10 これ舌入ってますよね?
数千年前――まだ聖典によって体系的に構築された神話、すなわちスぺサイド王国の国教であるルナルシア月教が成立する前。
人類が漠然と月に対して神秘と敬意を払っていた太古の時代から存在し、今日まで恵みをもたらし続けてきたのが、スぺサイド王国を南北に横断するように流れるエルキ大河である。
その川の流れに身を任せ、闇夜に紛れるように、一組の男女が流れていた。
王太子リュカと、その護衛の女騎士アイゼである。
「(思った以上に水が冷たいし、昨夜の雨で増水している……スタンス城からもう少し距離を取りたいが、ここらが限界か?)」
晩冬の河水は骨に染み入るように、人肌に牙を突き立ててくる。
とはいえ、暦があと一ヶ月ないし二ヶ月早ければ、数秒と持たずに心肺が停止して凍死していただろうから、それと比較すれば幸いと言わざるを得なかったであろう。
「(ぐっ……なんだ……急に体が重くなったぞ……いや、これは……青薔薇の宝珠の加護が、弱まっているのか? つまり、宝珠を通して私に力を授けて下さっている、殿下の身が危ぶまれているということか……!?)」
抱きしめているリュカの顔を確認する。
さっきまでぎゃあぎゃあと喚きたてながらしがみついていたリュカは沈黙を貫いており、まぶたも完全に落ちている。
首から下げている首飾りは、先ほどまで闇夜を切り裂くように煌々と瞬いていたのが嘘のように弱々しくなっており、風前の灯火のように、わずかに青い光を放つばかりであった。
挙句にリュカの顔を認めれば、普段はスモモのように健康的な赤みを帯びていた頬は、まるで子スモモのように青ざめているではないか。
「(いかん! 私の基準で体力を計算してしまったが、殿下の御体では晩冬の水はいささか冷たすぎたか!?)」
アイゼは慌てて水を掻き、岸辺に這いあがる。
額に張りついた前髪を掻き上げながら、エルキ大河の上流を見やった。
川の流れも手伝って、スタンス城からは数百メートル程距離を取ることに成功していた。
しかし、城の胸壁には至る所に篝火が焚かれており、常駐している兵隊が総出になって、逃亡したリュカ達を捜索するための支度を整えている様子が、この距離からでもありありと伺えた。
「前方に森が見える。あそこで身を隠せばなんとか……だが、まずは殿下の救命が先」
抱えたリュカを平らな地面に寝かせ、脈を測る。
体温はかなり低下しているが、辛うじて脈は確認出来た。
アイゼは騎士団時代に習得した、水難者の救命術を即座に行った。
それは――後の世で人工呼吸と呼ばれるものだ。
「で、殿下の穢れを知らぬ薄い唇に触れる不敬をお許しください。殿下の目覚めた後であれば、どのような処罰も受け入れる所存故に」
リュカの小さな頤を持ち上げ軌道を確保し、まだ未成熟ながらも、既に綺麗な鼻筋の通っている鼻を摘まみ――口内に含んだ空気を、肺腑へと送り込んだ。
「っ!!」
その瞬間、アイゼの目が見開く。
リュカは日頃から、背骨の代わりに甘草の根が通っており、骨髄の代わりにミルクを溶かした没薬が詰まっているのではないかと錯覚してしまうような、馥郁たる体臭を放っているのだが――唾液もまた朝露を帯びた晩春の花蜜のような甘露のようであった。
少なくとも――――アイゼはそのように感じた。
芥子の原液が流れ込んできたかのような快感がアイゼの脳裏を駆け巡り、思わずアイゼは――空気を送り込むだけでなく――ちゅぱっ――と、リュカの唇を吸ってしまったのであった。
「はぁ、はぁ……わ、私は何を……っ!? 意識のない主君に向かって淫行を働くなど……否! 否! これは殿下の命を守るための救命行為であり、聖母メロコティーニャに誓って決してそのような意図はない!!」
がっつり唇を舐めていながらも、夜空に向かって言い訳を放つアイゼ。
言い訳も終わり、アイゼは再びリュカの小さな唇に空気を肺腑へと送り続けた。
無論、これ幸いと甘い唇を舐めるのは忘れない。
それはアイゼ曰く、自分の体温でもって、「リュカの冷めきった玉唇を温める」という名分があるからであり、決していい年した独女(24歳)が、少女と見紛う美少年に発情して、君臣の関係を逸脱したてんごうに及んでいる訳ではないのである。
「んっ……ちゅぱっ……」
その光景はクマンバチの成虫が、捕えた獲物を口内で肉団子にして巣に持ち帰り幼虫に与えて、その見返りとして幼虫の体内で生成された分泌液を付与してもらう生態のようであった。
「んぐっ!? ごぼっ!? げほっ!?」
五度目の空気の抽挿を終え、花唇に唾液の橋がかかるほどに口内を貪られた末――リュカは大きく咳き込みながら息を吹き返したのであった。
アイゼの口臭に険を覚えたからではない(アイゼの献身的な救命活動が奏功したからであることは、彼女の名誉のために明記しておく)。
「殿下!? ああ、本当にようございました!」
できればあと一回、いやあと二回ほど接吻の機会を欲しかったという邪念を振り払い、リュカを抱き起こす。
「全身がずぶ濡れでうすら寒いが……唇だけが自棄に温いな……」
「――いやいや! 気のせいでございましょう! それよりも! シュタンシュテット伯の追手が迫っております! あちらに身を隠すのに丁度いい森がございますので! まずは避難をば!!」
「え、あ……う、うむ……そうだな……?」
唇に違和を覚えるリュカの台詞を食うように進言する。
覚醒したばかりでまだ意識が朦朧としているリュカは、その勢いに押されて違和を忘れ去ると、そのまま二人はすたこらさっさと、闇夜に紛れるように森の中へと駆けこんでいったのであった。




