悪魔の朝食
朝の光が、濃い葡萄色のカーテンの隙間から、細く差し込んでいた。
リナは、目を覚ます。
やわらかい寝台。清潔なシーツ。傷は、丁寧に手当てされている。
……昨夜のことは、夢ではなかった。
「そうだ……わたし、攫われたんだ」
村を焼かれ、すべてを失い、そして今度は──あの恐ろしい公爵の館。
リナは唇を噛んだ。
(逃げなきゃ。……食べられる前に。)
抜き足。差し足。
扉は、あっけなく開いた。
鍵すら、かかっていない。
それが、逆に不気味だった。
廊下は、驚くほど清潔で、あたたかかった。
壁には、子どもが描いたような下手な絵が、丁寧に額装されて飾られている。
「……趣味、悪すぎでしょ」
リナは知らない。
それが、公爵が救った孤児たちの絵だということを。
*ホゥ……*
視線を感じて、振り返る。
止まり木の上で、一羽のフクロウが、まんまるの目でこちらを見ていた。
「ひっ……つ、使い魔……!?」
フクロウは、ただ、眠そうにまばたきをした。
そのとき──香りが、鼻をくすぐった。
バター。焼けたパン。あたたかい、スープ。
胃が、正直に鳴る。
(毒かもしれない。……でも、いい匂い)
リナは、香りに引き寄せられるように、厨房を覗いた。
そして、後悔した。
巨大な、背中。
分厚い、腕。
肉厚の包丁が、まな板の上で──*ザクッ、ザクッ*と、何かを刻んでいる。
「ウフフフ……」
低い笑い声が、湯気の向こうから漂ってくる。
「柔らかく……煮込まないとな……」
「あの子は、まだ……弱っているからな……ウフフフ」
リナの、血の気が引いた。
(や、柔らかく、煮込む……!? あの子って……まさか……わたし……!?)
「──起きたのか」
公爵ザリーンが、振り返った。
その手には、大きな包丁。
返り血のように、赤いものが、刃を伝う。
──完熟トマトの、汁だった。
「ちょうどいい。ウフフフ」
「席に着け」
……逃げ場は、なかった。
長いテーブルの上に、湯気の立つ器が置かれる。
とろりとした、白い粥。
消化に良いように、細かく刻まれた野菜。
弱った体を気遣った、やさしい一皿。
──だが、リナには、そう見えなかった。
「……な、何を、入れたの」
「食べれば、わかる。ウフフフ」
震える手で、スプーンを口に運ぶ。
──あたたかい。
やさしい、塩気。
じんわりと、体の芯にまで、染みわたる味。
涙が出そうなほど、やさしい味だった。
「……どうして」
リナの声が、かすれる。
「どうして、わたしなんかに、こんなこと……」
ザリーンは、答えなかった。
ただ、窓の外を見て、ぽつりと言った。
「腹が減っていると……人は、ろくな判断ができん」
「まずは、食え。話は……それからだ」
その横顔は、噂の怪物とは、どこか違って見えた。
けれど──リナが、それに気づくには。
まだ、少しだけ、早かった。
*コツ、コツ、コツ……*
廊下から、あわてた足音。
書記のトビアスが、青い顔で飛び込んでくる。
「か、閣下……! 村の方から、また……!」
ザリーンは、静かにエプロンを外した。
「ウフフフ」
「……朝食の、続きだな」
その笑みの意味を、この館で正しく読める者は、まだ、誰もいなかった。




