4 水を取り戻す悪女
「この水場を直すのに、金貨二枚?」
グレタが見積書から顔を上げた。
翌朝、ヴィオラは城の食堂で、最後のパンを口へ運んでいた。
昨夜提出した予備調査の報告には、不自然な魔力経路と、追加で必要な資料を記してある。
約束した残りの報酬も受け取った。
今日は別の仕事だ。
「仮復旧の作業料よ。部品代と、手伝う職人の賃金は別」
「昨日は調査だけで三枚取ったくせに」
「昨日のあたしを今日も使いたいなら、今日のお金を払いなさい」
向かいに座るレオンハルトが、見積書を引き寄せた。
「……直せるのか」
「昨日の記録を見る限り、試す価値はあるわ。現場を見て、無理なら作業に入らない。その場合は、現地確認の料金だけ」
水場に回る魔力は少ない。
だが、全く届いていないわけではなかった。
修繕記録には、汲み上げ装置の部品を交換したとある。
それでも、動かない。
ならば、部品以外にも原因がある。
「国境へ伸びる線を切れば、水は出るのではないか」
レオンハルトが言った。
ヴィオラは皿へ手を伸ばしかけ、止めた。
「何につながってるかも、止めたら何が起きるかも分からないのよ。順番を間違えないでちょうだい。せっかちね」
「……領民は、その間も水を運んでいるんだ」
「だから、水場の方を先に直すのよ」
見積書の隣に、作業条件を書いた紙を置く。
「今届いている魔力で、水を汲めるようにする。あの古い線は触らない。仮復旧した後も、三日間は動き方を確認する。そこで問題が出たら、調整は作業料に含めるわ」
レオンハルトは条件を読み、ペンを取った。
「グレタ、職人を手配しろ」
「承知しました」
動作確認の三日間も、滞在と警護の条件は前の契約から引き継ぐ。
署名に魔力が通り、紫と金の印が結ばれた。
ヴィオラは立ち上がる。
泊まった部屋で整え直した髪が、肩を滑った。
「じゃあ、働いてくるわ。陛下はお忙しいでしょうから――」
「俺も行く」
ヴィオラはレオンハルトを見た。
「また監視?」
「領民の水だ。結果は自分で見る」
「まあいいわ。ただし、現場で怒鳴らないでね。職人が手元を狂わせるから」
レオンハルトは答えず、外套を取った。
ーーーー
村の共同水場には、空の桶が並んでいた。
ヴィオラたちが近づくと、待っていた者たちが一斉に姿勢を正す。
レオンハルトに頭を下げた後、紫の髪の男を見て、表情を変えた。
「……人間か」
誰かの声がした。
ヴィオラは桶を避け、水場の前へ進む。
石造りの水槽は乾いている。
その脇で、年老いた魔族が道を塞いだ。
「触るな」
太い腕には、火傷の跡があった。
「水番をしている者だ」
グレタが説明した。
老人はヴィオラを睨んだまま、腰の鍵を握る。
「前にも人間が来た。直してやると言って、部品を外して持っていった。それきりだ」
ヴィオラは鍵を見た。
次に、水槽の下にある点検扉を見る。
「その後、別の職人が直したのね」
「外された部品はな。だが水は出なかった」
「今日は、あたしが調べる」
「同じことを言った!」
レオンハルトが口を開きかけた。
ヴィオラは片手を上げた。
魔王を制したことに、周囲の兵が目を剥く。
「陛下。少し待って」
老人に向き直る。
「ここで外した物は、ここに置く。持ち出す必要があれば、何をどこへ運ぶのか、あなたに書いて渡す。それでどう?」
「紙なんかで、何が変わる」
「書いた通りにするかどうか、見てればいいじゃない。あたしが部品を盗もうとしたら、あんたが止めなさいよ」
老人の後ろに、小さな桶を持った子供が立っている。
桶の底には、僅かに水が残っている。
ヴィオラは視線を戻す。
「信用しろとは言わないわ。扉を開けて。あなたも一緒に中を見るの」
老人は、レオンハルトを見た。
レオンハルトは命令しなかった。
水場と老人を見て、返事を待っている。
やがて、鍵が扉へ差し込まれた。
ーーーー
汲み上げ装置は、地下の浅い水路につながっていた。
水そのものはある。
交換された歯車にも、弁にも異常はない。
ヴィオラは髪を高く結び、上着の裾を腰の帯に留めた。
袖をまくり、制御板に顔を寄せる。
そこに刻まれた文字は、魔力が一定量に達した時だけ、装置を動かす条件だった。
「……これね」
魔力が少ない時に無理に動かして、装置を傷めないための仕組み。
必要な保護だったが、起動に求める量が、今の供給に対して大きすぎた。
「壊れてないから、部品を替えても動かなかったのよ」
老人が膝をついた。
「魔力が足りないのは知っている。蓄えてから動かそうともした」
「溜まらなかった?」
「ああ。すぐに抜ける」
ヴィオラは制御板の端を指した。
「止まってる間も、水位を確かめる部分が動いてるわ。蓄えるより先に、そこへ使われてる」
作動条件と監視の間隔を、別々に紙へ控える。
安全のために付けた仕組みが、少なくなった魔力を使い続けていた。
「ずっと水を出すのは、今の量じゃ無理。でも、溜めて、少しずつ汲むことならできる」
村人たちが顔を上げた。
「どのくらい出る」
「測ってから答えるわ。出来ない約束は、しないの」
グレタが連れてきた職人に、蓄えるための魔石と、接続金具を頼む。
水位の確認は、汲み上げ前後に行う。
蓄えが減れば停止させ、装置を保護する条件は残す。
ヴィオラは変更内容を図に描いた。
「これは、装置を動かすための設定。誰かの命や土地を縛る契約じゃないわ」
老人が図を覗き込む。
「水が出る時刻は決められるか」
「ええ。まず一回に出せる量を調べて、それから相談しましょう」
勝手に付け足された供給契約が隠れていないか、刻まれた条件も確認した。
この制御板にあるのは、水場を動かすための設定だけだった。
ヴィオラは顔を上げる。
「陛下。管理者として、変更の承認を」
「装置の保護は残るのだな」
「もちろん。水が一回出た代わりに全部壊れたら、あたしの評判が落ちるわ」
レオンハルトは図を確かめ、頷いた。
ーーーー
作業が進む間、レオンハルトは水槽の脇に立っていた。
ヴィオラは職人と部品を並べ、何度も数字を確かめている。
領民に触らせる物と、魔力が通っていて触れてはいけない物を、置く場所から分けていた。
人間に任せるべきではない。
その思いは、まだある。
だが、今のところ、あの男は約束を破っていなかった。
風が抜け、結い上げた紫の髪の先が揺れる。
ヴィオラが顔を上げた。
陽の光の下では、その肌は城の灯りで見た時より明るかった。
長い睫毛が、頬へ細い影を落としている。
鼻筋から葡萄色の唇へ続く線に、目が留まった。
男だということは、見れば分かる。
袖をまくった腕にも、上着の下の肩にも、はっきりとした骨格がある。
それでいて、顔立ちは息を呑むほど華やかだった。
紫の瞳が、手元の紙を追う。
考え込む時には唇を結び、答えが出ると、片方の口角がわずかに上がる。
よく動く口だ。
こちらを怒らせることも、金を請求することも、まるで恐れていない。
この人間の容姿が美しいのは、確かだった。
その事実まで否定するほど、レオンハルトは自分の目を疑っていなかった。
「陛下」
紫の瞳が、こちらを向いた。
「何だ」
「そこ、陰になってるの。少し横に動いてちょうだい」
レオンハルトは一歩、脇に寄った。
ヴィオラの手元に光が差す。
金の耳飾りが揺れた。
「助かるわ。大きい男は便利だけど、日除けに使うつもりはなかったのよ?」
近くの職人が、慌てて咳をした。
「口を動かす前に、仕事をしろ」
「同時にできるの。あたし高い女だから」
お前は男だろ、と言い直す気にはならなかった。
レオンハルトは腕を組み、作業に目を戻した。
耳飾りの揺れる音が、しばらく耳に残った。
ーーーー
最初の試験は、昼過ぎだった。
元の供給線から少しずつ魔力を溜め、起動に必要な量に達するのを待つ。
蓄える間は、水場の線へ流れ込む量が以前より増えていた。中央からの供給が同じなら、他の経路へ回る分は、その間だけ少なくなる。
ヴィオラの魔力は、新しい設定を刻むために使った。
水を汲む力まで、彼が出しているわけではない。
「触らないで。動き始めるわよ」
歯車が回った。
水路から低い音が上がる。
水槽の口が震え、細い水がこぼれた。
村人が息を呑む。
だが、水はすぐに止まった。
「止まったぞ!」
「見えてるわよ。怒鳴らないでちょうだい」
ヴィオラは測定紙を確かめた。
蓄えは残っている。
装置を守る条件が、起動直後の揺れに反応して止めていた。
許容できる範囲を職人と確かめ、停止条件を調整する。
故障を知らせる条件は消さない。
もう一度、蓄える。
老人が桶を持ち直した。
ヴィオラは彼を見る。
「今度は、そこにいて。出た量を一緒に測ってほしいの」
歯車が回る。
細かった流れが、太くなった。
石の水槽を、水が叩く。
老人の桶に、澄んだ水が溜まっていった。
誰かが歓声を上げた。
子供が駆け出しかけ、グレタに襟を掴まれる。
「順番だ。近づくな」
「そうよ。あたし、踏まれる契約まではしてないんだから!」
ヴィオラは水量を書き留め、停止を確かめた。
次の起動までに必要な時間も、測定紙から読む。
「朝と夕方。それから、昼にも一回。まずはこの回数で使って。出せる量はここに書くから、桶の大きさで分けないようにね」
老人は、満ちた桶を見ていた。
その手が、ヴィオラに伸び、葡萄色の爪に、節の太い指が触れかけた。
だが、老人はそこで手を止め、それから深く頭を下げた。
「……助かった」
ヴィオラは一瞬、口を閉じた。
「……お礼なら、次の仕事を紹介してちょうだい。部品を作れる職人と、売れる物が欲しいの」
「売れる物?」
「いつまでも陛下のお財布ばかり当てにしてたら、先に底が抜けるでしょう。水の次は、お金も流れるようにするわ」
老人が、少しだけ顔を上げた。
「道具を作る工房なら、ある」
ヴィオラの唇に笑みが戻る。
「そういう話、大好きよ!」
ーーーー
レオンハルトは、水を受け取る領民を見ていた。
全員が、ヴィオラに近づくわけではない。
離れて眺める者も、まだ疑う者もいる。
それでも、昨日までは空だった桶に水がある。
「予備調査で分かったことは、役に立ったな」
ヴィオラが振り返る。
「でしょう。料金も妥当だったと思わない?」
「今日の作業料の話をしているのか」
「両方よ」
レオンハルトは水槽に目を戻した。
「他の村でも、同じことができるか」
「同じ設備ならね。違う物なら、また調べる。あたしの顔を見れば何でも直ると思わないで」
言ってから、ヴィオラは耳飾りを直した。
「見たいだけなら、別料金だけど」
金色の瞳が、彼を捉えた。
さっき目が留まった唇が、今は挑むように笑っている。
薄い紅も、紫の石も、自分に似合うと知って選んだものなのだろう。
レオンハルトは、その目を見返した。
「口が減らないな」
「減らしたら、あたしの価値まで下がるわ」
レオンハルトは、なにも言わなかった。
ヴィオラは出来高の確認書を広げる。
「さあ、陛下。成果を見ていただいたところで、署名をお願い」
ーーーー
同じ頃、ルミナリア王国の西部供給所では、一人の役人が記録板の前に立っていた。
国境側から流れ込む魔力が、短い間隔で減っている。
少し経つと戻り、また減る。
長く続いていた一定の流れが、その日の昼から乱れていた。
「故障か?」
「こちらの設備には異常がありません」
係員が答える。
役人は帳簿を開いた。
減った時刻に印をつけ、監督官への報告を命じる。
「向こう側で、何かを動かしている」
記録板の文字が、また変わった。
村の水槽に注がれる水の音は、国境の向こうまで届かない。
だが、魔力の数字は、隠せなかった。




