第三話
神凪学園には、七人の怪物がいる。
――Sランク。
その頂点に座す七人は、例外なく常識の外側に立つ者たちだ。
炎を極めた者。雷を支配する者。未来を見通す者。そして、あらゆる物理現象を支配する生徒会長、九条玲華。
彼女たち七人は、学園における絶対的な強者だった。
――ただし。
その序列第二位、永遠剣理だけは、少し事情が違っていた。
彼は怪物と呼ばれている。だが、本人にその自覚は一切ない。
強さを誇示しない。勝利を喜ばない。敗北を恐れない。
そもそも、勝負という概念にさえ興味がないのだ。
ただ、剣を振るう。
それだけで、あらゆる常識と強者を打ち倒してしまう。
だからこそ、彼の存在はこの学園において、ひどく浮いていて、そして厄介だった。
何しろ、この学園には――「物語の主人公」になりたい人間が、あまりにも多すぎるのだから。
*
「ふざけるな……!」
放課後。第二演習場の薄暗い隅で、一人の少年が血が滲むほど硬く拳を握り締めていた。
黒瀬零士。
神凪学園二年生。ランクは最下位の『F』。
彼の異能は【無効化】。
聞こえはいいが、実際にできるのは「接触した異能の影響を、ほんの一瞬(最長0.1秒)だけ打ち消す」こと。
射程はゼロ。相手の異能出力が自分を大きく上回っていれば無効化自体が失敗する。
攻撃力なし。防御力なし。身体能力はごく平均的。
どれだけ努力しても、上位ランクには逆立ちしても届かない。周囲からは「ハズレ異能」と失笑されていた。
それでも、零士は諦めなかった。
毎朝誰よりも早く登校し、授業が終われば演習場に籠もり、休日も休まず体を痛めつけた。何度も倒れ、血を吐くような訓練を重ねてきた。
なのに。
「なんで……なんで俺だけ……!」
コンクリートの壁を殴りつける。拳の皮が破れ、痛みが走る。それでもやめなかった。
才能がないのは分かっている。だから努力するしかない。そう信じてきた。そう信じなければ、惨めさで心が折れてしまうからだ。
零士には夢があった。
誰もが認める強者になること。自分を馬鹿にした奴らを見返すこと。
そして――いつかこの学園の頂点に立つこと。
その夢を、彼は誰にも話していない。
笑われるのが怖いからではない。口にしてしまえば、自分がどれほど果てしない絶望を見つめているのか、直視しなければならなくなるからだ。
「……絶対に、諦めない」
血の滲む拳を握り直し、零士は前を見据えた。
彼はまだ知らない。この学園には、努力という概念を一度も必要とせず、彼が人生を懸けて追い求める頂点に君臨する男がいることを。
*
翌日。
第一演習場の観客席で、零士は言葉を失っていた。
「……は?」
そこでは、Sランク生徒による合同訓練――事実上の頂上決戦が行われていた。
対戦者は、序列第一位・九条玲華。
そして、序列第二位・永遠剣理。
玲華は凄まじい威圧感を纏い、腕を組んで目の前の少年を睨みつけている。
「剣理。今日こそは、一本取らせてもらうわ」
「うん。頑張って」
「……あなたね」
玲華のこめかみに青筋が浮かぶ。
「毎回毎回、その返事は何なの!?」
「え、応援してるんだけど……」
「そういう問題じゃないのよ!」
「難しいな……」
剣理は本当に困惑していた。
玲華は強い。間違いなく学園トップクラスだ。異能の精密なコントロールや戦術の構築において、剣理よりも遥かに洗練されている。
何より、彼女は努力の人だ。毎日鍛錬を積み、異能を磨き続けている。
剣理はそういう人間を心から尊敬している。だからこそ、自分を超えようと挑んでくる彼女を素直に応援していた。
ただし――勝負で負けるつもりは毛頭なかったが。
「――【天帝領域】!」
瞬間、演習場全体の重力が軋みを上げた。
玲華を中心に不可視の領域が展開され、空気の密度が鉄のように膨れ上がる。術式が煌めき、剣理を囲むように無数の『光の投擲槍』が出現した。
「逃がさないわ!」
「そうなんだ」
「少しは緊張しなさい!!」
玲華が手を振り下ろす。音速を超えた光の槍が一斉に殺到する。常人なら回避すら許されない絶対の死域。
だが、剣理は欠伸混じりに右手を開いただけだった。
手の中に収まる、一振りの質素な刀身。
異能【不屈の剣】。
剣理が、それを軽く一閃した。
音もなく、迫る光の槍がすべて真ん中から二つに綺麗に叩き落とされた。
「っ!?」
玲華が目を見開く。即座に重力を反転させ、剣理の身体を浮かせつつ、上下左右から高圧の空気を叩きつけようと圧縮する。
そのすべてが、剣理の肌に触れる直前――。
――チッ。
空間そのものが、薄紙のように裂けた。
重力や空間を制御する【領域の法則】そのものを、剣理が「刃で切断」したのだ。
概念を物理的に斬る。そんなこと、理屈でもあり得ない。
だが、剣理にはできる。できるから、やった。ただそれだけだった。
「……もう少し、強くしてもいい?」
剣理が呑気に尋ねる。玲華の顔が屈辱で引きつった。
「あなた……!」
「いや、せっかくだし。頑張ってるから」
その一言に、玲華は息を詰まらせた。
剣理は本気で言っている。彼女の努力に応えようとしているのだ。
だが、その純粋な気遣いこそが、何よりも残酷だった。
どれだけ努力を積み重ねても、全力を叩きつけても、届かない。まるで大人の掌の上で必死に暴れる赤子のようにあしらわれている。
「……ッ、なら!!」
玲華の全出力を解放。
演習場全体が激しく揺れ、多重結界が悲鳴のような警告音を響かせる。生徒会長の真の全開。まさに国家規模の災厄に匹敵する異能の奔流。
それに対し、剣理はただ、ごく普通に剣を横に振った。
――スン。
世界から音が消えた。
玲華の異能が、消滅した。
圧縮された空気も、反転した重力も、展開された巨大な術式も。そのすべてが「綺麗に切り分けられた」ことで現象として成り立たなくなり、ただの空気へと霧散したのだ。
玲華は、ガクリと膝をついた。
限界を超えた反動ではない。ただ、目の前の男との「距離」を悟ってしまった絶望感。
「……また、負けた」
「うん」
「うん、じゃないわよ……」
「でも、今のはすごかったよ。前よりずっと細かく異能を編み込んでた。練習したんだね」
玲華が顔を上げると、剣理は心の底から感心したように微笑んでいた。何の皮肉も、悪意もない、純粋な称賛。
「……あなたって、本当に」
玲華は顔を背けた。その耳が、悔しさと別の感情でほんのり赤く染まっているのには、剣理は気づかない。
観客席の誰もが息をのむ中――黒瀬零士だけは、全身を激しい戦慄で震わせていた。
恐怖ではない。怒りでもない。
自分が人生のすべてを捧げて目指している高みに、何の努力もせず立ち、勝ち誇ることすらしない男への、どうしようもない感情。
「……ふざけるなよ……!」
*
放課後。零士は校舎裏の通路で、剣理を待ち伏せた。
「永遠剣理!」
「ん?」
振り返った剣理の手には、購買で買ったプリンとプラスチックスプーン。
あまりにも気の抜けた佇まいに、零士は一瞬毒気を抜かれそうになったが、すぐに感情を爆発させた。
「……あんたに聞きたいことがある!」
「何?」
「どうして……どうして努力もせずに、そんな強さを持ってんだよ!?」
零士の叫びが響く。
「俺は毎日鍛錬してる! 誰よりも早く来て、遅くまで残って、血を吐いて、倒れても立ち上がって……! なのに俺はFランクだ! どれだけあがいても何も変わらない!」
剣理はプリンを持ったまま、黙って聞いていた。
「なのにあんたは何なんだよ……! 何もしてないくせに! 何も積み重ねてないくせに! どうしてそんなに強いんだよ!!」
零士の声が悔しさで震える。
剣理は少しだけ困ったように眉を下げると、ぽつりと言った。
「……すごく努力してるんだね」
「ッ……!」
「本当にすごいと思うよ」
「そんなお世辞を聞いてるんじゃない!!」
「……うーん」
剣理は真剣に考え込んだ。努力せずに強い理由。そんなこと、考えたこともなかった。
「……斬れるから、かな」
「……は?」
「剣を振れば、斬れるんだ。昔からそうだった。剣を持つと、どう振ればいいか、どこを斬ればいいかが、最初から分かるんだよ。だから、練習する必要がなかった」
身も蓋もない現実。零士は口をぐうの音も出ないほど開けた。
「ごめん。参考にならないよね。……でも、俺は努力できる人って本当にすごいと思うよ。俺にはできないから」
その言葉が、零士の胸を深く抉った。
『自分には努力が必要ないから、できない』。
凡人が血を吐く思いで積み上げる努力を、この男は「自分には真似できない凄い技術」として、まるで遠い国の奇術を見るかのように感心しているのだ。
「……あんたに何がわかる」
零士の低い呟き。
「俺たちの苦しみの何がわかるんだよ……!」
「……わからないよ」
剣理は静かに言った。
「できないことを、できるように頑張る感覚。俺には一生わからないと思う。だから、心からすごいと思うんだ」
そこに嘘はなかった。煽りでもない。
だからこそ、零士はそれ以上何も言えなくなった。この男は、自分を蔑んでもいなければ、哀れんでもいない。ただ純粋に「理解不能な凄いもの」として尊敬してくれているのだ。
「……俺は」
零士は苦い顔で吐き捨てた。
「俺は、あんたみたいになりたかったんだ。才能がなくても、努力で頂点に立つ『主人公』になりたかったんだよ……!」
「……? 主人公って、何?」
剣理は本気で首を傾げた。
「よく聞くけど、そんなに偉いものなの?」
零士は呆れ果て、力なく失笑した。
――勝てない。強さでも、会話でも、この男には何も届かない。
「……もういい。忘れてくれ。……それと」
零士は背を向け、足を止めた。
「いつか、絶対にあんたを叩きのめす」
「うん、頑張って。応援してる」
「……チッ、本当に腹の立つ奴だ」
吐き捨てて去っていく零士の背中を見送り、剣理はプリンを一口すくって食べた。
「……うん、うまい」
彼にとっては、目の前のプリンの味こそが、今の世界のすべてだった。




