32 忍び込む間者
天高く浮かんだ銀盤が、夜空を皓々照らしてす時間帯。
食堂広間にて騒がしい夕餉を済ませ、食後の吟遊詩人による美声に酔いしれ、沐浴で身を清めた兵達は、英気を養うべく各々に割り振られた雑魚寝部屋に吸い込まれていった。
その一方。
士官待遇で任用されたアイゼには、個室が宛がわれている。
勿論、リュカと相部屋である。
「今日も1日、ご立派に務めを果たされ、誠に御疲れ様にございました」
「アイゼもご苦労だった」
日中のリュカは、厨房の下働きとして労働し、アイゼも周囲の目があるため、心ならずも彼を従者として扱った。
しかし夜に二人きりになりなると、彼女は厳めしい顔を緩め、母性を孕んだ従者の顔に戻る。
現在も主君を労わり、ベッドの上で、労働で乱れた主君の絹髪に、丁寧に櫛を入れていた。
「大したことはしておりませぬ。真に難局を極めるのは、アッシェン領が戦の準備を終えて侵攻してきた時でございます」
「……そうだな。そのために、我々は日々務めを果たしているのだものな」
アイゼ達に与えられた個室は、戦時になった場合は弓が射られる様、窓の代わりに矢狭間が切られている。
縦に狭く、横に長いその狭間に、一列に弩兵が並び、隙間から斉射を行うのである。
そんな矢狭間の隙間を覗き込めば、皓々と月が輝き、青々とした初春の草原を淡く照らしていた。
この部屋は砦の南側に面している。
すなわち、目下の仮想敵国であるアッシェン領側である。
明くる日――この穏やかな草原が、大軍に埋め尽くされると思うと、胸中が引き絞られるリュカであった。
「(しかし――真に恐ろしいのは、この砦が破られ、農民が汗を流しながら育てている麦畑が、馬蹄に踏み荒らされることである)」
それだけは阻止しなくてはならないと、胸に誓うのであった。
「(とはいえ……アッシェン領も、同じスぺサイドの民であることに相違ない……なぜ、同じ国に住む者で争わねばならないのだろうか……)」
幼子ながらに、そんな疑問を胸に浮かべるリュカ。
無論、すぐに答えは見つかない。
しかし、アイゼに問うこともしなかった。
廃院に隠棲するジャスパーから付された課題は、恐らくその意義も含まれているのだろうから。
自分で見定める必要があると、リュカは決意を漲らせた。
――そんな時だった。
「カァ! カァ!」
「あれはっ!?」
横長に切られた矢狭間の隙間に、一羽のカラスが止まっていた。
月光に照らされ、艶やかな黒羽が白銀に反射している。
この艶のある毛並みは野鳥ではない、人の飼育下にいる鳥類のものである。
そして件のカラス、よく見れば足首に折りたたまれた羊皮紙が括りつけられているではないか。
不幸の象徴たるカラスを伝書鳥に使う酔狂家など、スぺサイド広しと言えども、件の偽僧侶くらいのものである。
そのように、リュカとアイゼは同じ結論を出し、ベッドの上で顔を見合わせ、同時に頷いた。
「アイゼ、これは……」
「ご推察の通り、ジャスパーめの遣いにございましょう。やれやれ、わたし達がこの砦にいることまで、全てお見通しとは、手の平の上で踊らされているようで腹立たしい限りです」
ジャスパーは現状味方とは言い難いが、敵対もしていない。
アイゼはカラスを招き入れると、羊皮紙を回収した。
役目を果たしたカラスは翼をはためかせ、濃紺色の闇夜に溶けるように消えていった。
果たして何が書かれているのか。
アイゼは厳めしい顔つきで、羊皮紙を開く。
リュカもまた、アイゼの隣にひょっこりと身を寄せる。
『ガーナーゲート砦ニテ 間者潜伏ノ由 用心サレタシ』
「間者……だと?」
それは、砦内に間者が潜んでいることを伝える文面であった。
アイゼが真っ先に疑ったのは、部外者であると同時に、砦内にて重要な任に就いている傭兵組の面々。
すなわち遍歴騎士、吟遊詩人、錬金術師の3人である。
勿論アイゼはそこから除外される。
残るヘリワードとアルフォンタス、どちらが怪しいかと言えば、十人中十人が後者を指差すであろう。
だが、それに異を唱える王子。
「もしアルフォンタス殿の目的が、わたしの暗殺であれば、とっくに殺されていただろう」
リュカは毎日、砦の外で一匹狼の如く居座るアルフォンタスへ食事を運んでいる。
それに、つい先日は青銅巨人の肩に乗せられ、木の上に放置される悪戯を働かされた。
あのタイミングで青銅巨人がほんの少し指に力を込めていれば、リュカを扼殺出来たはずである。
「そしてヘリワード殿とは、以前より面識がある。山賊と対峙したときから、わたし達を欺いていたとは到底思えない」
「(殿下……この一瞬でここまで思慮を働かされるようになられるとは……ご立派になられて……)」
アイゼは、いつの間にかリュカが成長していることに気づき、感涙で目尻を潤わせた。
元々器量は良い方だったのだろう。
しかし同時に元来の気弱さが邪魔しており、それが表面上に現れることはなかった。
されど、旅での立て続けの危難を乗り越え、砦内で多事多端の雑務をこなしていく中で、性根が叩き直され、確実に王としての器量が磨かれていることに、傅役のアイゼはまるで自分のことのように歓喜しているのであった。
「とはいえ、錬金術師が胡乱であることには変わりありませぬ。殿下を狙う王弟ヨハンめの間者ではなく、オクスフォードの領地を狙うアッシェン伯の差し向けた間者である可能性もござりますれば、用心にはこしたことはないかと存じます」
「うむ。そうだな。できれば……杞憂であって欲しいのだがな」
砦内で絆が育まれ、将卒隔てなく結束が育まれている順風な空気に水を差す手紙は、否が応でも彼らに不安を募らせるのであった。
***
奇しくも――翌日。
アッシェン領の偵察の任についていた従騎士より、アッシェン領都より5000の兵団が、オクスフォード領目掛けて進発したとの報がもたらされたのであった。




