第100話 竜にも、狩りの都合がある
家々の上へ伸びる煙を見下ろしながら、俺は東へ向かった。
昼飯の鍋はうまかったが、腹の方は、そろそろまとまった食事を要求している。森の中で鹿でも見つけるつもりだったのに、空へ上がって遠くの山並みを眺めているうちに、別の場所を思い出した。
ガルと魚を捕った川だ。
あそこなら、大きな魚がいる。食事のついでに、あいつの様子を見てくるのも悪くない。
俺は翼を傾け、畑と道の上を避けて飛んだ。地上の荷車を追い越すときには十分な高さを取り、馬がこちらを気にしていないのを確かめてから先へ進む。
人間を乗せているわけでも、敵を探しているわけでもない飛行は、久しぶりだった。
眼下の森が緩やかに形を変え、山の向こうから川の光が見えてくる。上流へ目を向けると、岸の岩場に見覚えのある影があった。
首から胸へ続く古傷と、欠けた翼の端。
ガルは岩の上で身体を伏せ、水面を見ていた。俺の影が川を横切ると顔を上げたが、すぐに飛び立とうとはしない。
こちらを見定めるような視線とともに、警戒の混じった感情が伝わってきた。
『近くへ下りるぞ。魚を捕りに来た』
言葉の意味が、そのまま通じる相手ではない。
俺は岸から離れた砂礫の上へ下り、翼を畳んだ。着地で転がった小石が、乾いた音を立てて止まる。
ガルから伝わってくる警戒が薄れたところで川へ近づこうとすると、低い声が響いた。
拒絶よりも、制止に近い。
俺は脚を止め、水辺へ目を向けた。
流れの緩い淵に、大きな魚影がある。岩の陰から出た頭だけでも、かなりの大きさだった。ガルは俺ではなく、その魚を見ている。
『ああ、先に狙っていたのか。邪魔をして悪かった』
岸から少し離れて伏せると、ガルは再び水面へ首を向けた。
俺が上から見つけた魚でも、先に狩りを始めていたのはあいつだ。腹は減っているが、わざわざ横から奪う必要はない。
そう考えて見守っていたのだが、魚はなかなか岩陰から出てこなかった。
ガルが前へ寄れば、奥へ引っ込む。首を戻せば、しばらくして頭だけが現れる。
あいつの爪なら捕まえられそうなものなのに、水の中では距離が合わないらしい。ガル自身も深いところへ踏み込むつもりはなく、濡れた岩の上で脚の位置を変えていた。
俺は黙って待っていたが、やがて魚の背後に別の影があることに気づいた。
魚は一匹ではない。
岩の陰から伸びた太い胴が、さらに奥へ続いている。見えていたのは、小さい方の魚が大きい方の前へ出入りしているところだった。
ガルが狙いを定めた瞬間、水面が弾けた。
長い首が伸び、爪が飛沫を上げる。その直後、奥にいた大きな魚が尾を振り、淵の水を岸へ叩きつけた。
ガルは魚をつかみ損ね、濡れた岩から後ろへ跳んだ。
広げた翼に水滴が散る。
俺も顎へ跳ねた水を払いながら、思わず身体を起こした。
『今のは、少し大きすぎないか』
川面にはもう何も見えなかった。
濁った水の下で、何かが岩へ擦れる鈍い音だけがした。
◇
ガルはしばらく淵を睨んでいたが、やがて岩場を離れた。
諦めたのかと思ったら、少し下流の浅瀬へ移っていく。そちらには別の魚が逃げ込んでいたらしく、今度は大きな飛沫も立てずに一匹を捕らえた。
口から垂れた尾が、まだ激しく揺れている。
ガルは俺の方を一度だけ見てから、魚をくわえて岸へ上がった。
俺にも、あちらで捕れと言っているのかもしれない。
ただ、俺の目は、さっきの淵へ戻ってしまっていた。
水を跳ね上げた尾の太さを考えれば、腹を満たすには十分な獲物だ。岩の奥へ逃げ込まれたままでは困るが、そこから出せれば捕まえられる。
俺は岸に沿って歩き、水の深さと足場を確かめた。
表面は静かでも、淵の中央は底が見えない。川岸の土には水が染みており、試しに体重をかけると爪の脇から泥が盛り上がった。
ここへ全身で踏み込むのは、やめた方がいい。
魚に負けるとは思わないが、足場を失って顔から沈めば、俺だって慌てる。翼を広げる余地のない岩の間へ潜り込む気にもなれなかった。
少し上流へ回ると、水の中へ緩く傾いた平たい岩があった。
俺はそこへ片方の前脚を置き、ゆっくりと重みをかける。滑らないことを確かめてから、首を伸ばした。
岩陰の魚は、こちらへ頭を向けている。
顔の幅が広く、口の両側に硬そうな突起があった。頭から背へかけては、石を並べたような板が重なっている。
魚と言われなければ、水の底に沈んだ何かの胴体にも見えただろう。
俺が鼻先を近づけると、そいつは逃げる代わりに口を開いた。
水中で、細かい歯が白く並ぶ。
『そっちも、簡単に食われるつもりはないわけだ』
俺は顔を引き、前脚を水へ差し入れた。
その動きに反応して、魚が奥へ身を引く。頭を捕まえようとしても、爪の先が岩へ当たるだけだった。
力任せに岩を動かせば、下流まで泥だらけになる。魚を食うために川底をひっくり返すのも、どうかと思う。
そこで俺は、一度岸へ戻った。
何も捕らずに引き返してきた俺を、ガルが魚を食べながら見ている。
その口元で、骨が軽く砕けた。
妙にうまそうな音だった。
『まだ諦めたわけじゃない。食事をしながら、そんな顔で見なくてもいいだろう』
ガルから伝わってきたのは、敵意のない、落ち着いた感情だった。
俺が勝手に、そういう顔だと思っているだけらしい。
余計に腹が減ってきた。
俺はもう一度川を眺め、今度は魚ではなく、その周りを見た。
岩陰には隙間があるが、大きな身体が抜けられる場所は限られている。下流側は狭く、上流側には浅い場所が続いていた。
追い出すなら、そちらだ。
平たい岩へ戻った俺は、今度は下流側から前脚を差し入れた。魚をつかもうとはせず、逃げ込んでいる場所の底へ爪を当てる。
砂が舞い、濁りが岩陰へ流れ込んだ。
魚が身をよじったのを見て、さらに前脚を寄せる。
突然、太い尾が水面へ飛び出した。
叩きつけられた水が俺の胸へ当たり、岸の砂利まで洗っていく。それでも前脚を動かさずにいると、魚はとうとう岩陰を捨て、上流へ走った。
浅い水の中で、背中が大きく盛り上がる。
俺は待ち構えていた方の前脚を伸ばし、頭のすぐ後ろを押さえた。
滑る身体が掌の下で暴れたが、今度は底が見えている。爪を深く立てずに押しつけると、魚は激しく尾を振りながらも動けなくなった。
俺は首を下ろし、頭をくわえた。
硬い板が歯に当たる。
口を閉じる力を強めると、抵抗は長く続かなかった。
◇
岸へ引き上げた魚は、水の中で見たときよりも大きかった。
太い胴には泥がこびりつき、尾の近くに古い傷が残っている。俺がくわえた頭以外にも、背中の硬い板がいくつか欠けていた。
こいつも、何もせずにここまで育ったわけではないのだろう。
胸へついた泥を川で落としていると、ガルが近づいてきた。
こちらの魚へ鼻先を寄せ、硬い背を爪で軽く叩く。食べ物への関心はあるが、奪おうとしている様子ではなかった。
俺は腹の柔らかい部分を裂き、身のついた塊を一つ、あいつの前へ置いた。
『さっきの岩場を見つけたのは、お前だからな。少しくらいは分ける』
ガルは差し出された身と俺を交互に見た後、それをくわえて少し離れた。
俺も自分の獲物へ戻る。
柔らかい腹の肉に比べて、背中の近くはしっかりしていた。生でも食べられるが、脂の匂いを嗅いでいると、少し焼きたくなってくる。
岸の広い砂礫へ移り、周りに草がないことを確かめた。
流木を集めるために少し歩いただけで、ガルが顔を上げる。以前ここで食べた味を覚えているのか、俺が戻ると、さっき渡した魚の残りを足元へ置いた。
俺はその身を見下ろし、思わず笑った。
『そっちも焼くなら、少し待ってくれ。口から火を吐けば、すぐ食えるというわけでもないんだ』
火をつけた流木の脇へ石を寄せ、その上に魚を置く。
火の通りを見ながら向きを変えていると、だんだん腹の中が落ち着かなくなってきた。狩りを始める前より、よほど食事のことばかり考えている。
ガルも近くへ伏せ、魚から目を離さなかった。
焼けたところを先に渡すと、熱かったらしく、一度地面へ置き直す。そのまま鼻先で確かめ、少し待ってから食べ始めた。
俺は自分の分へ歯を立てた。
表面に香ばしさがつき、柔らかくなった脂が口の中へ広がる。硬い背を持った魚だったのに、火を通した身は思ったより食べやすかった。
少し面倒な狩りになったが、これなら十分に割が合う。
腹が満ちてくるにつれ、川の音も違って聞こえてきた。
さっきまで魚の居場所を探していた耳に、岩の間を抜ける水と、遠くで鳴く鳥の声が届く。濡れた胸の鱗も乾き始め、砂礫へ伸ばした脚が温かかった。
俺が食べるのをやめると、ガルも残った骨から顔を上げた。
互いに急いで動く理由はなかった。
◇
陽が山へ近づいた頃、ガルが立ち上がった。
翼を広げて川風を受け、上流側の岩場へ首を向ける。そこから伝わってきた感覚には、こちらを誘うようなものが混じっていた。
俺はまだ残っていた流木の火を消し、灰の下に熱が残っていないか確かめた。ガルは少し離れたところで待っていたが、俺が戻ると先に飛び立つ。
慌てて追いかけるほどの速さではない。
俺も十分に広い場所へ出て、翼を広げた。
川に沿って進んだ先には、低い岩棚が続いていた。上の方には別のワイバーンもいて、俺の姿を見ると首を上げる。
そちらへは近づかず、ガルが下りた広い岩場の端へ着地した。
ここからなら、川と周りの森が見渡せる。背後は高い岩になっていて、休んでいる間に後ろへ回られる心配も少なそうだった。
ガルは俺のそばへ寄らず、少し距離を空けて伏せた。
俺も岩へ腹を下ろす。
昼間の熱を残した岩は、冷たい川へ入った身体に心地よかった。
『今日は、ここで休ませてもらうか。帰るのは朝でも間に合う』
ガルは首を上げたまま、しばらく俺を見ていた。
やがて目を細めると、前脚の間へ顎を置く。
俺も真似をして頭を下ろした。岩棚の向こうで、別の個体が翼を畳む音がする。近くに俺がいることを忘れてはいないようだが、いつまでも睨み続ける気はないらしい。
森の中の新しい住まいでは、そろそろ夕飯の支度が始まる頃だろう。
荷車は無事にルーエへ帰っただろうか。リナは道中で眠り込んで、トーヴェンを困らせていないだろうか。
思い浮かべた後で、俺は小さく息を吐いた。
出発するときには狩りに行くと伝えてある。あちらには、馬を扱う者も、子供を見る大人もいる。俺が戻らないからといって、鍋に火が入らなくなるわけではなかった。
横を見ると、ガルの瞼はすでに半分閉じていた。
食べる物を捕り、腹を満たし、気に入った場所で眠る。あいつは俺が来る前から、そうやって暮らしてきた。
俺にも、今日はその時間があっていい。
翼を少しずらして楽な姿勢を探すと、鱗の隙間から乾いた砂がこぼれた。川で落としきれなかったらしい。
ガルが片目を開き、こちらを見る。
『明日は、もう少し楽に捕れる魚にする』
小さく喉を鳴らしたあいつの反応が、返事なのかどうかは分からなかった。
俺は岩の温かさへ身体を預け、今度こそ目を閉じた。




