3 魔王と契約する悪女
「あたし、あなたと商売がしたいの」
そう告げたヴィオラを、レオンハルトはしばらく見下ろしていた。
金色の瞳が、手帳に戻る。
「先に、その記録を置いていけ」
「嫌よ」
即答すると、グレタの眉間に皺が寄った。
「陛下に向かって――」
「売り物を渡してから値段を決める商人がいる?」
グレタの手にある手帳に、指を添える。
数字が薄れ、香水と布の買い物記録に戻った。
レオンハルトの目が険しくなる。
「殺すぞ」
「あたしを殺したら読めなくなるでしょう。陛下、商談のたびにお客を減らす気?」
空気が冷えた。
ヴィオラは表紙から手を離す。
魔王は怒っている。
だが、手帳を奪い取ることも、剣を抜くこともしなかった。
「何を要求する」
「まず、調査中の身の安全。王国から引き渡しを求められても、勝手に渡さないこと。泊まる場所と食事。それから報酬」
「まだ成果もない人間に、金を払えと?」
「働かせてから、気に入らないと言って踏み倒されるのは御免よ」
ヴィオラは唇だけで微笑んだ。
「今のあたし、その手の話には敏感なの」
レオンハルトはグレタに目を向けた。
「国境の記録は」
「照会を進めています。〈白銀の冠〉に所属していたことと、契約管理を担当していたことは確認できました。横領容疑については、王国側の発表しかありません」
「聞いたでしょう。あたしの仕事まで架空じゃないわ」
「仕事ができる密偵もいる」
レオンハルトが返した。
「調査にはグレタを同行させる。立ち入る場所はこちらが決める。領内の設備に、許可なく触れるな」
「いいわ。触らずに済む範囲まではね」
「何だと」
「調べるために触る必要が出たら、その都度、許可を取る。そう書けばいいのよ」
ヴィオラはグレタを見た。
「鞄から契約紙と筆記具を出してちょうだい。紫の帯で束ねてある方。白い方は買い物用だから」
「紙を分けているのか」
「買い物と仕事を混ぜると、経費で揉めるのよ」
渡された紙を広げる場所がない。
ヴィオラが周囲を見回すと、レオンハルトは壁際の長卓を指した。
座れとは言われなかったが、椅子はあった。
当然のように腰を下ろす。
グレタが何か言いかけた。
レオンハルトが片手で止める。
「条件を言え」
ヴィオラは羽根ペンを取り、顔を上げた。
「今日の予備調査は金貨三枚。半額を着手時に、残りは調査報告を渡した時に。設備の修繕は別料金」
「高い」
「王都から逃げてきた専門家を、陛下の目の前まで届けてあるのよ。送料込みと思えば安いわ」
返事はなかった。
「三枚に値する仕事を示せ」
ヴィオラはペン先を紙につけた。
「調査場所の現状、記録との食い違い、追加で確認するべき箇所。分からなければ、何が足りないかまで書く。王国の不正が見つからなくても、調べた仕事には支払ってもらうわ」
「不正を見つけると請け負ったのではないのか」
「ないものを見つけたことにする契約が欲しいなら、王国に頼みなさい。得意な連中を知ってるわ」
レオンハルトが、卓の向かいに立った。
「偽りの報告を出した時は?」
「報酬の返還と、契約の解除。故意に設備を壊した場合も同じ。実際に生じた損害については、記録を照合して責任を決める」
「命を担保にしろ」
ペンが止まった。
ヴィオラは顔を上げる。
「え?嫌よ」
「自分の言葉に責任を持てないのか」
「持つから、書いてるでしょう。あたしの命を好きにできる権利は、売ってないの」
金色の瞳と、紫の瞳が向き合った。
ヴィオラは笑わなかった。
「信用できないなら、雇わなければいいわ。見張りでも、持ち物の確認でも受ける。でも、契約を理由に何をしてもいいとは言わせない」
グレタが二人を見比べた。
レオンハルトは紙に目を落とす。
まだ署名もされていない、細かな条件の並ぶ紙。
「……逃亡を助けた者も、その条件で扱うのか」
「あたしが雇うならね。仕事代が払えない時は、頼まないわ」
王都で働く職人にも、運んでくれた御者にも、そうしてきた。
これから魔族を雇うことになっても、変える理由はない。
レオンハルトは椅子を引いた。
「続けろ」
ーーーー
契約を書き終えるまでに、ヴィオラは二度、紙を書き直した。
調査の期限は翌日の夕刻。
必要な資料が届かなければ、双方で延長を協議する。
魔王領の記録を外へ持ち出す時は、許可を得る。
ヴィオラの手帳は彼自身の所有物として扱う。
滞在中の警護には、監視も含まれる。
ただし、食事や睡眠を妨げる扱いはしない。
「入浴の時まで見張らないでね」
「逃げ道のない浴室を使わせる」
「窓もないの?」
「ある」
「なら、換気はできるわね。いいわ」
グレタが深く息を吐いた。
「細かいな」
「揉めてから話すより安いでしょう」
最後に、調査結果によらず、契約期間中は王国への引き渡しを行わないと書き足す。
犯罪行為をした場合の取り扱いも、別に定めた。
ヴィオラは紙を魔王へ滑らせた。
「読んで。分からないところがあれば、聞いてちょうだい」
レオンハルトは、最初から最後まで読んだ。
支払いの時期を確かめ、グレタにも読ませる。
その慎重さは、ヴィオラには好ましかった。
読まずに署名した相手ほど、後から声が大きくなるものだ。
「この条件なら、承認する」
魔王が名を記す。
続いて、ヴィオラも署名した。
互いの指先から魔力を通す。
紫と金の光が紙の上を走った。
文字の輪郭が浮かび上がり、署名の下に小さな印が結ばれる。
それだけだ。
国を奪う魔法も、人を従わせる力も、この紙にはない。
決めた仕事と対価を結ぶ、短い契約だった。
「成立よ」
グレタが小さな袋を卓へ置く。
中身は金貨一枚と、半枚分の銀貨だった。
ヴィオラは数を確かめ、鞄に入れた。
「お前の手帳も返す」
レオンハルトが言う。
「ただし、信用したわけではない」
「ええ。代金の半分しかもらってないもの。あたしも、まだ仕事の半分も見せてないわ」
立ち上がり、髪を肩の後ろへ払う。
「さあ、陛下。お支払いいただいた分は、きっちり働くわよ」
ーーーー
連れていかれたのは、城の東にある魔力設備だった。
古い石造りの建物で、床の中央に大きな魔石が据えられている。
そこから壁へ向かって、金属の線が何本も伸びていた。
水を汲み上げる設備。
城と周辺の灯り。
国境の結界。
それぞれに、魔力を送るための線だ。
城へ来る途中に見た村の水場も、ここから魔力を受けているという。
ヴィオラは入り口で立ち止まった。
「陛下も来るの?」
外套を外したレオンハルトが、背後にいた。
黒い上着の下でも、肩の厚みは変わらない。
「お前が何をするか、自分で見る」
「どうぞご自由に。質問は歓迎。ただし、あたしが数字を数えてる時に、殺すぞって言わないでね。気が散るわ」
「余計なことをするな」
「余計かどうかは、見て判断してちょうだい」
ヴィオラは鞄を置き、髪を高く結んだ。
まず、管理記録を読む。
次に、魔石の側面に刻まれた供給量を確かめる。
日ごとの量には、ほとんど変化がなかった。
冬でも夏でも、一定の魔力が送り込まれている。
「ずいぶん安定してるわね。誰が補充してるの?」
「陛下だ」
グレタが答えた。
ヴィオラはレオンハルトを見る。
「毎日?」
「必要な時に蓄える」
「この設備以外にも?」
「領内の主要な設備には、俺が補っている」
ヴィオラは記録の頁を戻した。
確かに、王の供給を示す印が続いている。
魔王が一人で補う量としては大きい。
これだけ入れて、水場が止まっているのか。
「水の設備は、どの線?」
「左から二本目だ」
ヴィオラは線に沿って歩いた。
接続部には修繕の跡があったが、目立った破損はない。
「今の流れを測りたいわ。小さい結界を使う。設備の設定は変えない」
「許可する」
魔力の流入量と流出量を記録する条件を書いた三枚の契約紙を、床に置く。
測定する区間を囲み、自分の魔石から魔力を流した。
入る量と出る量が、紙の文字として浮かび上がる。
差は、ごく僅かだった。
次の線も測る。
灯りも、結界も、同じだった。
同じ時間に魔石から送り出される量と、各線へ流れる量の合計を比べる。
各線へ分配される量の方が、明らかに少なかった。
残りは、分配される前に別の場所へ流れている。
ヴィオラは中央に戻った。
「管理してる職人は?」
「今日は南の設備を修繕している。必要なら呼び戻す」
「今すぐじゃなくていいわ。先に、配線図を見せて」
グレタが古い図面を開く。
壁へ伸びる線は、全て描かれていた。
一本を除いて。
魔石の土台から、床の下へ消えている細い線。
表面が黒く変色していて、最初は石の継ぎ目に見えた。
「これは?」
「古い接続だ。今は使っていない」
ヴィオラは膝をつき、近くに顔を寄せた。
「……使ってないなら、どうして温かいの?」
グレタが黙った。
ヴィオラは素手で触れず、測定用の紙を脇に置く。
文字が動いた。
ここにも、魔力が流れている。
しかも、領内の水に送る量より多かった。
ーーーー
床の点検口を開けると、古い線は建物の外へ続いていた。
管理用の通路を辿る。
ヴィオラが先に立ち、グレタが灯りを持った。
レオンハルトも、黙って後ろからついてくる。
壁には湿気が溜まり、靴の音が反響した。
「服が黴臭くなったら、洗濯はそちらでお願いね」
「その汚れまで、宿泊に含める気か」
「仕事で汚れたんだから当然でしょう。二枚目の下から四行よ」
「……覚えているのか」
「お金に関わるところは、だいたいね」
通路の奥で、線は二つに分かれていた。
一方は城の外壁へ。
もう一方は、東の地中へ伸びている。
ヴィオラは方角を確かめた。
鞄から手帳を取り出し、記録を開く。
王国の西部供給所。
国境の向こうにある、中継設備。
不審に思って控えた数字と、ここを流れる量を並べた。
一度だけでは、同じ経路だと決められない。
それでも、偶然として片づけるには近すぎた。
「グレタ。この先、領内の設備はある?」
「その方角にはない。国境の監視塔は、別の経路で動かしている」
ヴィオラはペンを取り、測った量と時刻を書き留めた。
レオンハルトが近づく。
「何が分かった」
「陛下が入れた魔力の一部が、領内の設備に届く前に、ここへ流れてる」
指先で線を示す。
「その先は?」
「地図と、王国側の設備を照合する必要があるわ。でも、疑っている場所はある」
手帳の供給所名を見せた。
「ルミナリア王国の、西部供給所よ」
金色の瞳が、文字を追った。
魔王の魔力が、領内の薄暗い灯りを照らすより先に、王国に送られている。
もし、この数字が同じ流れを示しているなら。
ヴィオラの脳裏に、王都の噴水が浮かんだ。
子供たちが蹴っていた水。
昼でも煌々と輝いていた、ギルドの魔法灯。
「……人間ごときが」
低い声に、グレタの背筋が伸びた。
「陛下。まだ経路を確かめる段階です」
「分かっている」
レオンハルトの拳が握られる。
通路を満たす魔力に、灯りの火が細くなった。
ヴィオラは手帳を閉じた。
「怒るなら、調べ終わってからにしてちょうだい」
「お前に、この怒りが分かるか」
「全部は分からないわ」
ヴィオラは即座に答えた。
分かったふりをするつもりはなかった。
「でも、取り返したいなら、証拠を揃えなさい。壊すのは一瞬だけど、壊してから返せと言っても、相手は知らないって言うわよ」
レオンハルトは、床の線を見下ろした。
太い指が、ゆっくりと開く。
「……調べろ」
命令は、短かった。
「この流れが何なのか。誰が使い、何を払っているのか。全てだ」
ヴィオラは魔王を見上げた。
怒りは消えていない。
それでも、この男は、自分の手で証拠を壊さなかった。
「予備調査の報告には、ここまで書くわ。本調査の見積もりは、別に出す」
「金の話ばかりだな」
「仕事の話をしてるのよ」
葡萄色の唇に、笑みが戻る。
「あたしを雇ったこと、絶対に後悔させないわ!」
通路の奥に、古い線が伸びていた。
魔族の水場は止まり、王国の噴水は水を溢れさせている。
その差を作っているものが、この先にあるのかもしれない。
ヴィオラは手帳を鞄にしまった。
ガレスが取り上げた帳簿だけでは見えなかった数字が、今、足元を流れていた。




