噂とは違う彼
ヴァルトリア王国では、ある名が人々の噂話から消えることはなかった。
その名は──ザリーン・ヴァインダー。
恐れられ、忌み嫌われ、まるで闇に笑う貴族の亡霊。
「ほら…あれがグランド・デュークだ。」
「人の血を見ると、微笑むらしいぞ…」
「爵位も…他の貴族が跡形もなく消えた後に手に入れたとか…」
誰も真実を確かめた者はいない。
だが、残念なことに──ザリーンの顔立ちは、噂を完全に肯定していた。
その夕暮れ、ヴァルトリアの空は紫がかった橙色。
まるで宮殿の絵画のように美しく、
そして不気味な森の囁きのように静か。
ザリーンは市場からの帰り道だった。
両手には食材の入った籠。
皮肉なことに──彼の趣味は料理だった。
石畳の道端に、ひとりの村娘が倒れていた。
土埃にまみれ、傷だらけで、息も荒い。
ぼろぼろの服。焦点の合わない瞳。
ザリーンの足が止まる。
微笑みが変わった。
その変化が──逆に恐ろしく見えた。
「ウフフフ…少女が…傷だらけだ。」
低く、くすぶる炎のような声。
護衛が二人、顔を引きつらせる。
そのうちの一人が、恐る恐る口を開いた。
「し、し、閣下…まさか──」
「おい、お前たち。」
ザリーンは淡々と遮る。
「籠を持っていろ。」
「それと…彼女を屋敷に運べ。」
「ウフフフ。」
護衛たちは目を合わせ、
まるで自分たちが呼ばれてはいけない儀式に招かれたかのような顔をした。
少女が目を覚ますと、そこは常識で考えればありえないほど豪華な部屋だった。
高い天井から垂れる濃い葡萄色のカーテン。
ほの暗く揺れるランプの灯。
静寂。
そして──閉ざされた空気。
少女は状況を理解した瞬間、叫んだ。
「た、助けて!!拉致よ!!変態貴族にさらわれたのよ!!」
だが部屋は防音だった。
あまりに完璧な防音で、
自分の叫びも、鼓動さえも、自分にしか聞こえない。
それは、ザリーンの飼っているフクロウが静かな環境でしか眠れないからだと後に知る。
*カチャリ…*
扉が開いた。
影が伸びる。
ランプの光が、半分だけ男の微笑みを照らす。
優しそうにも見える。
だが──ほとんどの人間には災厄の兆しにしか見えなかった。
ザリーンが近づきながら、腰のベルトに手を掛ける。
「ウフフフ…少しだけ…」
「不快かもしれない。」
少女は震え、目を閉じた。
──カチャン。
床に落ちたのは、革のベルト。
ザリーンは静かにしゃがみ込む。
「座るとき、これが少し邪魔でね。」
彼は小さな器を手に取る。
中には淡い緑色の回復薬。
触れ方は驚くほど優しく、まるで割れ物を扱うかのよう。
「安心しなさい…ウフフフ…ちょっと冷たいだけだ。」
ジュッ…
薬が傷に触れ、ひんやりとした感覚が広がる。
草と薬草の香りが漂う。
少女は目を開ける。
「…え? なにも…されてない?」
「当たり前だろう。」
ザリーンは立ち上がり、ベルトを拾う。
「もう一度叫ぶと…」
「フクロウがストレスで眠れなくなる。」
その声は本気だった。
だが…脅しにしか聞こえなかった。
夜が降りる。
蝋燭の火が、証人のように揺れる。
重い足音が近づき、扉の前で止まる。
ランプの背明かりを受けて、ザリーンの姿は
もはや人間と呼ぶにはあまりに静かで、あまりに神秘的だった。
「ウフフフ…」
「食事はどうだ?」
ただの言葉。
それだけなのに──どこか危険な誘いに聞こえる。
ザリーンは先に歩き、振り返らずに言った。
「歩け。ゆっくりだ。まだ弱っている。」
広い食堂。
長いテーブルには豪華な食事。
二十人は座れるだろうに──座っているのは二人だけ。
「好きなだけ食べろ。ウフフフ。」
少女は食事を見て、次にザリーンを見た。
疑い、怯え、混乱。
「……どうして私を助けたの?」
ザリーンは長く沈黙し、表情なく少女を見つめる。
その瞳は捕食者のように静か。
「傷だらけだった。」
声は低く、乾いた空気のように。
「それに…君の目は…」
「希望を捨てた人間の目をしていた。」
それは優しい言葉だった。
だが最後に小さく笑っただけで、すべてが崩れた。
「ウフフフ…」
「やっぱり…私を奴隷にするつもりなんじゃ…?実験に使うとか…?それとも──」
ザリーンは静かに言った。
「……どうして私がそんなことを?」
沈黙。
「私は…そこまで極端ではない。」
その言葉は薄く漂って、
まるで触れてはいけない過去の気配を落とした。
「……市場の安っぽい劇に影響されすぎだ。ウフフ。」
しばらくして、ザリーンは椅子にもたれ、少女を見た。
威圧も、甘さもなく。ただ──見ていた。
「話してみろ。」
「興味があれば…助けよう。ウフフ。」
柔らかい声。だが抗えない圧。
少女は──話し始めた。
村が炎に包まれた夜。
貴族クルアズの軍勢。
ひとり逃げたこと。
すべてを失ったこと。
ザリーンは途中で一度も遮らず、低く呟いた。
「哀れだな…」
「君のように…綺麗な娘が。」
少女の思考が一瞬止まった。
自分が何をされようとしているのか、わからなくなった。
ザリーンは何かを小さく呟き、身を乗り出した。
静寂が寄り添う。
蝋燭だけが呼吸している。
「傷があるんだ、君には。」
「目に見えるものより…深い傷が。」
視線が絡む。
「私は君に──」
「あるものを与えられる。」
少女の胸が高鳴る。
ザリーンは微笑んだ。
「……機会を。」
沈黙。
「──すべてを取り戻す機会を。」
その声には脅しも誘惑もない。
ただ静かで、深かった。
その瞬間──少女は悟る。
ここは普通の世界ではない。
ここは死よりも危険で、死よりも魅力的な場所。




