56 老いタヌキ鍋の味はいかほど
「旦那様! 遁走した征伐騎士団が開いた城門より、王子軍が侵入! 既に城壁と廓は制圧され、城内にまで入りこまれております! 急ぎ脱出くだされ!」
「ぐぐぐ……ご先祖より代々受け継ぎしスタンス城を手放すのは、認めたくない仕儀ではあるが……よもやこれ以上の抗戦は無意味か……!」
司令室に陣取る城主シュタンシュテットは、伝令の注進を聞き、臍を嚙んだ。
強く食いしばった奥歯が、近年抜け始めた永久歯の寿命を、更に削ってしまうことを自覚しながらも、顎に込めた力を抜くことが出来ないでいた。
とはいえ、このままでは髪や歯が天命を迎える前に、老人本人の天命が終わりを迎えてしまう。
「幸いなことに、こちら側には火の手があがっておりませぬ! 我々が前後を守護いたします!」
シュタンシュテットは王都へ保護を求めるべく、数人の側仕えのみを引き連れ、脱出を図る。
ゴードンが内側から破り、結果的に王子軍を招き入れることになったのは南門である。
その一方――北側の門は手つかずになっている。
そこから脱出を図ろうと、北門へ続く回廊を駆けだす――矢先のことである。
「うぎゃっ!?」
前後を側仕えに守護させていた老爺は、上方より落下してきた黒い影に潰され、肺腑から鈍い声を吐いた。
「旦那様!?」
「動かないでくださいです。動けば大切な旦那様は、二度とあなた達に命令を与えることが出来ない身となりますよ?」
「ど、どこから湧いてきた小娘!?」
「勿論――動いてはいけないのはあなたもです――おじいさん」
キラリ――回廊に等間隔に設置されている松明の光に反射して、老眼に侵された視界の端に、鈍い銀色が煌めいた。
ゆっくりと目線を動かせば、シュタンシュテットの背中の上に、黒髪の少女が乗っている。
スタンス城を混乱に落しこんだ張本人――エフィ・シュヴァルツシマーである。
彼女は城内の方々を放火して回ったが、あえて北門へ続く回廊にだけ、放火をしなかった。
そうすれば、脱出を図る者が、自ずとこの廊下を使うはずだから。
彼女の師であるジャスパー曰く――〝利なれば而ち之れを誘い〟という兵法の一種である。
エフィは木末にて獲物を待ち伏せる大蛇の如く――梁の上で身を潜め、逃げてくる一団の要人を、ピンポイントで襲撃したのであった。
「この小娘……間者か……さては、この放火もゴードン卿によるものでは……なかったということか……!?」
シュタンシュテットは、今更となって真相にたどり着く。
されど、片腕を捻り上げられている現状においては、既に詮無きことであった。
蛇に睨まれた蛙の如く、主人を人質に取られ身動きが取れない時間がしばらく続いた後――彼らは後方より鳴り響く軍靴の音色を認めた。
シュタンシュテットは、これまでの数十年に及ぶ人生の中で、最も敬虔に月神に祈った。
どうかこの足音が、味方の者であってくれと。
されど――今宵の月神は彼に微笑むことはなかった。
「お久しぶりにございます、シュタンシュテット伯」
「あ、あ……ああ……っ! ア、ア、アイゼッ……リーゼッ……ッ!」
「曩日に置かれましては、それはそれは素晴らしい饗応を賜り、まこと痛み入る次第にござりました。つきましては、今宵はその報恩に参った次第。笑納頂ければ幸いです」
カツカツと、軍靴の踵が石床を鳴らす。
這いつくばったシュタンシュテットは、目線のみを上へ向ける。
腰のあたりで、歩調に合わせて左右に揺れる馬の尾のようなものが見えた。
老爺のトラウマが蘇り、落ち窪んだ瞳が零れ落ちそうに見開き、過度がストレスでハラりと、残り少ない白髪が抜け落ちた。
既に還暦を迎えていたシュタンシュテットは、この一瞬で一気に10は年を取ったかのようだった。
「今宵の晩餐は老いたタヌキ鍋にございます。どうぞご賞味あれ」
彼女の碧眼は、まるで完全燃焼に至った蒼炎の如き瞋恚を宿らせていた。
***
「ひいいいいいい! お許しください殿下! これよりこのシュタンシュテット、老骨が粉になるまで殿下の為にお仕え申し上げ候えば、何卒お慈悲を頂戴してく存じまする!」
「ふむ。皮と骨しか残っていないタヌキと思うたが、面の皮だけは厚みがって食いごたえがあるようだな」
「殿下! ご慈悲をおおおおお!!」
――半刻後。
スタンス城は完全にリュカ・ローゼンベルク王太子の手に落ちた。
川沿いの城塞が故、水源には恵まれており、王子軍6000の人海戦術によって、無事火災は消化に至った。
しかし、かつて辛酸を舐めさせられた、アイゼの瞋恚の炎が鎮火したかと言えば――否である。
現在彼女達がいるのは、かつてリュカとアイゼが川に飛び込み、そして数刻前にエフィがよじ登った、エルキ大河に面して建てられた露台だ。
アイゼは五指を、俘虜と化したシュタンシュテットの首に巻き付け、女人そぐわぬ膂力でもって支えると、胸壁に身を乗り出し、老爺を川底に突き落とさんばかりの状況になっていた。
彼女が気まぐれに指の力を抜けば、辛うじてつま先が胸壁に触れている体勢の老爺は、そのままエルキ大河の川面に叩きつけられることになるだろう。
それ故、シュタンシュテット伯は、胸壁の上から、リュカに対して泣訴しているのであった。
スタンス城に入城を果たしたリュカは、哀れな老爺を見て、こう言った。
「ご安心ください伯爵、今は初夏です。我々が潜った晩冬と比べれば、遥かに心地よい水温かと思います。このまま王都まで泳いで王弟殿の庇護を求めるのがよろしいかと」
「リュカ殿下ああああああ!!」
無論――慈悲深いリュカの本心ではない。
だが、他でもないアイゼがこれだけ赫怒を示しているのを見れば、寵臣の虚喝に付き合ってやるのもまた、主君の務めと思った次第である。
それにアイゼは、彼女自身がこけにされたことに憤っているのではない。
リュカの寝込みを襲い、川に身を投げ出さざるを得ない状況に追い込み、その結果リュカに高熱をもたらし、挙句逃走先の村にて、窮民を理不尽に害したことに憤っているのである。
「ほうほう。騎士道を重んじる王国において、これほどまで見苦しい敗軍の将を見るのは初めてです」
そう言ったのは、この仕儀を見守る軍師ジャスパーである。
彼の肩には、エフィの潜入を補佐した、陰の功労者であるカラスがとまっている。
「とはいえ、この生き汚さこそが、長生きの秘訣なのでしょうな」
「そろそろ腕も疲れてきたな」
「わ、分かり申した! ワシがこれまで蓄えた財産を、全て殿下に献上いたしまする! どうか矢銭としてお納めくだされ!」
「うお……急に眠気が」
アイゼの力が一瞬抜け、カクン――と、老爺の膝が曲がった。
反り腰で上半身が露台から飛び出しているシュタンシュテットは、乾燥した顔面を己の涙と鼻水と涎とで、べちゃべちゃに保湿していた。
「あのアイゼ殿が戦場以外の場でこれだけの威喝を放っているのを見るのは初めてですよ……」
アイゼは戦場においては、鬼や悪魔の如き気魄を発揮するが、決して嗜虐趣味ではない。
女騎士の普段らしからぬ行動に、ジャスパーは戦慄を覚えているのであった。
彼は日頃よりアイゼを揶揄して楽しんでいるが、彼女を本気で怒らせるとどうなるかを、哀れな老爺を通して見せつけられ、今度は無為な揶揄は控えるよう、胸に誓ったのであった……。
「アイゼ、もうそのくらいにしておいてはどうだ。その瞋恚がかつてのわたしへの仕打ちからくるものであれば、わたしの気はとっくに晴れておる」
流石に見るに絶えなく思ったようで、リュカの慈悲が降りる。
アイゼもまた、多少の溜飲が下ったようで、胸壁の内側まで持っていき、手を離したのであった。
「ジャスパー殿は法務にも通暁していると見て、助言を求めたいのですが、シュタンシュテット伯には、どのような沙汰が適切でしょうか」
「そうですな。温情に温情を重ねて――殿下が王都を奪還するまでの間、禁錮の刑に課し、悔悟の色ありと判断した場合、伯爵から子爵へ減封に処す――そのくらいが適切かと」
「極刑も辞さない仕儀に関わらず、爵位を残すとは、随分生温い沙汰ではないかジャスパー?」
「殿下の御心を汲んだまでですよ、アイゼ殿」
リュカは結果的に、ジャスパーの助言を採用した。
「二度と反意を抱かぬこと。民を人財と捉え、無為に害さぬこと。これを誓うことが出来るのであれば、ジャスパー殿の判決を採用しよう」
それを聞いたシュタンシュテットは、力強く起き上がると、リュカの前で、これまで見たことのないような、美しい姿勢で額づいた。
「聖母メロコティーニャ、ルナルシア月神、そして星座に召された全ての守護聖人に誓って、これからは心を入れ替え、民を害さぬことを誓いまする!」
「では暫くの間、地下牢にて頭を冷やすがよい」
「はああ! 聖女メロコティーニャに伍する過分なるご寛恕、まことに恐悦至極に存じまする! 身に余るご温情、終生忘れ奉らず、残る短い生涯をもって、誠心誠意お報い申し上げる所存にございまする!」
「相変わらずよく回る舌だ……これだけ清々しいと、逆に怒りも冷めてくるものだな……」
「では――これにて一件落着ですな」
リュカは空を仰いだ。
月は既に西側の稜線に沈み、東の稜線より青ざめた暁の気配が漂っていた。
そして背後――スタンス城の天守には、王旗が翻っている。
かくして大言壮語と思われた、「一晩の内にスタンス城を攻略せしめる」というジャスパーの言は、実現に至ったのである。




