
己を恥じると同時に、これほどの覇気を宿す御仁に仕えることが出来る喜びに、打ち震えているのである。
そもそも――いざの際に家臣を見殺しにするような君主に、かつてのジャスパーはリュカから王の器を見出しただろうか?
「(否……!)」
ジャスパーがリュカの前に膝を屈してその麾下に加わったのは、覚悟と優しさ双方を兼ね備えた御仁であると見極めたからこそではなかったか?
ジャスパーはこれまで、己の策で勝利を重ね過ぎた結果、大切なものを忘れていたこと。
そのことを、リュカを通じて思い出したのであった。
「軍師の主意を御主君に押し付けるのではなく――御主君の御意に沿って策を尽くすことこそ、軍師の本分。このジャスパー、目が覚めた思いに存じます」
「(目は閉じたままですけど……)」
エフィはジャスパーの糸目を揶揄したが、空気を読んで胸中に留めた。
「拙僧がこれまで蓄積せし知略――その合切を総動員すれば、アイゼ殿の毒を平癒し、同時に王都を奪還せしめてみせましょう。それ故殿下、どうかいまいちど、拙僧に機会を賜りたく存じます」
「無論ですジャスパー殿。これからもあなたは、わたしにとっての王佐です。ですからどうか、頼みます……アイゼを助けてください」
「委細承知」
その後ジャスパーは卓上に地図を広げ、ケーヒニス砦からやや東方にある箇所に爪で叩いた。
「地図には乗っておりませぬが、ここには医術に通暁した尼僧の籠る女僧院がございます。その名もナハティガル修道院――彼女であれば、アイゼ殿の毒傷の治療に対し、有用な知恵を貸してくれるかもしれません」
「分かった。すぐに発とう」
「アイゼ殿の体力はもう限界です。迅速な行動が強いられます。少数精鋭でもって、最短距離で向かうのが得策かと」
そうと決まれば、行動は早かった。
修道院へ向かうメンバーは、リュカ、アイゼ、エフィ、ジャスパーの四人。
リュカはアイゼの愛馬アグロに乗り、エフィもまた単騎で騎乗する。
アイゼは二頭立ての幌馬車の荷台に乗せ、馭者はジャスパーが務めた。
ケーヒニス砦の守護を鎮撫騎士団長に命じ――四人と四頭はケーヒニス砦を脱し、東方へ騎行するのであった。
***
だが――丘の上から彼らの潜幸を目撃したものがいた。
それはケーヒニス砦より敗走し、惨敗兵を集めて辛うじて中隊規模(およそ100人)の勢力となった征伐騎士団――ゴードン麾下の部隊であった。
「なに!? 王子が極少数の部下のみを率いてケーヒニス砦を脱しただと!?」
ゴードンは既に王弟ヨハンから信を失い、手ぶらで王宮の門を潜ることは許されぬ身である。
癇癖家であるヨハンの機嫌をこれ以上損ずれば、今度は頭から葡萄酒をかけられる程度では済まないことは、父の御代より彼に仕えているゴードンからすれば、想像に難くない。
次はワインの赤ではなく、ゴードン自身の血の赤でもって、彼の頭髪が彩られることになるであろう。
それ故に、負傷した寵童ノエルを部下に預け、王都にある彼の上屋敷に向かわせ、ゴードン自身は部下と共に野営を敷いていた次第であった。
野伏に身を落しながらも、なんとかして功をあげ、名誉を挽回する機を伺っているのである。
そんな彼に訪れた、千載一遇の好機。
王子の行動にどのような意図があるのかは不明だが、この機を逃す訳にはいかないことは、確かであった。
しかし……。
「…………だが」
よく言えば即断即決、悪く言えば猪突猛進なゴードンは、此度に限っては、その腰は重い。
「(某は王弟殿下からの寵を失うのを恐れ、騎士として誇りを捨て毒矢を射った……これ以上、祖先に対し恥を上塗りすることが出来ようか……しかし、このままでは我が家そのものが取り潰されかねず、それこそ祖先に対し申し訳が立たぬ……!)」
王子の首を取る事が出来れば、これまでの汚名を返上することも叶うだろう。
彼は血豆の潰れた厚い手の平で、顔を覆う。
熟考に熟考を重ねた結果――もはや後はないと判断した。
既に彼の足は徳俵までかけられている。
「(ここまで来たらもう、落ちる所まで落ちるだけよ)」
退けられた手の平の下から現れたのは、修羅の面。
焚火に踊る炎の色が、ゴードンの瞳に移ったように映った。
あたかも、復讐の炎が可視化されるように。
ゴードンは部下をまとめ、王子同様に東方へ向けて、馬首を巡らすのであった。




