55 老いは急に来るから気をつけろ
今宵の神の瞳――すなわち月相――は、朔を得て望へ至ろうとうとする中間地点にあった。
すなわち、上弦の月である。
黄昏時には中天を領していた上弦の月は、夜の深まりと共に西の夜空へと傾いていき、いまやその下端を稜線に触れようとしていた。
スタンス城に異変が起きたのは、そんな刻のことであった。
外からの攻撃を跳ねのけ続けてきたスタンス城は、その鉄壁を解いた。
内部の膿を絞り出すように吐き出されたのは、約500騎の騎馬隊であった。
その先陣を走るのは、日中においてアイゼと角逐を演じた征伐騎士団が団長――ゴードン。
だが彼らは、王子軍に対し、真夜中の夜襲をかけるべく城から飛び出した訳ではない。
バケツをひっくり返したような甲冑に、月光を弾かせながら疾駆するゴードンは、王子軍が宿営する南方ではなく、王都のある北方へと馬首を向けると、そのまま背を向けて走り去ってしまったのである。
当初5000騎いた騎馬が、十分の一まで数を減らし、騎士見習いによって丁寧に磨かれた鎧が、赤黒く染まっている。
その仕儀を見るに、エフィによる潜入工作が功奏したことを悟り、王子軍は色めき立った。
しかし――彼らは懸命に身を潜め続ける。
飼い主の〝よし〟が来るのを。
やがて、征伐騎士団の最後の一騎が城門を後にし、北の平原へと消えていく。
その背中を見送った直後――君主の合図が、脳裏に直接届いた。
青薔薇の宝珠の権能により、脳裏に響くは、王子の鈴を転がすような、変声期前の美しいボーイソプラノ。
『全軍――――突撃!』
「「「「うおおおおおおおおっっっっ!!!!」」」」
篝火を絞り、平原に身を潜めていた鎮撫騎士団の面々が、堰を切ったように吶喊を上げる。
先頭にアイゼとイリアーナを据え、鎮撫騎士団は、開門したままの城門に突入した。
謀反を起こした征伐騎士団を、ようやく追い払ったと一息ついたスタンス城の駐屯兵は、王子軍の襲撃に呆然とする他なかった。
既に戦闘を一つ終えたばかりの駐屯兵の中に、立て続けに干戈を交える気力の残っている者は、殆どいなかったのである。
「門を潜ればこっちの物だ! エフィの己の命も省みない尽瘁を無為にするな! 日が昇る前に天守に王旗を立てるのだ!」
廓の中で、最も勇猛に戦ったのは、勿論アイゼリーゼである。
彼女は夜気に鼓舞響かせながら、駐屯兵に斬撃をお見舞いする。
嵐のような剽悍猛々しい隼剣が、中天に赤い虹をかけ、敵兵を次々と月星の門へと送り込んでいった。
無論――生前に十分な善行を積んだ者に限るのだが……。
「よし! 次は城内を落す! わたしに続け!」
廓を駆け巡ったアイゼは、城内への扉を見つけ、アグロから飛び降り扉を潜った。
吹き抜けの正方形の塔の内部――その螺旋階段を駆けあがる。
上方より焦げ臭さを感じるのは、エフィによる火災工作によるものだろう。
だが――シュタンシュテット勢もやられっぱなしではいられない。
階段の途中には弓兵が待ち構えており、アイゼに向かって矢の雨を降らせた。
しかしアイゼ、身に降りかかる矢を即座に見抜き、剣先にて矢を振り払う。
そうして階段を昇り続けるアイゼに追いつかれた弓兵は、次々と手すりのない螺旋階段から突き落とされていく。
馬上において無類の強さを発揮するアイゼであったが、徒歩においても、その武辺に翳りが差す事はなかったのである。
かくしてアイゼを先頭にした城内制圧隊は、城の回廊に入り、道中の兵を次々と屍へと変えていくのであった。
そのように先行するアイゼに、唯一遅れを取らずに追従する騎士が、一人だけいた。
姫将軍ヒルデガルドより薫陶を賜った、現・鎮撫騎士団団長――イリアーナである。
アイゼに憧れ同じ髪型にしている彼女もまた、馬の尾のような亜麻色の髪を翻し、アイゼの背を守りながら敵兵を屠っている。
「イリアーナ! 腕をあげたな!」
「恐縮です。ですがアイゼ様も、五年前と比べて更に剣技に磨きがかけられたように思われます」
「なぁに。まだまだ若い者に遅れを取る訳にはいかぬのでな…………って、わたしはまだ24だ! 全然若者の範疇だ! 人を勝手に年寄り扱いするな!! イリアーナと言えど容赦はせぬぞ!」
「えっ!? あっ!? はい! そうですね、アイゼ様は全然若いです!」
「イリアーナも既に20を超えただろう。童顔だからと油断するなよ。すぐに来るぞ! 老いは! 覚悟しておけ!」
「はっ! はい! 方寸に銘じておきます!」
勝手にキレ始めるアイゼを宥める不憫なイリアーナであった。
エフィやイリアーナを始め、王子軍の侍臣には若女が多い。
錬金術師を女人に含めていいのであれば、最年少は一桁歳である。
それ故、自ずと24歳のアイゼは年長側になってしまい、いつリュカの歓心が奪われるか、気が気ではない心境なのであった。
無論――これまでもこれからも、リュカの一番の寵臣はアイゼであることに変わりないのであるが……。
***
一方。
城壁並びに廓内は、既に王子軍の手に陥落し、城を捨てて城門から逃げ出す兵の姿もあった。
城壁を占領した王子軍が、武器を捨てて逃げ出す兵士の背中に矢を番えているの見て、リュカは慌てて青薔薇の宝珠の権能を発動する。
「無為な追撃はしてはならない! 非戦闘員や、武器を持たずに投降するの者、逃走する者への攻撃も禁ずる。無論略奪は以ての外だ! 彼らは仰ぐ主君は違えども、同じスぺサイドに生きる同胞であることを忘れてはならぬ!」
リュカの青薔薇の宝珠によって加護を受けた兵は、まるで月星から舞い降りた聖女メロコティーニャに指揮されるような高揚感と恍惚感を抱く。
そんな彼らを、リュカは戦場を俯瞰して、意志を伝達するもう一つの権能でもって、見事にコントロールして見せた。
そんな主君の背中を、ジャスパー感心して眺めるのであった。
リュカは自分のことを無能の王子だと、自嘲している。
だが――リュカを近くで見守る侍臣達は、リュカが賢君の器を持ち得ていることを知っている。
だからこそ、彼の元へ自ずと強者が集まっていくのだろう。
直接本人には言わないものの、ジャスパーはそのようにリュカを評するのであった。




