7/30
市場の微笑み
その朝、公爵ザリーンには、ひとつの決意があった。
「今日こそ……民に、笑いかけてみよう」
リナは、いやな予感がした。
止める間もなく、巨躯の公爵は、市場へと繰り出した。
まず、果物売りの前に立つ。
にっこりと、微笑む。
──それは、獲物を前にした肉食獣の笑みにしか見えなかった。
「ひっ……!」
果物売りは、腰を抜かした。
次に、泣いている子どもの頭を、そっと撫でようとした。
大きな、分厚い手が、影のように伸びる。
「ぎゃああああ!」
子どもは、全力で逃げた。
ザリーンは、パンを買い、代金に、多めの金貨を置いた。
善意だった。
だが、パン屋は震え上がった。
(口止め料……! 何か、恐ろしいことに、巻き込まれる……!)
気づけば、賑わっていた市場から、人影が消えていた。
石畳に、ぽつんと立つ、大きな背中。
「……ウフフフ」
「今日も、いい天気だ」
その声が、ほんの少し、掠れていた。
離れて見ていたリナは、なぜか、胸が締めつけられた。
(この人……ただ、みんなに、好かれたかっただけなんだ)
はじめて、リナは、思った。
怖い、ではなく──かわいそうだ、と。




