第101話 最初の家に、火が入る
目を開けると、岩棚の向こうに朝の光が差していた。
腹の下に残っていた温かさは消え、夜の冷気が鱗へしみている。首を起こして身体を伸ばすと、少し離れたところでガルも顔を上げた。欠けた翼の端を広げ、こちらを見てから、川の下流へ首を向ける。
腹が減っているらしい。
『俺は一度帰る。また、魚を捕りに来るぞ』
言葉に添えて、ここを離れるつもりでいることを伝えた。ガルから返ってきたのは、引き留める感覚ではなかった。俺が身体を起こす間に、あいつは先に岩棚の縁へ歩いていく。
上の岩場にいた別の個体も、俺へ目を向けていた。昨夜よりは落ち着いているが、そばへ来る様子はない。俺も距離を空けたまま、翼を広げられるところまで移った。
ガルが川へ下りていくのを見送り、俺は西へ向かって飛び立った。
朝の森には薄く靄がかかり、谷の底だけがまだ暗かった。上から見ると道のつながりがよく分かる。昨日、荷車が通った曲がり角を確かめてから、俺はルーエへ進路を取った。
まず、リナたちが戻っていることを確かめておきたかった。
村の近くへ下りると、畑へ向かう男が手を上げた。こちらも首を傾けて応じ、家々から離れた場所へ歩いていくと、聞き慣れた声が追いかけてくる。
「ヴァル、魚は捕れた?」
リナは空の籠を抱え、トーヴェンと一緒にこちらへ来た。眠そうな様子もなく、その足取りを見ただけで、昨日の帰り道は無事だったのだと分かった。
『大きいのが捕れた。ガルのいる岩場で、そのまま休んできたんだ。そっちは、荷車も困らず戻れたか』
「曲がるところは、ちゃんと通れたよ。村長さんたちにも話したら、今度は自分で見たいって」
「道を直したところも、帰りにはずいぶん落ち着いていた。今日は俺も、屋根を掛ける手伝いに行くところだ」
トーヴェンが肩に掛けた道具袋を持ち直した。
新しく住み始めた者たちの家は、まだ出来上がっていない。雨を避ける仮の寝場所はあっても、家族で落ち着いて暮らすには足りなかった。
『ルーエの仕事は、手を離して大丈夫なのか』
「今日は向こうへ行けるように、こっちの段取りをつけてある。リュストも大工だが、二人いれば屋根の上と下で仕事を分けられるからな。俺が戻るまで、ここの修繕は別の者に頼んである」
頼まれたから何もかも放り出して行く、というわけではないらしい。リナも家の許しをもらっていると聞き、俺は二人と村の外まで歩いた。
人間の歩く速さに合わせていたのでは、向こうへ着くまでにずいぶん時間がかかる。途中で別れ、俺は先に空へ上がった。
森を抜ける道の先に、切り開かれた土地が見えた。
新しい家の骨組みは、空からでもすぐに分かった。柱の間に横木が入り、屋根を受ける斜めの木が、片側から順に並んでいる。その脇には仮の小屋と、布で覆った荷が寄せられていた。
俺は作業している場所から離れて着地し、翼を畳んだ。地面に置かれた縄や道具を踏まないように進むと、リュストが柱の陰から顔を出す。
「戻ってきたか。昨日、ずいぶん東まで行ったんだな」
『ガルと魚を捕って、そのまま一晩休んできた。こっちも、進んだみたいだな』
「屋根が見えてくると、家らしくなるだろう。今日はトーヴェンも来てくれる。雨が入らないところまで、何とか持っていきたい」
彼の妻は、足元で遊んでいた子供を家の骨組みから離れた方へ連れていった。イーゼも束ねた葺き草を運び、置く場所を確かめている。
俺が狩りをして、川辺で寝ていた間にも、ここでは仕事が進んでいた。
よく見ると、柱の横には縄で結んだ小さな台がある。木材を上げるためのものらしく、片方の端には重しが置かれていた。
『俺が戻らなくても、その木は上げられるようにしていたのか』
「いつまでも待っていたら、日が暮れるからな。時間はかかるが、上げられる。ただ、手を貸してもらえるなら、地面にある材料をこっちへ寄せてほしい。持ち上げるより、運んでくる方で人手を取られているんだ」
リュストが指した先には、使う長さに切った木が並べてあった。道を開くときに邪魔になった木も、そのまま捨てずに使っているらしい。
俺は人が作業している家のそばへ寄らず、まず材料の置かれた方へ回った。
木には運搬用の縄が掛けてある。まとめて引けば簡単だが、組み上げるために削った端を地面へ擦るのはよくない。一本ずつ縄をくわえて持ち上げ、リュストが示した空き地へ運んだ。
下ろしたところで人間が縄を外し、次の材料を受け取る支度をする。
三度ほど往復すると、それまで木を運んでいた二人が、家の方へ戻っていった。すぐに屋根の上へ一本の木が上がり、リュストの声が柱の間を通ってくる。
「そのまま止めてくれ。先にこっちを合わせる」
俺の出番は、それでしばらくなくなった。
少し離れて腹を下ろすと、子供がこちらへ来かけ、母親に呼び戻されていた。頭上で木が動いている間は、どこへ行ってもいいわけではない。
俺も首を伸ばしかけて、やめた。近くで見たいからといって顔を寄せれば、屋根の上にいる人間の邪魔になる。
人間だった頃なら、地面から見上げるだけで済んだのだろう。今は見たい場所によって、こちらが離れなくてはならなかった。
やがて森の道から、トーヴェンとリナが姿を現した。
リナは家を見た途端に走りかけたが、トーヴェンに肩を押さえられて脚を緩める。道具を下ろした彼は、リュストと短く話してから、すぐに作業へ加わった。
俺に何をするか尋ねる者はいなかった。二人の大工は骨組みを見ながら仕事を分け、地面の者たちへ声を掛けていく。
リナはイーゼのそばへ行き、葺き草をまとめるための縄を運び始めた。籠を持っていたのは、このためだったらしい。
そのうち、空の色が変わってきた。
西から流れてくる雲の下で、森の葉が白い裏を見せている。俺が顔を上げるより早く、屋根の上のトーヴェンが声を掛けた。
「端の草を先に留めよう。積んである方にも、布を掛けてくれ」
雨を怖がって慌てたというより、風にさらわれるものを先に片づける動きだった。イーゼたちは残りの葺き草を寄せ、荷を覆っていた布の一枚を広げる。
俺のそばへも、風に乗った草の切れ端が飛んできた。
『俺は、あちらへ移る。風の来る方にいれば、少しはましになるだろう』
家と作業する人間から距離を取り、風上の空き地へ身体を伏せた。翼を広げると、草だけでなく人まで煽ってしまう。畳んだまま背を風へ向け、尾を邪魔にならない方へ寄せておく。
身体の向こう側で、布を押さえていたイーゼが顔を上げた。
「こっちは楽になったよ。そこにいても、寒くないかい」
『これくらいなら平気だ。それより、屋根の上は無理をしないでくれ』
「降りるときは降りる。お前が見ているからって、足場の悪いところへは行かんよ」
トーヴェンの返事に、リュストも笑っていた。
やがて細かな雨が落ちてきたが、強くはならなかった。人間たちは滑りやすいところでの作業を止め、地面で束を整えながら雲が通り過ぎるのを待った。
俺の背中には水滴がたまっていく。それを眺めていたリナが、少し離れたところから声を掛けた。
「昨日は、お魚と一緒に川に入ったんでしょ。今日は雨にも濡れちゃったね」
『できれば、今日は乾いたままでいたかったんだがな』
俺が首を動かすと、鱗を伝っていた水が顎の先から落ちた。リナは自分に掛かるほど近くには来ず、笑いながら布の下へ戻っていった。
雲が薄くなった頃、屋根の上で槌の音が戻ってきた。
俺も身体を起こし、濡れた地面へ腹をつけ直さずに済むところへ移る。そこから眺めている間に、家の中へ差していた光が少しずつ狭くなっていった。
最後に入口の上へ葺き草が重ねられ、リュストが屋根から下りてきた。
「まだ壁に隙間はあるが、今夜はこっちで寝られる。濡れた荷から中へ入れよう」
彼の妻が、仮の小屋に置いてあった寝具を抱えてきた。
仕事の終わりを待っていた子供も、小さな包みを胸へ抱く。リナが一緒に運ぼうと手を伸ばしたが、子供は首を振り、自分の腕に抱え直した。
包みが開いて、木で作った小さな玩具が見えた。
それを家の隅へ置いてから、子供は母親を振り返った。妻の方も笑って頷き、運び込んだ寝具を壁際へ広げる。
まだ戸も付いていない家だった。それでも、子供はもう、自分の物を置く場所を決めたらしい。
リュストは濡れた額を袖で拭き、その様子を入口から見ていた。
『屋根が掛かったな。これなら、今夜は雨の音を聞いても、荷を動かさずに済む』
「そうだな。夜中に目を覚まして、布が外れていないか見に行くのは、しばらく遠慮したい」
彼はそう言ってから、俺を見上げた。
「明日は、ほかの寝場所にも手を入れる。この一軒に全員で住むわけにはいかないからな。俺の家ばかり先になった分、今度は俺が働く番だ」
その後ろで、トーヴェンが道具を袋へ戻していた。リナを連れて、暗くなる前にルーエへ帰るという。
イーゼが差し出した包みには、昼に食べきらなかったパンと豆の煮物が入っていた。トーヴェンは礼を言って受け取り、リュストと次に手を貸せる日を相談している。
俺は二人を森の道の入口まで見送った。
「ヴァルも、今夜は帰ってくる?」
『ここを少し見てから戻る。先に夕飯を食べていてくれ』
リナが手を振り、トーヴェンと並んで道へ入っていく。二人の姿が木々の向こうへ消えるのを見届け、俺は家の方へ顔を戻した。
低く組んだ炉の上で、リュストの妻が火を起こしていた。
屋根の煙抜きから、細い煙が上がっていく。彼女は流れを確かめながら薪の置き方を変え、リュストは外へ出て、煙がどこへ抜けるか見上げていた。
鍋が掛かると、入口から煮炊きの匂いが流れてきた。
俺の入れる家ではない。顔を寄せすぎれば、入口にいる人間を困らせるだけだ。それでも、家の中から聞こえる声を、離れたところで聞いていたかった。
子供が玩具を並べながら、父親へ何か話している。リュストは土のついた手を洗い、妻のそばで器を取り出した。
戦場から逃げてきた家族が、今夜は自分たちの屋根の下で飯を食う。
俺はその家を壊すものが来ないよう、森の暗がりへ一度だけ目を向けた。それから翼を広げられる場所まで歩き、ルーエへ向かって飛び立った。
空から振り返ると、家の入口に小さな火の明かりが見えた。
川辺の岩も、なかなか寝心地がよかった。今日は俺も、ルーエの寝床へ帰ろう。
ルーエの近くへ戻ると、畑仕事を終えた人々が道を歩いていた。着地した俺に気づき、荷を担いだまま手を上げる者もいる。
声を掛けられて屋根が掛かったことを話すと、その男は、今度の荷車に積む物があれば村長へ伝えておくと言った。俺が頼む前から、向こうへ荷を届けることを考えてくれているらしい。
寝床へ戻って腹を下ろすと、乾いた地面の感触に力が抜けた。リナたちが帰ってくるまで、もう少し時間があるだろう。
俺は道の方へ首を向け、トーヴェンとリュストが屋根の上で交わしていた話を思い返した。帰ってきたら、あの木の組み方を聞いてみたい。高いところから眺めているだけでは、分からないことがまだいくつもあった。




