第104話 空から来た、もう一頭
朝の森には、昨夜の火の匂いがまだ残っていた。
俺が首を起こしたとき、リュストは家の前で鎧熊の皮を見ていた。ルーエから来た男に教わったとおり、肉の残ったところを削り、広げたままにせず、次の始末へ取り掛かっている。
家の脇では、イーゼが干した肉の様子を確かめていた。熊が出る前に挿していた棒も、そのまま土に残っている。
『今日は、少し東へ行ってくる。昼を過ぎるまでには戻るつもりだ』
「分かった。こっちは皮の始末を済ませてから、家の仕事へ戻るよ。森へ入る者にも、お前が出かけると伝えておく」
リュストは刃物を置いて答えた。昨日の熊を見たせいか、森へ目を向ける仕草は、まだ少し硬い。
俺は皆が家の近くにいるのを確かめ、空き地の端から飛び立った。家々へ風を当てないように上がると、屋根の向こうへ、名を付けたばかりの土地が小さくなっていった。
森を東へ進みながら、沢と、その周りの開けた場所を見る。
熊の足跡を追うためではない。自分で食べる獲物を探すのと、しばらく顔を見ていない相手が、この辺りへ出てきていないかと思ったからだった。
川へ近づいたところで、木々の上に翼が見えた。
大きく旋回する影は、片方の翼の端が欠けている。俺が高度を下げると、向こうも身体を傾け、こちらへ頭を向けた。首から胸へ走る古傷が、朝の光を受けて白く浮かぶ。
『ガル。こっちへ来ていたのか』
呼び掛けながら、敵意がないことを《魔獣感応》へ乗せる。
返ってきた感覚は警戒ではなく、見知った相手を見つけたときの、落ち着いたものだった。ガルは川沿いの岩へ下り、俺が近くの広い河原へ着地するのを見ていた。
後ろ脚に、獲物をつかんでいる。
猪だった。もう動いておらず、首の辺りに噛み跡がある。ガルは岩へ置き直すと、まず俺の方を見て、それから肉へ口を寄せた。
食べているところへ近づきすぎないよう、俺は水際で足を止めた。
少し上流には鹿が残した足跡があり、対岸の草が揺れている。そちらへ目を向けると、ガルも頭を上げたが、俺を追って飛び立つことはなかった。
俺は川の曲がりを越え、森の切れたところで鹿を一頭仕留めた。
戻ると、ガルはまだ岩の上にいた。猪を半分ほど食べ、翼の内側へ顔を入れている。俺も鹿を河原へ下ろし、腹が落ち着く分だけ食べた。
以前、一緒に魚を食べたときより、互いの間は狭かった。それでも、相手の獲物へ口を出すようなことはない。
食事を終え、川で口元を洗ってから、俺は残った鹿をくわえた。ドラゴニアには昨日の熊の肉があるが、俺があとで食べる分は、自分で持ち帰っておけばいい。
空へ上がると、背後で大きな羽音がした。
ガルも残りの猪をつかみ、飛んできていた。
俺の横へ並ぶほど近くはないが、向かう先は同じだった。森の上をしばらく進んでも離れず、こちらが速さを落とすと、ガルも翼を広げて滑り始める。
何かを伝えたいのかと感応を向けてみたが、細かな理由までは分からなかった。不安や切迫したものはなく、俺へ向ける親しみが感じられる。
俺は一度、前を向いた。
このままなら、家々の上へ出る。
鹿をくわえたままでは声も出せないので、開けた斜面へ下りた。ガルも少し離れた場所へ着き、猪を下ろして俺を見る。
『この先には、人間が住んでいる。俺はあそこへ帰るところだ』
口に出してから、人間を襲わないでほしいという意思を送った。
言葉どおりに伝わったとは思わない。ただ、俺が守ろうとしている相手へ危害を加えないでほしいという感覚に、強い反発は返ってこなかった。
俺はまた鹿をくわえ、先に飛び立った。
ガルは少し待ってから、同じ方へ上がってきた。
◇
家々へ近づく前に、俺は高度を下げた。
道の入口から離れた草地へ鹿を置き、ガルが森の外側を回っている間に、空き地へ顔を出す。
『東で、知り合いのワイバーンに会った。俺について来ているから、先に知らせておく』
桶を持っていたリュストが、俺の背後を見上げた。
ちょうど木々の向こうを翼が横切ったところだった。桶の縁を握る手に力が入り、家のそばで板を運んでいた男も足を止める。
「昨日の熊に続いて、今度はワイバーンか。お前の知り合いなら、こちらを襲う気はないんだな」
『今は敵意を感じない。だが、人間に慣れているわけでもないから、近づかずに見ていてくれ。俺が先に向こうへ行く』
リュストはすぐに家の方へ声を掛けた。
外にいた子供たちを母親が呼び寄せ、男たちは持っていた物を下ろす。イーゼも鍋のそばから離れ、飛んでいる影を見上げていた。
ガルは俺のいる空き地へは下りず、鹿を置いた草地の上で一度旋回した。
俺がそこへ戻ると、ようやく翼を畳み、猪をつかんだ脚を地面へ下ろす。草が大きく伏せ、砂が低く舞った。
すぐ近くに家がなくてよかった。
俺には何でもない着地でも、人間のそばでやれば、干してある肉や火の粉まで飛ばしてしまう。
ガルは首を上げ、こちらを見ている人間たちへ顔を向けた。
家の前で、小さな子が母親の服をつかむ。イーゼが落としかけた木蓋を抱え直した音に、ガルの頭もそちらへ動いた。
俺は、人間たちとガルの間へ身体を寄せた。
『あそこにいる連中は、俺と一緒に暮らしている。獲物じゃないぞ』
落ち着いてほしいという感覚を、ゆっくり伝える。
ガルは俺を見返し、しばらくして首を下げた。警戒が消えたわけではないが、すぐ飛び立ったり、前へ踏み込んだりする様子はなかった。
リュストが、家のそばから声を掛けてきた。
「そいつは、軍が連れていた魔獣とは違うんだな。背中にも、何も載せていないが」
『ああ。東の山に自分の群れがいる。俺が呼び寄せて飼っているわけじゃない。今日は川で会って、一緒にこちらへ飛んできた』
話しながら、俺はガルへも目を配っていた。
人間に説明している間、ガルが大人しく待ってくれると決まったわけではない。だが、彼は俺の声を聞き、家の方を確かめると、足元の猪へ口を寄せた。
その姿を見て、リュストの肩が少し下がった。
「少なくとも、腹をすかせて俺たちを探しに来たんじゃないらしいな」
『猪は、こっちへ来る前から持っていた。俺も鹿を食べてきたところだ』
「なら、俺たちも昼飯の支度へ戻るか。見ているだけでは、鍋が空のままだ」
そう言ったのはイーゼだった。
それでも彼女は、すぐには背を向けなかった。ガルが猪を押さえて食べ始めるのを見届け、それから鍋の方へ戻っていく。
ほかの者たちも、少しずつ手元の仕事を再開した。
◇
ガルが食べている間、俺は鹿の残りを自分の寝場所へ運んだ。
家々から離れたところで食べるつもりだったが、地面へ直接置くのも具合が悪い。リュストが声を掛け、板を何枚か並べてくれた。
「これなら、泥まみれにはならないだろう。お前の食事まで、俺たちの家のそばへ運ばなくていいからな」
『助かる。昨日は、解体する場所まで借りたからな』
「それはお互い様だ。あの皮を無駄にしないで済めば、こっちにも残る物がある」
彼は熊の皮を置いた方へ顔を向けたあと、ガルを振り返った。
「俺たちが食べるところを、あいつも見ているのか」
つられて目を向けると、ガルは猪から口を離していた。人間の動きを追っているが、こちらへ近づこうとはしていない。
家のそばからは、温めた肉と草の匂いが流れてきていた。
『匂いが気になるのかもしれない。俺も、人間が何か煮ていると、つい見てしまう』
「それは、お前なら知ってるよ」
リュストが笑った。
彼はそれ以上近づこうとはせず、家へ戻っていった。ガルも視線を追っただけで、食べかけの猪へ顔を戻す。
俺は草地へ戻り、少し離れたところで横になった。
人間たちの鍋へガルを連れていくつもりはなかったし、無理に仲良くさせたいわけでもない。互いに何をする相手か分からないまま、近くへ寄せる方が危ない。
それでも、家の前で食事を始めた者たちが、ときどきこちらへ目を向ける。その視線には、さっきとは違うものも混じっていた。
リュストの子が、父親へ何か話している。
彼がこちらを指して答えると、子供はガルの翼を見たまま、自分の肘を動かした。父親に腕を押さえられ、器を持ち直している。
俺は声を掛けた。
『翼を振りたいなら、器を置いてからにした方がいい。俺も肉をくわえているときは、喋れないからな』
子供は父親を見上げ、それから器を膝へ下ろした。
両腕を広げたところで、ガルもたまたま片方の翼を伸ばした。大きな影が草の上へ広がり、子供の腕が途中で止まる。
リュストが、その小さな背中へ手を添えた。
「お前の腕じゃ、あそこまでは広がらんぞ。飯を食べ終わったら、向こうの広いところでやろう」
母親も笑い、子供はもう一度ガルを見てから、器の中へ目を戻した。
俺は自分の畳んだ翼を確かめた。子供の目から見れば、俺もこうして、家よりずっと広い影を落としているのだろう。
ガルは食事を終えると、脚で口元を拭い、しばらく首の辺りを掻いていた。
傷のある首が動き、欠けた翼の端が草に触れる。以前からある傷だが、それでも、うまく飛び、獲物を捕らえている。
こちらへ送られてくる感覚も落ち着いていた。
俺も目を細め、森を通る風に鼻先を向けた。
昼の間だけ、二頭分の影が草地に並んでいた。
◇
陽が西へ回り始めた頃、ガルが身体を起こした。
残っていた猪をつかみ直し、東へ首を向ける。俺へ一度顔を寄せてから、翼をゆっくり広げた。
帰るのだろう。
俺も立ち上がり、家の方へ声を掛けた。
『ガルが飛び立つ。こっちへは来なくていいから、風で飛びそうな物だけ押さえてくれ』
イーゼが布へ手を載せ、リュストは子供を家の壁際へ寄せた。俺はガルと並んで草地の先へ進み、空へ上がる場所を空ける。
ガルが脚で地面を蹴ると、草が伏せ、翼の風が背中を撫でた。
俺も続いて飛び立ち、森の上まで一緒に上がった。
東へ向かうガルの横を、少しの間だけ飛ぶ。
谷の方へ遠く翼が見えたところで、ガルが低く鳴いた。自分の群れのものかもしれないが、俺にはそこまで分からなかった。
俺が速度を落とすと、彼も一度こちらを振り向いた。
『俺は戻る。また、川で会ったら一緒に食おう』
声とともに、親しみを送る。
ガルから短い鳴き声が返った。翼が一度大きく打たれ、猪を運ぶ影が、東の森へ向かって離れていく。
俺はそれを見送り、家々のある方へ身体を傾けた。
戻った草地には、大きな足跡が残っていた。
リュストの子が父親と並び、離れたところからその窪みを覗き込んでいる。俺が下りると、子供は自分の足を持ち上げ、窪みと見比べた。
「ヴァル、あのワイバーンは、また来るのか」
尋ねたのはリュストだった。
俺は東の空へ顔を向け、それから彼を見た。
『分からない。俺が呼んで待たせているわけじゃないからな。来そうなときに気づいたら、今日みたいに先に知らせるよ』
「それなら助かる。屋根へ突然影が差したときは、さすがに肝が冷えた」
彼の隣で、子供が地面へしゃがんだ。
ガルの残した足跡の手前に、小さな指を立てて何か描き始める。背中に翼のあるものを描こうとしているらしいが、首が長すぎて、途中で父親に笑われていた。
俺は自分の寝場所へ戻り、板の上に置いた鹿へ首を下ろした。
まだ少し腹に入る。肉を口へ運んでいると、遠くから、子供に呼ばれた。
「ヴァル、こっちも見て。お前も描いた」
顔を上げると、ガルの足跡のそばへ、もう一頭、翼のあるものが増えていた。
俺は肉を飲み込み、土の絵を覗き込めるところまで、ゆっくり首を伸ばした。
『俺の尾は、そいつより長いぞ。そこまで描くなら、もう少し場所を空けてくれ』
子供が場所を譲り、リュストが小枝を渡した。
俺が鼻先で示した方へ線が延びていく。家の前の土には、二頭分の尾を収めるために、思ったより広い場所が必要になった。




