第103話 鎧熊を、前脚一本で
ドラゴニアと書かれた板は、朝になっても道の入口に掛かっていた。
目を覚まして首を起こすと、家の戸が開き、リュストの妻が桶を持って出てくる。こちらに気づいて挨拶をしたあと、彼女は入口の板へ目を向けた。
「名前を聞いてから、ここへ来る人もいるのかしらね」
『昨日の行商人が、誰かに話してくれるかもしれないな。荷を届ける先は、もう覚えてくれたようだし』
俺が答えると、彼女は少し笑って水を汲みに行った。
俺の寝場所は、家々から離れた空き地だった。翼を伸ばし、尾を動かしても物に当たらないようにしてある。まだ屋根はないが、雨が強くなればルーエの寝床へ戻ることもできる。
目の前では、人間たちが自分の家を作っていた。
リュストは朝飯のあとから隣の仮小屋へ行き、足す板の長さを測っている。イーゼは家の脇に広げた土を握り、指で崩していた。畑にする場所を、少しずつ確かめているらしい。
『その辺りは、何を植えるつもりなんだ』
「まずは、残してきた豆を蒔けるところを作るよ。木の根があるから、いっぺんには広げられないけどね。煮炊きに使う草も、家の近くに欲しいんだ」
彼女は掌の土を落とし、少し離れた切り株へ目を向けた。
「そっちは、今日すぐ抜かなくてもいい。根のないところから始めるから。あんたが引いたあとに大きな穴が出来ると、埋めるのも仕事になる」
『それなら、掘る場所が決まってから呼んでくれ。俺が勝手に抜くのは、やめておく』
俺も切り株へ目をやった。
力を使えば動かせるものでも、動かしたあとをどうするかは、人間の方がよく分かっている。昨日の荷車も、俺が持ち上げる必要はなかった。
イーゼが土へ短い棒を挿していると、森の方で鳥が飛び立った。
羽音が幾つも重なり、その下から、乾いた枝の折れる音が届く。
俺は顔を上げた。
材料を拾いに森の縁へ出ていた男たちも、同じ方を見ている。一人が手にした枝を下ろし、木々の間へ目を凝らした。
風に、獣の匂いが混じっていた。
人の汗や、朝飯の煙とは違う。重い土の匂いと、毛皮に染みついた脂のような匂いが、こちらへ近づいてくる。
『森の前にいる者は戻れ。何か来る』
声を掛けながら、俺は身体を起こした。
立ち上がった拍子に地面が揺れ、足元の小石が転がる。リュストが仮小屋の脇から顔を出し、俺の見ている方へ視線を向けた。
木々の間で、黒い塊が動いた。
盛り上がった肩と、岩を重ねたような背中。朝の光を受けた毛の間に、硬い板が幾つも並んでいる。
鎧熊だった。
男の一人が息を呑み、下がる足を止めかけた。隣の男がその腕を引き、二人とも森へ背を向けず、空き地の方へ戻ってくる。
俺は前へ進んだ。
家へ戻れと叫ぶリュストの声が、背後で聞こえた。イーゼも地面に置いた物を拾わず、子供のいる方へ走っている。
鎧熊は木の陰から出たところで、人間の動きを追って顔を上げた。
俺の身体の大半は、まだ木々の向こうに隠れていた。熊からは逃げる男たちと、その後ろへ下りてきた俺の脚が見えたのだろう。
低い咆哮を上げ、地面を蹴った。
人間なら、あの勢いでぶつかられただけで倒れる。斧を振り下ろしても、背中の板へ当たれば刃が欠けるかもしれない。
だが、今の俺には、その動きがはっきり見えていた。
男たちとの間へ一歩出ると、鎧熊は立ち上がり、爪を振り上げた。
俺は前脚を下ろした。
肩口を地面へ押しつけると、熊の身体が横へ崩れる。振り上げた爪が鱗へ擦れたが、傷はつかなかった。押さえられた身体を引き抜こうとしても、土を掻く後ろ脚が空回りするだけだった。
首を下ろし、噛みつく場所を確かめる。
硬い背の板を避けて顎を閉じると、抵抗は長く続かなかった。
動かなくなった身体を押さえたまま、俺は森の奥へ目を向けた。仲間が続いてくる様子はない。耳へ届くのは、自分の足元で土が崩れる音と、離れたところで鳴く鳥の声だった。
俺は熊から前脚を離した。
『今は、ほかにいない。森の前へは出ず、そのまま待っていてくれ』
そう伝え、もう少しだけ周りを確かめた。
大きく曲がった草と、地面へ残る足跡が森へ続いている。見える範囲には、別の影もなかった。
振り返ると、人間たちは家のそばに集まっていた。手に斧を持ったリュストが、俺と足元の熊を交互に見ている。
「もう、倒したのか。今、こっちへ出てきたところだったろう」
『家のそばで暴れられる前に、止められた。怪我をした者はいるか』
「いない。森へ出ていた二人も戻った。子供も、みんなこっちにいる」
俺は頷き、ようやく肩の力を抜いた。
熊が弱かったわけではない。
あの爪は人間の身体を傷つけるし、俺が小さかった頃なら、正面から受け止めるのは危なかっただろう。今は前脚を一本使えば、動きを止められた。
家の戸口から、子供が顔を出した。母親に肩を押さえられ、そこで立ち止まっている。
俺は熊をくわえ、家々から離れた場所へ運んだ。
◇
熊を下ろした頃、リュストが水の入った桶を持ってきた。
その後ろには、イーゼと男たちもいる。俺が森の方を見たままでいたせいか、近づいていいものか迷っていたらしい。
『この辺りは大丈夫だ。熊は動かないが、爪には気をつけてくれ』
俺が声を掛けると、リュストは桶を置いた。
「前脚を見せてくれ。爪が当たったように見えたが、傷にはなっていないか」
俺はさっき熊を押さえた方の脚を、ゆっくり前へ出した。
泥のついた鱗へ、彼が水を掛ける。土が流れ落ちたあとも、鱗の並びは変わっていなかった。
『擦れただけだ。痛みもない。水を持ってきてくれて助かった』
「こっちから見ると、どこへ当たったのかも分からなくてな。お前が平気だと言っても、一度は見ておきたかった」
彼は空になった桶を持ち上げ、そこでようやく熊へ顔を向けた。
横たわった身体は、人間が何人も並べそうな大きさだった。背中に重なった硬い板には古い傷があり、毛の下へ土がこびりついている。
森から戻った男が、その板へ恐る恐る手を置いた。
「斧じゃ、止められなかったな。俺たちだけで向かっていたら、どうなったか」
『戻ってきてくれたから、俺も前へ出られた。木の間で人間と混ざっていたら、もう少し面倒だったと思う』
男は自分の手を見てから、頷いた。
リュストが持っていた斧も、熊へ届く前に下ろされている。家のそばには、逃げ込める場所が出来ていた。みんなが同じ方へ走り出さなかったことも、ありがたかった。
イーゼは俺の脚から目を離し、熊の腹へ視線を移した。
「肉は食べられそうかい。食べるなら、先にあんたの分を取っておくれ。残りは、こっちで何とかするよ」
『俺は食える。ただ、これ全部を人間の食事にするのは、多すぎるだろうな』
「塩を買ったばかりだけど、熊一頭を漬けるほどはないからね。今日の鍋と、干せる分があれば十分だよ」
彼女は近くの男と話し、肉を分けるための刃物や敷く物を取りに戻った。
俺は身体を開くところだけ手伝い、食べる分を人間たちの作業場から離してもらった。皮を無駄に傷つけない場所は、慣れた者に教わる。
前脚で押さえる力と、皮を剥ぐために刃を進める力は違う。俺が爪先で何でもしようとするより、人間の手へ任せた方が、ずっときれいに進んだ。
肉を食べている間にも、彼らは背の板がどう付いているかを確かめていた。リュストは板の端を見つめ、道具を当てると、思ったより硬かったらしく手を止める。
「こんなものが背中に並んでいたら、逃げるしかないわけだ」
彼は刃を置き直し、少し離れた俺を見た。
俺は口の中の肉を飲み込んでから、その視線へ首を傾けた。
『俺の鱗で、試してみようとは思わないでくれよ』
「そこまで度胸はない。お前の方が硬いのは、見て分かったからな」
近くにいた男が笑い、イーゼもようやく表情を緩めた。
朝から張っていた空気が、少しずつ戻っていった。
◇
俺は食事のあと、森の上へ一度出た。
熊の通ってきた方へ大きく回り、開けた土地へ続く沢や獣道を見る。森の中をすべて見通せるわけではないが、群れで何かが移動している様子はなかった。
飛びながら、自分が通ってきた道も確かめた。
ここは、人間が住む前から獣のいる森だった。俺が空き地へ下りたからといって、周りの獣がみんな別の場所へ行くわけでもない。
それでも、あの家へ近づいて人を襲おうとしたものは止める。
俺は森から離れ、いったんルーエへ向かった。
畑の外へ下りると、見かけた男が村長を呼びに行ってくれた。村長は土のついた手を拭きながら出てきて、俺の口元へ目を向ける。
「何か食ってきた顔だな。向こうは、どうした」
『鎧熊が一頭出た。倒したから怪我人はいない。肉を分けているんだが、皮の扱いを知っている者に、手を貸してもらえないか』
村長の表情が変わった。
俺が場所と人々の様子を話す間、余計な口を挟まずに聞き終える。それから村の方へ顔を向けた。
「手を離せる者に聞いてみる。皮は悪くなる前に始末したいな。運ぶ荷があるなら、荷車も出した方がいいだろう」
『分ける肉は残してある。来てもらう分の礼も、向こうで相談すると言っていた』
「それなら、その話は本人たちにさせよう。お前は飯を食ったのか」
『先に食べさせてもらった。しばらくは、腹も落ち着いていそうだ』
村長は頷き、俺の脚と胸を見た。
「お前の方も、怪我はなさそうだな。少し待っていれば、来られる者が分かる」
声を聞きつけてきたリナも、俺のそばへ来た。熊を倒したと聞いたらしく、最初に前脚を見て、それから俺の顔を見上げる。
「向こうの子も、怪我はしてない?」
『家の中へ入っていた。俺が熊をどけるまで、出てこなかったよ』
リナは息を吐き、俺の脚へ触れた。
ルーエの人間にとって、森の魔獣は珍しい話ではない。それでも、出たと聞くだけで、誰がどこにいたかを気にしてくれる。
俺は少し首を下げ、村長が戻るのを待った。
◇
ルーエからは、手を貸せる者たちが荷車で向かうことになった。俺は森の上から道の先を確かめ、荷車が開けた土地へ出たのを見届けてから下りた。空き地へ戻った頃には、陽が傾き始めていた。
皮の扱いを知る男は、敷かれた毛皮を見ると、刃物を持つ場所から教え始めた。こちらにいた者たちも手を止めず、説明を聞きながら自分の手を動かしている。
熊の身体は、もう朝の形では残っていなかった。
鍋には肉が入り、細く切られた分は干す支度が進んでいる。俺が食べた分もあるので、全部を急いで保存しなければならない量ではなかった。
イーゼは鍋のそばへ戻り、湯の中を木匙でかき回した。
「煮てみたら、いい匂いになったよ。あんたも、味を見るくらいは食べられるかい」
『それくらいなら、ぜひ頼む。朝とは別の食い物になっていそうだ』
彼女が用意してくれた肉を口へ入れると、柔らかい脂と、煮込んだ草の香りが広がった。朝に食べたものと同じ熊なのに、口に残る味が違う。
俺が礼を言うと、彼女は自分の器にも肉をよそい、近くの人間へ渡し始めた。
家のそばでは、リュストが子供の手を拭いていた。森へ出ていた二人も椀を受け取り、朝のことを、手を動かしながらルーエの者へ話している。
笑い声が聞こえたところで、俺は入口の板へ目を向けた。
朝の騒ぎでも、あの板は落ちていなかった。
板は朝のまま、杭へ結ばれている。風が通ると少し揺れ、その下を、器を持った子供が母親と並んで歩いていた。
俺は身体を横へずらし、二人の通る幅を空けた。
子供が手元の肉を見せてきたので、俺も食事をもらった方へ首を向ける。
『俺も食べた。煮た方は、朝よりうまかったぞ』
子供は笑い、器を落とさないよう抱え直して、家の前へ戻っていった。




