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婚約破棄された令嬢ですが、優秀な人間ほど執着が下手です

王宮という場所は、時々やけに静かになる。


誰かが死んだ時ではない。


誰かが“まだ死んでいない”時だ。


人間、本当に危険な状況で大声を出さないこともある。


声を潜めるのだ。壊れ物みたいに。


「嫌な呼ばれ方ですね」


私は馬車を降りながら言った。


隣を歩くノアは、相変わらず顔色が悪い。


死に損なって以降、この男は常に半分ほど幽霊みたいな色をしている。


「同感です」


「なら断ればよかったでしょう」


「エレナが“あなたも連れて来い”と」


私は少し黙った。


「……嫌な予感しかしませんね」


「奇遇です」


王宮魔術院は、今日も薬品と紙の匂いがした。


知識の多い場所は苦手だ。

人は本を積み上げると、時々、自分が愚かであることを忘れる。



「遅いですよ」


エレナは開口一番そう言った。


相変わらず感じが悪い。


白銀の髪。

青い目。

隙のない魔術師衣。


前回より少し疲れて見える。


つまり、今回の事件は面倒なのだろう。


「今日は誰が死んだんです」


私が聞くと、エレナは小さくため息をついた。


「まだ死んでいません」


「最近、この国にしては珍しいですね」


ノアが咳払いした。笑いを堪えている。


「王宮地下書庫で、老魔導師が一人倒れました」


エレナが資料を差し出す。


「現在昏睡状態です」


「毒?」


「呪詛返し」


私は少しだけ嫌な顔をした。


毒のほうが分かりやすい。誰かが、誰かを、殺したい。


かなり誠実な動機だ。


だが呪いは違う。


人間、悪意に意味を持たせ始めると急に陰湿になる。


「被害者は?」


「魔導院顧問、ハロルド・ウェイン」


ノアがわずかに眉を動かした。


知っている名前らしい。


「人格転写魔術の研究者です」


ああ。

かなり趣味が悪い。


死者と会話したがる人間と、人格を残したがる人間は、だいたい現実の人生に満足していない。


「それで」


私はエレナを見る。


「なぜ私を?」


エレナは即答した。


「事件慣れしているから話が早いかと」


ノアも頷いた。


最近周囲の人間は、私への評価がかなり雑である。



地下書庫は寒かった。


石壁。

埃。

古書。


知識というのは増えすぎると墓地に似る。


静かで、暗くて、時々人が壊れる。


「倒れていたのはここです」


床には黒い魔法陣が残っていた。


焦げ跡。

血痕。

焼けた羊皮紙。


かなり失敗している術式だった。


「暴走ですね」


ノアがしゃがみ込む。


「術式が反転している」


「つまり、自分の呪詛を自分で受けた?」


私が言うと、エレナは黙った。


珍しい。

この女が黙る時は、だいたい感情が近い。


私は周囲を見る。


本棚。

机。

そして、一冊だけ不自然に浮いている本。


『魂魄転写と人格保存』


趣味が悪い。


私は本を開く。

そこには大量の書き込みがあった。


術式。

適合率。

人格定着。


そして。


『器の条件』


私は少し目を細めた。


「……ああ」


最悪だった。


「何です」


ノアが聞く。


私はページを見せる。


そこには、同じ名前が何度も書かれていた。


ELENA

ELENA

ELENA

ELENA

ELENA


気持ちが悪いほど丁寧な字だった。


「あなたですね」


私が言うと、エレナは静かに頷いた。


「先生は昔から、私を高く評価していました」


平坦な声だった。

感情を棚へしまい込むタイプの話し方。


「優秀だと。才能があると。自分の後継にふさわしいと」


「実際、優秀なのでしょうね」


「ええ。不本意ですが」


感じが悪い。

だが、少し安心する。


自分を過小評価しない人間は、壊れる時もまだ理性が残る。


「最初は、ただの師弟関係でした」


エレナは本棚を見る。


「でも次第に、“知りたがる”ようになった」


沈黙。


「私が何を食べたか。誰と話したか。どこへ行ったか。何を考えているか」


ノアが小さく息を吐く。


理解したらしい。


賢い人間は、嫌な真実に辿り着くのが早い。


「先生は、“才能を失いたくない”と言っていました」


エレナは続ける。


「でも本当は違った」


彼女は笑わない。


「欲しかったのは、私の才能じゃない」


静かな声だった。

だから余計に少し痛かった。


「先生は、私に自分を残したかったんです」


地下書庫が静かになる。


死人より静かだった。


「人格転写魔術」


私は本を閉じる。


「自分の人格を、他人へ上書きする禁術」


「ええ」


エレナは頷く。


「先生は、私を“器”にするつもりだった」


最悪だ。


愛情というのは不便である。


時々、理解したいと所有したいの区別がつかなくなる。


「拒否したんですね」


ノアが言う。


「当然です」


「すると?」


エレナは少しだけ黙った。


そして。


「先生は笑ったんです」


初めて、彼女の声が揺れた。

本当に少しだけ。


「“では、君が君のままでなくなればいい”って」


沈黙。


地下書庫の空気が冷える。


私は少しだけ気分が悪くなった。


人間、執着を理屈で正当化し始めるとかなり怖い。


「それで」


ノアは床の魔法陣を見る。


「術式を書き換えた?」


エレナはノアと私を見た。


青い目。

疲れた顔。


完璧な人間が、少しだけ壊れている顔だった。


「……ええ」


ノアが顔を上げる。


「あなたが?」


「先生は今夜、人格転写を実行するつもりだった」


エレナは静かに言う。


「だから私は、術式を反転させた」


「呪詛返しに見せかけて」


「はい」


沈黙。


「殺す気でしたか」


私が聞くと、エレナはしばらく答えなかった。


長い沈黙だった。


それから。


「分かりません」


誠実な答えだった。


だから少しだけ、聞いていて苦しかった。


「でも」


エレナは床を見る。


「先生が、私の中へ入ってくるのだけは嫌だった」


ノアが目を伏せる。


この男は時々、他人の壊れ方を見ると静かになる。


自分も壊れた経験があるからだろう。


面倒な共感性である。


「先生は助かりますか」


ノアが聞く。


「命は」


エレナは淡々と言った。


「ただ、人格の一部が崩壊しています」


ああ。

つまり。


「自分だけ残ろうとして、自分が壊れた」


私が言うと、エレナは小さく笑った。


ひどく疲れた顔だった。


「皮肉ですね」


「いいえ」


私は肩をすくめる。


「人間、だいたいそういう壊れ方をします」


窓のない地下書庫は暗かった。


静かだった。


死者はいない。


だが、壊れた人間はちゃんと残る。


そちらのほうが、時々ずっと面倒だった。


「で」


ノアがこちらを見る。


「今回の件、報告はどうします?」


私は少し考えた。

本当に少しだけ。


「事故でいいでしょう」


エレナが眉を上げる。


「隠蔽ですか」


「いいえ」


私は本棚へ視線を向けた。


積み上がった知識。

執着。

未練。


「これは、だいたい恋愛の失敗というものです」


沈黙。それから。


ノアが吹き出した。

エレナは笑わなかった。


でも、

少しだけ肩の力が抜けていた。

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