第99話 荷車を、家の前まで
朝の森に、荷紐を締め直す音が響いていた。
昨日、荷車から下ろした荷物が、まだ森の入口に残っている。雨を避けるために布をかけてはあるものの、いつまでも置いておける場所ではない。リュストとその妻は、大きな木箱の両側を持ち上げ、根の張り出した小道へ足を踏み入れた。
途中で妻の足が止まり、箱が斜めになる。リュストが慌てて踏ん張ったところで、俺は二人の後ろから声をかけた。
『一度下ろしてくれ。その箱なら、昨日と同じように俺が運べる』
「助かる。ただ、中に土の鉢が入ってるんだ。横には倒さないでくれ」
妻が箱の下へ敷き布を差し込み、俺が口でくわえるための縄をかける。二人が離れたのを確かめてから持ち上げると、箱の中で何かが小さく触れ合う音がした。
人間二人が顔を赤くしていた荷物でも、今の俺には軽い。けれど、その軽さを頼りに歩けば、中身まで無事とは限らなかった。
揺らさないように家々の間へ運び込み、指定された場所へゆっくり下ろす。布を外した妻が蓋を開け、欠けていない鉢を確かめて、ようやく息をついた。
「これで煮物ができる。箱の底に入れたせいで、昨日は取り出せなかったのよ」
『食器だけ先に出す、というわけにもいかなかったんだな』
「寝床を作って、子供に食べさせていたら日が暮れてしまって。何から手をつければいいか、途中から自分でも分からなくなったわ」
苦笑した妻は、鉢を胸に抱えて粗末な屋根の下へ戻っていった。子供がその後を追いかけ、戸口に掛けた布が二人の姿を隠す。
俺は空になった木箱から、森の入口へ視線を戻した。
あそこには、まだ穀物の袋や道具が残っている。これから先も、人が増えれば荷物は届くだろう。そのたびに、俺が口でくわえて往復することになるのか。
『昨日の荷車は、道が狭くて入れなかったんだったな』
「根と曲がり角が厄介なんだ。人が歩く分には避けられるが、車輪はそうもいかない」
リュストは小道の先を見ながら、腰の道具に手を添えた。
「俺たちも直したかったんだが、先に屋根をかける必要があった。家族を迎えられたから、そろそろ道にも手をつけたい」
『それなら、今日はそっちをやろう。俺にも運んでほしい物があるはずだ』
「ある。だが、抜く物はこっちで選ばせてくれ。残したい木まで倒れると困る」
少し念を押すような言い方に、俺は小道の両側へ目を向けた。
立っている木の根を引けば、土も一緒に持ち上がる。近くには荷物を置いた屋根もあり、その向こうでは子供が朝飯を待っている。大きな力を使えるからといって、思いついた順に引き抜いていい場所ではなかった。
『触る前に呼ぶ。それで進めよう』
リュストが頷くと、話を聞いていた者たちも道具を取りに動き始めた。
朝飯の後、俺たちは森の入口から小道を歩いた。
俺の身体では木の間を通れないため、人間たちが先に入り、邪魔になる場所へ棒を立てていく。俺は外側から回り込み、ときどき首を伸ばして、彼らの指した場所を確かめた。
一番大きな切り株は、道の真ん中より少し脇にあった。
歩くなら両側へ分かれれば済む。しかし荷車を通そうとすると、片方の車輪が根に乗り、反対側は柔らかい窪みへ落ちる。
『こいつを抜けば、まっすぐ通せそうだな』
「それが、抜いた後の穴も大きそうでね」
イーゼは切り株の根元へ鍬を入れ、黒い表土を少し削った。
「抜いて終わりにすると、雨の後に車輪が沈むよ。埋める土と石も、先に寄せておこう」
その言葉を聞いて、俺は持ち上げかけた前脚を止めた。
確かに、邪魔な物がなくなれば道になると思っていた。穴の底まで見ずに通れば、今度は荷車を引く馬が脚を取られるかもしれない。
人間たちが周囲の根を掘り、斧で細いものから切っていく間、俺は離れた場所から石を運んだ。手頃な大きさの物だけを選ぶつもりでも、人間の手に渡すと大きすぎることがある。
「それは脇へ置いてくれ。道の端を支える方に使う」
『こっちの小さい方ならどうだ』
「それなら穴に入れられる。土と交ぜてくれればいい」
俺の小さいと、彼らの小さいは、なかなか一致しなかった。
それでも何度か運ぶうちに加減が分かってくる。人間が一人で持てる石、二人なら動かせる石、持つより転がした方が早い石。山で暮らしているときには気に留めなかった違いが、道の脇へ少しずつ並んでいった。
根を切り終えたところで、人間たちを十分に離れさせる。
俺は切り株の横へ前脚をかけ、ゆっくり体重を移した。根の奥で鈍い音がして、土の盛り上がった部分が割れる。いきなり持ち上げず、何度か左右へ揺すると、最後まで残っていた根が地面から抜けた。
思っていたより、ずっと大きな土の塊がついてきた。
『……先に石を集めておいてよかった』
「だから言っただろう。これを昼過ぎから埋め始めたら、今日の仕事が穴埋めだけになる」
イーゼは笑いながら戻ってきて、崩れた縁を鍬でならした。
俺が切り株を脇へ運ぶ間に、皆が石を入れ始める。上から土をかぶせると、それで終わりではなく、丸太を切った物で繰り返し突いて固めていた。
見ていると、どうにも手間がかかる。
『俺が踏めば、一度で固まりそうだが』
「深くなりすぎる。さっきより大きな穴を埋めることになるぞ」
リュストに言われて、自分の前脚を見下ろした。
人間の膝ほどの深さまで沈めてしまってからでは遅い。俺は脚を引き、代わりに次の石を取りに向かった。
昼前には、一番厄介な場所を通せるようになった。
曲がり角では、木を倒す代わりに内側へ張り出した土を削り、外側の窪みを埋める。残した木の根には必要以上に触れず、車輪が通る幅を確かめながら作業を進めた。
子供たちは土の上へ棒を立てる役を任されていたが、掘った穴へ近づきすぎて母親に呼び戻されていた。怒られた後も仕事をやめたくはなかったらしく、安全な場所から棒を差し出してくる。
俺が鼻先を寄せると、その子は握っていた棒を背中へ隠した。
「これは道のやつだから、食べないで」
『食べるつもりはない。そこに立っていると、尻尾が届くから少し下がってくれ』
子供が俺の後ろを覗き込み、慌てて母親のところへ走っていく。
その様子に周りから笑いが漏れた。俺も尻尾の位置を確かめてから、身体の向きを変えた。
◇
夕方、俺は一度ルーエへ戻った。
新しく住み始めた家族の様子を伝え、道を直していることも話すと、トーヴェンが作業中の手を止めた。
「リュストがいるなら、車の幅は分かってるだろう。だが、通せるようになったかどうかは、実際に通してみるまで分からんぞ」
『それも試したい。次に荷を届けるとき、俺も入口で待つ』
村長は顎を撫で、近くにいた男へ荷車の都合を尋ねた。
ちょうど、向こうの住民から頼まれた塩や粉を届ける話があったらしい。買い集めるまで少しかかるので、その間に道を仕上げることになった。
話がまとまったところで、俺の横腹を小さな手が叩いた。
「その荷車、私も乗っていっていい?」
振り返ると、リナがこちらを見上げていた。
「小さい子も来たんでしょ。お母さんたちが荷物を下ろす間、私が見ていられるよ」
村長はすぐには答えず、トーヴェンへ目を向けた。トーヴェンが同行できると伝えると、今度はリナへ顔を戻す。
「向こうで勝手に森へ入るなよ。まだ知らん場所なんだからな」
「トーヴェンのそばにいる。お母さんにも話してくるね」
返事をすると、リナは家の方へ駆けていった。
俺はその背中を見送ってから、暗くなり始めた空へ首を伸ばした。今からなら、寝床へ戻る前に獲物を探す時間もある。
この数日は人間の食事の匂いばかり嗅いでいたが、さすがに俺の腹は鍋一つでは足りない。村長へ帰ると告げると、木々から離れた場所まで歩いて翼を広げた。
◇
荷車が来たのは、その二日後だった。
森の入口で待っていた俺には、車輪の音より先に馬の匂いが届いた。姿が見える前に道から離れ、木々の向こうへ身体を伏せる。
御者が馬を落ち着かせてから、トーヴェンとリナが荷台を降りた。
「ここから先が、直した道か」
トーヴェンは車輪の前へ立ち、土の固さを靴底で確かめた。リュストも家の方から歩いてきて、二人で曲がり角を見に行く。
リナは俺を見つけると手を振ったが、すぐには近づいてこなかった。馬と俺を見比べ、自分も道の脇へ寄っている。
御者が手綱を引き、荷車がゆっくりと森へ入った。
最初の根を越え、埋めた穴の上を通る。車輪は沈まずに進んだものの、曲がり角では後ろの車輪が道の端へ寄りすぎた。
「一度止めてくれ。もう少し外を回したい」
リュストの声で馬が止まる。
俺は首を持ち上げたが、二人の大工はすでに車輪の跡を見ていた。削る場所へ印をつけ、土の上に残った石を取り除いている。
『押す必要があるなら、後ろへ回る』
「まだ大丈夫だ。ここで押すと、車輪を端から落とすかもしれん」
トーヴェンが馬の位置を見ながら答え、御者と短く言葉を交わした。
少しだけ戻して、角度を変えて進む。
荷台の袋が揺れ、木の車輪が軋んだ。俺が見つめる先で、片側の車輪が新しく固めた土を踏み、そのまま曲がり角を抜けていった。
後ろで見ていたイーゼが、両手についた土を払った。
「帰りもここを通るんだから、その前に直しておこう。場所が分かっただけでも、荷車に来てもらった甲斐があるね」
皆が頷き、道具を持って動き出す。
俺も立ち上がろうとしたが、近くの細い木へ肩が触れた。枝が揺れ、頭の上から葉が降ってくる。
荷車一台を通す道を作ったところで、俺が通れるようになるわけではなかった。
『俺は外を回る。先に着いたら、馬を奥へ寄せておいてくれ』
「分かった。子供もそっちへ走らせないようにする」
リュストの返事を聞き、俺は森の外側へ戻った。
迂回した先から家々を覗くと、荷車はもう屋根の前へ着いていた。
昨日までなら森の入口で下ろしていた袋を、人間たちがそのまま荷台から受け取っている。運ぶ距離が短いので、女たちも作業に加われた。リナは小さな子と手を繋ぎ、大人の足元へ入らないように連れて歩いていた。
リュストの妻が塩の包みを確かめ、届けてくれた男へ礼を言う。その横ではトーヴェンが柱の継ぎ目を覗き込み、リュストと何やら話し始めている。
俺が力を使う場所は、もう残っていなかった。
少し離れた草地へ座ると、リナが子供を母親へ返してから、布包みを抱えてやってきた。
「これ、お母さんから。ヴァルに会えたら渡してって」
差し出されたのは、肉の欠片を挟んだ黒パンだった。
俺の食事になる量ではない。それでも受け取ろうと顔を寄せると、リナは慣れた手つきで半分に割り、切り株の上へ置いてくれた。
『リナの分は持ってきたのか』
「持ってきたよ。みんなでお昼を食べてから帰るんだって」
俺はパンを舌で拾い、潰さないように口を閉じた。冷めた肉の塩気と、噛むほどに広がる黒パンの味がした。
リナはしばらく俺の顔を見ていたが、背後で子供に呼ばれると振り返った。
「ヴァル、もう少しここにいる?」
『昼まではいる。その後は狩りに行くつもりだ』
「じゃあ、先にあの子と遊んでくる。まだ名前、ちゃんと聞いてなかったの」
リナは空になった布を畳み、子供のところへ戻っていった。
荷車の脇では、空になった袋が束ねられている。御者は馬の汗を拭き、イーゼたちは帰り道の手直しを始めていた。昼飯の支度をする女の声に、屋根の中から別の声が返ってくる。
俺は前脚の間へ顎を置き、その光景を眺めた。
荷車を押したわけでも、荷物を全部運んだわけでもないのに、今日はもう腹が空いている。土のついた爪を見れば、それなりに働いたことだけは分かった。
やがて鍋の匂いが漂い始めると、リュストが椀を持ってこちらへ来た。
「お前の分もあるが、これじゃ足りないだろうな」
『昼飯はそれをもらう。大きい方の食事は、自分で探してくる』
「獲物が多くても、無理に持って帰らなくていいぞ。昨日の肉も、まだ干してるところだ」
屋根の脇には、煙を当てている肉が並んでいた。俺はそちらを確かめてから頷き、差し出された椀へ顔を寄せる。
森の入口から、馬が小さく鼻を鳴らした。
あの荷車が帰る頃には、曲がり角も少し通りやすくなっているだろう。俺は昼飯を食べ終えると、馬を驚かせない方へ身体を向け、狩りに出る空の様子を見上げた。




