恐怖の往診
村に、また熱病が出た。
知らせを受けたザリーンは、迷わず黒い鞄を手に取った。
中身は──薬瓶。包帯。すり潰した薬草。
だが、村人にとって、その黒い鞄は「死神の道具箱」にしか見えなかった。
「うわあっ、来たぞ……! 公爵だ……!」
「子どもを隠せ! 早く……!」
戸が、次々と閉じられていく。
*バタン、バタン、バタン*
ザリーンは、その音を聞きながら、ただ静かに歩いた。
「ウフフフ……」
「……相変わらず、逃げ足だけは速いな」
それは、寂しさを隠すための笑みだった。
だが、誰にも、そうは聞こえない。
一軒の家の前で、彼は足を止めた。
窓越しに、小さな咳が聞こえたからだ。
ザリーンは扉を叩かなかった。
ただ、しゃがみ込み、敷居の前に、緑色の薬瓶をそっと置いた。
「三日、朝と夜に一口。……熱が引く」
「代金は、いらん」
低く、大きな声。
家の中の母親は、震えながら子を抱きしめた。
(毒だわ……! 飲ませたら、この子は公爵の言いなりに……!)
ザリーンは、それ以上何も言わず、去っていった。
──その夜。
薬を、飲ませるかどうか。
母親は、朝まで悩んだ。
けれど、子どもの熱は、あまりに高かった。
震える手で、ほんの一口。
……翌朝。
熱は、嘘のように引いていた。
子どもは、笑っていた。
母親は、泣いた。
そして、村には、こう囁かれた。
「聞いたか。公爵の薬を飲んだ子が……元気になったらしい」
「恐ろしい……。あれは、人を従順にする毒だ。じわじわ効くんだ」
「あの子は、もう、公爵のものだ……」
薬は、効いた。
だからこそ──誤解は、深くなった。
その一部始終を、書記のトビアスは、少し離れた木の陰から見ていた。
(……代金は、いらない、って)
(毒を盛る人間が……そんなこと、言うか?)
トビアスの胸の奥で、小さな棘のように、疑問が刺さった。
それは、この王国で初めて──「公爵は、優しいのではないか」と、疑った瞬間だった。




