第102話 ここを、ドラゴニアと呼ぼう
村の外れで翼を伸ばしていると、荷馬の鈴が聞こえてきた。
朝の道を、幌の付いた荷車が上がってくる。積んでいるのは壺や布、それに縄で束ねた鉄の道具だった。俺が首を向けた途端、手綱を持つ男が身体を固くする。
荷馬まで驚かせないうちにと、俺は翼を畳んだ。
男はその場で荷車を止め、後ろから歩いてきた村長へ何か話しかけた。
「竜のいる村と聞いて来たんですが、こちらでよかったんでしょうか。森を切り開いて、逃げてきた人たちが住み始めたと」
「それなら、この先だ。ここはルーエだが、竜は今こっちにいる」
村長がこちらへ目を向け、少し笑った。
「朝から、いい目印になってるな。俺も向こうを見に行くところだ。お前は、今日はどうする」
『あちらへ行くつもりだった。昨日の屋根のあと、ほかの寝場所にも手を入れると言っていたからな』
俺が答えると、行商人は村長と俺を交互に見た。それから帽子を取り、少し腰をかがめる。
「人の言葉がお分かりになるとは聞いていましたが、お話しになるんですね。商いをしに入っても、構いませんか」
『俺が売り物を選ぶわけじゃない。住んでいる者たちに聞いてくれればいい。馬が怖がらないよう、先に飛んでいく』
男は何度も頷き、もう一度帽子を持ち直した。
村長は行商人の荷を見てから、村の方へ声を掛けている。御者を頼んであったらしく、少しすると、別の荷車が道へ出てきた。ルーエから頼まれていた品も、向こうへ届けるという。
俺は道から離れて空へ上がり、二台が森へ入るのを見送った。
新しい家の屋根は、朝の光の中では昨日より色が明るかった。
空き地へ下りると、リュストが戸口へ板を当てていた。まだ蝶番を付ける前で、いったん立て掛けて隙間を確かめているところらしい。
『昨夜は、雨が入らなかったか』
「よく寝られたよ。子供は朝まで起きなかった。俺の方が、何度か目を覚ましてしまったがな」
彼は板を脇へ置き、家の中へ顔を向けた。
「風が変わったら布を押さえに行く癖が、まだ抜けなくてね。妻にも笑われた」
中から、こちらを見る妻の顔が覗いた。手には、朝食に使ったらしい器を持っている。
俺も口元を緩めたが、家へ顔を近づけるのはやめておいた。小さな戸口いっぱいに竜の目が現れたら、落ち着いて器も運べないだろう。
『村長と、行商人が来る。ルーエから頼んだ荷も積んでいたから、置く場所を空けておいた方がよさそうだ』
「それなら、こっちへ寄せておくか。今朝使う板だけ分ければ、荷車を止められる」
リュストが声を掛けると、近くで作業していた男が材料を動かし始めた。イーゼも桶を脇へ寄せ、家の前から道へ出ている縄を巻き取る。
俺は邪魔になっている木の端をくわえ、言われた場所へ運んだ。三度ほど往復したところで荷車の音が近づき、木々の間から馬の頭が見えた。
入ってきた村長は、まず家を見上げた。
「昨日、屋根が掛かったと聞いていたが、もう戸まで作ってるのか」
「まだ合わせているだけです。寝られる家になったら、今度は風の入るところが気になりまして」
「住んでみないと分からんこともあるな。こっちの荷は、どこへ下ろせばいい」
挨拶を済ませた人々が荷車へ集まり、頼んでいた物を確かめ始めた。壺を抱えて家へ入る者もいれば、包みの中の塩を見て、連れ合いへ何か話す者もいる。
あとから入った行商人は、しばらくその様子を見ていた。やがて荷台の脇を開き、道具や布を見えるように並べる。
「こちらは、お入り用なら見ていってください。今日は場所を覚えがてら来たので、足りない物があれば、次に積んでこられます」
イーゼが手を拭き、荷台へ近づいた。
最初に手にしたのは、服にするには小さな布だった。縁のほつれを確かめ、広げて日に透かしている。
「この端の布なら、いくらになるんだい。袋の口と、子供の膝に当てたいんだけど」
行商人が値を答えると、彼女は二枚を重ね、少し考えてから一枚を戻した。
何でも買える暮らしではない。
それでも、必要な物を自分で選び、値を聞ける相手が来た。荷を抱えて遠い町まで出るより、この場で手に取れることがありがたいらしかった。
俺は少し離れたところへ腹を下ろした。皆の買い物を眺めていると、行商人が荷台の板を押し、眉を寄せる。
角の一枚が割れ、荷を動かすたびに口を開いていた。
リュストもそれに気づいたらしく、車輪の外側から覗き込んだ。
「その板、このままだと帰りに落ちるかもしれません。荷を少しどけてもらえれば、替えられますよ」
「ここで直せるんですか。町へ戻ったら頼むつもりだったんですが」
「合う板はあります。留めているところを見せてもらえますか」
行商人が荷を寄せ、リュストが割れた板の端を確かめた。
そのまま仕事に取り掛かるのかと思ったら、彼は使う板と、かかる手間を先に話した。行商人も荷台へ手を掛けて聞き、やがて二人で頷き合う。
近くの人間が荷を下ろすのを手伝い、リュストは自分の道具を取りに戻った。
『手を貸すところがあったら、言ってくれ』
俺が声を掛けると、彼は荷車のそばを見てから、首を振った。
「今は大丈夫だ。ここへ頭を入れてもらうと、俺の立つところがなくなる。こっちでやってみるよ」
『分かった。馬が落ち着くよう、俺はあちらへ移っている』
俺が身体を起こすと、馬が耳を動かした。荷車の向こうへ回らず、広い空き地の方へ離れていく。
歩くたびに揺れる地面を見て、行商人が手を止めていた。村長はその横で、何でもないように荷の縄を解いている。
「慣れてしまうと忘れるが、大きいんだよな、こいつは」
『俺のそばで、その感想を言うのは少し遅くないか』
村長が笑い、行商人もようやく口元を緩めた。
俺が空き地へ伏せ直した頃には、リュストの槌の音が始まっていた。
◇
昼が近づくと、行商人の荷台には新しい板が入った。
彼は上から体重を掛け、下からも留め方を確かめていた。割れた板は脇へ置かれ、荷を積み直しても、もう妙な軋みはしない。
「助かりました。荷を落としてからでは、品代の方が高くつくところでしたよ」
リュストは差し出された銭を受け取り、掌の中で一度数えた。
そのまま服へしまわず、荷台に並んだ鉄の品へ目を向ける。家の中から出てきた妻と短く話し、戸に使う金具を見せてもらっていた。
家へ付ける物が、その場で直した荷車の代金になる。俺が木を運んだときとは違う形で、ここにいる人間の仕事が、外から来た品へ変わった。
村長もそれを見ていたが、余計な口は挟まなかった。
行商人は積み直した荷を覆い、次に頼まれた品を小さな板へ書きつけた。それから、書き残していた場所へ指を当てる。
「次に来るときは、またルーエで聞けば分かりますか。竜のいる新しい村、と言って教わったんですが、今朝はそちらにおられたもので」
村長が俺を見上げ、リュストもこちらへ顔を向けた。
俺は首を起こした。
『俺は飛び回るからな。目印にするなら、この土地の方がいいと思う』
「この森の向こう、と話しても、初めての者には分かりにくいね。家まで出来たんだし、呼び名があってもいいんじゃないかい」
イーゼは買った布を畳みながら言った。リュストの妻も頷き、家のそばにいる子供へ目を向けている。
「帰るところを、人に説明できる方がいいわね。いつまでも、森の中の仮住まいというのも」
彼女の声に、リュストは作業で汚れた自分の手を見た。
昨日まで、雨を防ぐ屋根を掛けようとしていた。その屋根の下で一晩眠ったら、今度はそこを何と呼ぶか考えている。
「ヴァル、何か名前を考えてくれないか。お前が見つけてくれた場所だが、俺たちも、ここで暮らすつもりで家を作ってる。呼び名まで借り物のままにはしたくないんだ」
俺は家と、材料の積まれた空き地を見渡した。
生まれたときから国を作りたかったわけではない。黒パンを分けてくれた少女がいて、その子の暮らす村を放っておけなかった。戦いの中で出会った者たちにも、戻れる場所があってほしいと思った。
その者たちが、今はここへ家を建てている。
竜の名を入れたら、俺の土地だと聞こえるだろうか。少し考えたところで、イーゼが笑って声を掛けた。
「難しく考えなくても、気に入らなければそう言うよ。まず聞かせておくれ」
俺も口元を緩め、ひとつ思いついた響きを口にした。
『ドラゴニア、というのはどうだろう。竜を思わせる名前になるが』
行商人が手を止めた横で、リュストの妻が小さく繰り返す。子供も真似をして、途中で舌をもつれさせた。
リュストは家の方を振り返り、それから俺へ顔を戻した。
「俺は、覚えやすくていいと思う。ここへ来る前から、竜に助けられた者が住むところだと言っていたしな。聞いた者にも分かるだろう」
「私も、それなら言えるわ。どこに住んでいるのか聞かれたら、ドラゴニアだって」
イーゼも頷き、近くにいた者たちへ呼び掛けた。荷を運んでいた男は、名前を聞いてから、少し離れた仮小屋の方へ伝えに行く。
そこからも同じ響きが返ってきた。
村長は俺の顔ではなく、人々の方を見ていた。やがて荷台へ手を置き、行商人に話しかける。
「そう決まるなら、次からはその名で聞いてくれ。ルーエとは別の場所だ。道は今日通ったとおりだから、分かるな」
「ええ、覚えました。ドラゴニア、と」
行商人が板の空いていた場所へ文字を記した。
俺には、それが読めた。
声にしてみたときより、書かれたものを見る方が、妙に落ち着かなかった。俺がつけた言葉が、次にこの人間が荷を届ける先になる。
村長は荷車から下ろした包みを確かめ、こちらへ付け加えた。
「館へ次の便を出すときにも、呼び名は伝えておこう。土地の扱いまで変わる話じゃないが、来る者が迷わん方がいい」
『頼む。俺も、人に話すときは、そう呼ぶことにする』
人々が暮らし始めたこの場所に名前が付いたからといって、領主から使用を認められた土地が、別の国になるわけではなかった。
それでも、空き地を指して説明する代わりに呼べる名ができた。リュストの妻は家へ戻り、子供へ向かって、もう一度その名を言っていた。
◇
行商人が出発する支度を始めると、リュストが切れ端の板を一枚持ってきた。
片面を削って平らにし、炭を添えて村長へ差し出す。
「入口にも置いておきたいんです。書いてもらえますか」
「俺の字でよければな。お前の家の戸より先に、看板が出来るぞ」
村長は笑いながら炭を取り、板へ文字を書いた。
読める者が少なくても、形を見せて覚えてもらうことはできる。俺が近くから覗き込むと、村長は書き終わった板を持ち上げた。
「これで、荷を届ける先を間違えられずに済むな」
板は道の入口近くの、低い杭へ結びつけられた。行商人はそこを通るとき、一度だけ荷車を止め、手元の板と見比べている。
見送っていた子供が、その文字を指でなぞるようにして、口を動かした。
俺はその邪魔にならないよう、首を少し引いた。
『村長。リナに、今夜はこっちで休むと伝えてくれないか』
「分かった。こっちの名前も、一緒に教えておく」
村長たちがルーエへ戻ったあと、リュストはさっそく戸へ金具を取りつけ始めた。開け閉めを確かめ終えると、今度は隣の仮小屋へ道具を運んでいく。今日はそちらの雨が入るところを塞ぐと、住んでいる者たちに声を掛けていた。イーゼは買った布を膝へ広げ、子供の服へ当てる大きさを確かめている。
俺も空き地を離れ、自分の飯を捕りに森の外側へ向かった。夕方までには戻れるところで狩りを済ませ、風を受けている間も、杭へ結ばれた板を思い出していた。
戻ってくると、家の戸が閉まっていた。
その前で立ち止まると、内側から声がして、ゆっくり戸が開く。顔を出した子供は俺を見上げ、少し胸を張ってみせた。
新しい戸を、自分で開けられるようになったらしい。
『帰ってきたぞ。今日は、迷わず着けた』
俺が入口の看板へ首を向けると、子供は笑い、もう覚えたばかりの名を口にした。




