第98話 最初の家族が、荷を下ろした
荷車は、森へ入る手前で止まった。
御者が馬を宥めながら、前方の道と車輪を見比べている。枝を払って人が歩けるようにはしたが、仮小屋へ向かう道には、まだ根の張り出したところが残っていた。
俺は少し離れた場所から、それを見ていた。
馬の耳がこちらを向くたびに、近づくのをやめる。荷台に座っていた子供が布の隙間から顔を出し、俺を見つけて、隣の女の腕を掴んだ。
「リュスト、ここから歩くんでしょう。先に子供を下ろしてもらえる?」
「今、行く。荷はあとで運ぶから、そのまま置いておいてくれ」
呼ばれた大工の男が、道の脇から戻ってきた。
セドルで初めて会った時も、土地を見に来た時も、木槌を持っていた男だ。作業中は名前を知らなくても誰のことか分かったが、家族の呼ぶ声を聞くと、ようやく俺の中で顔と名が繋がった。
リュストは子供へ両腕を伸ばし、荷台から抱き下ろした。続いて妻が降りると、積まれた荷物を御者と確かめ始める。
『重いものは、そちらへまとめてくれ。馬を離してもらってから、俺が運ぶ』
「助かります。まずは、あの箱をお願いします。食料が入っているので、傾けずに持てるとありがたいのですが」
爪で摘まむには、少し扱いにくそうな箱だった。
俺が眺めていると、リュストは荷の下から丈夫な敷物を引き出した。その上へ箱を載せ、端を寄せて縄を掛けている。
「口で持つ方が楽でしょう。箱へ直接、牙を当てずに済みます」
『それなら運べる。結んだところが緩まないか、先に確かめてくれ』
御者と二人で縄を引き、箱を少し浮かせる。
その間に妻が子供を連れ、俺の通る場所から離れていった。見えなくなるほど遠くへは行かず、道案内に来た男の傍で待っている。
俺は馬の気配を確かめてから、荷へ近づいた。
今日来たのは、ここで暮らし始める最初の家族たちだった。
◇
最初の屋根の下で眠ってから、六日が過ぎていた。
仮小屋の脇には、壁を付けた小さな小屋が増え、寝る場所と道具を置く場所を分けられるようになった。雨の吹き込む側を塞ぎ、地面から湿気が上がりにくいよう、寝床も少し高くしている。
家族ごとの家は、まだこれからだ。
それでも、来てもらう者たちには、今ある屋根や寝床の様子を先に伝えていた。すぐに移らず、セドルで待つことにした家族もいる。
皆が同じ日に来なければならないわけではなかった。
俺も、この六日間ずっと現地へ張りついていたのではない。ルーエへ戻って村長に様子を伝え、自分の食事を探し、頼まれた材を運ぶために行き来していた。
今日は、家族が来ると聞いて、朝から道の近くで待っていたのだ。
荷を咥えて仮小屋の前へ着くと、先に歩いてきた者たちが、箱を置く場所を空けていた。
女の一人が、地面へ板を並べている。
種豆を残していた女だった。額にかかった髪を腕で払い、こちらへ顔を上げる。
「ここへお願いします。食べ物は、ひとまず全部こちらへ寄せますから」
俺は腹を低くし、箱が板へ触れるまで首を下げた。縄を離すと、彼女がすぐに結び目を緩め始める。
「イーゼさん、そちらは濡れていないか見ておいてくれ。もう一つ、道に残してきた袋がある」
後ろから来た男に呼ばれ、彼女は返事をした。
箱の蓋を開け、袋の口へ手を当てている。その顔を見て、俺は以前、畑にできそうな土を掌で崩していた時のことを思い出した。
今日は、土より先に、運ばれてきた食料を確かめている。
『まだ運ぶものがあるなら、戻ってくる。道を歩いている連中と行き違うから、俺が通る間だけ、狭いところで待ってもらってくれ』
「入口の方へ声を掛けておきます。箱の中は大丈夫でした。ありがとうございます」
イーゼの返事を聞いて、俺は荷車の方へ戻った。
飛べばすぐだったが、木々の間で荷を下げ直すより、同じ道を歩く方が置く場所まで運びやすい。人間の足に合わせた道を、大きな身体で通れるところだけ選びながら進んでいった。
◇
荷物は、思ったより小さくまとまっていた。
鍋や器を布で包んだもの。衣服を詰めた袋。擦り減った柄の付いた農具。箱の隙間には、折れないように紐で束ねた細い棒まで差し込まれている。
リュストの荷を運び終えるころには、妻が寝床の脇へ布を敷き、持ってきたものを一つずつ並べていた。
子供は入口に座り、手にした木片で地面を擦っている。
俺が近づくと、その手が止まった。妻は子供を無理に立たせず、俺へ顔を向けた。
「運んでいただいて、ありがとうございます。この箱だけでも、二人で何度か休まないと持ってこられませんでした」
『どういたしまして。道が広がれば荷車も入れるだろうが、今日は間に合わなかったからな』
「歩くところには、目印を付けてもらっていましたから。子供にも、当分は道から外れないよう言っておきます」
彼女がそう言うと、子供は地面の木片を拾い、膝へ載せた。
俺の顔から脚へ目を動かし、その大きさを確かめるように見ている。怖がっているのは分かったので、首を伸ばさず、同じ場所で待った。
リュストが戻ってきたのは、その時だった。
手に提げた布袋を妻へ渡し、それから小屋を見回す。妻も彼の視線を追い、柱へ掌を当てた。
「これを、立てたのね」
「ああ。隣の長い木は、ヴァル殿に上げてもらった。俺たちだけなら、もう少し短い材で繋ぐところだった」
妻が梁を見上げた。
子供も釣られて顔を上げ、今度は俺を見る。何か言いかけたが、声にはならず、父親の脚へ身を寄せた。
リュストは子供の頭へ手を置き、妻へ話を続けた。
「家の方は、もう少しかかる。今はこっちで寝てもらうことになるが、奥へ荷を置けば、足を伸ばす場所は取れる」
「分かったわ。明るいうちに、どこへ何を仕舞うか決めてしまいましょう。夜に鍋を蹴ったら、皆を起こしてしまうから」
彼女は布袋の口を開き、鍋を両手で持ち上げた。
誰かに渡されるのを待っている様子はなかった。自分たちの荷を、自分たちが暮らしやすいように置き始める。
俺は小屋の入口から身体を離した。
そこへ別の家族が着き、挨拶を交わす。いつまでも顔を寄せていたら、荷を持った者が通れない。
空いていると思っていた入口が、急に忙しい場所になっていた。
◇
荷車は、日が傾く前に帰っていった。
運ぶものがなくなったことを御者と確かめ、リュストたちが道の分かれ目まで見送った。俺は馬を驚かせないよう離れた場所で待ち、その後ろ姿が見えなくなってから、小屋へ戻った。
火の傍では、早くも食事の支度が始まっていた。
これまでは、働く大人が食べる分を作っていた場所だ。今日は、抱いていた子供を隣の者へ預ける女がいて、器の数を確かめる者がいる。
イーゼが鍋を覗き、柄の長い匙で底を混ぜた。
「小さい子の分は、先に取って冷ましておきましょう。大人の分を盛ってからだと、食べるのが遅くなりますから」
その脇で、リュストの妻が持ってきた鍋へ水を注いでいる。
薪を取りに立った若者は、すぐ近くにいる俺を見て足を止めた。
「ヴァル殿の寝るところへ置いてある枝も、使ってよいのですか。あれなら、火へ入る長さに揃っているので」
『使ってくれ。俺は身体へ刺さるものを脇へ寄せただけだ。あの山を残しておいてほしいわけじゃない』
若者が枝を拾っていく。
その向こうでは、杖の男が子供たちへ、まだ歩かない方がよい場所を教えていた。根を抜いた跡には土を戻してあるが、踏むと足を取られるところが残っている。
俺も一緒に見ていたが、子供たちは俺の方へ気を取られていた。
男はそれに気づくと、まず地面を杖で示してから、ゆっくり話した。
「竜を見上げたまま歩くと、ここへ落ちるぞ。顔を見る時は、足を止めてからにしなさい」
『俺も、近づく時には声を掛ける。皆も、腹や尾の下へは入らないでくれ』
子供たちは顔を見合わせた。
うち一人が、俺の後ろへ伸びる尾を見て、自分の足を一歩引いた。俺がそれ以上動かずにいると、ようやく男の示す地面へ視線を戻す。
慣れるには、時間が掛かるだろう。
大人でも、初めて俺を見る時には身構える。子供だけ、早く傍へ来られるようにする必要はなかった。
俺は小屋から少し離れ、腹を下ろした。
その場所からなら、皆が歩く道を塞がずに済む。前脚へ顎を載せると、煮炊きの匂いが、風に混じって届いてきた。
◇
食事が始まるころには、話し声がずっと増えていた。
先に来て働いていた者が、どこから水を汲んでいるかを教える。今日着いた者は、セドルで残っている家族のことを話す。その間にも、まだ荷を開けきっていない者が、自分の匙を捜していた。
リュストの子供は、両手で器を持ち、母親に冷ましてもらっている。
父親は隣へ腰を下ろしかけたが、寝床の方から妻に呼ばれ、いったん立ち上がった。
「服の袋はこっちへ移しておくわ。枕元へ道具を置かれたら、寝返りも打てないでしょう」
「それは、明日の朝に使うつもりで出しておいたんだが」
「朝に取りに来ればいいのよ。ここには、この子も寝るんだから」
リュストが小さく息を吐き、道具袋を抱えて戻ってきた。
俺の方を見たので、顔を上げる。
『昼のうちに置き場所を決めていても、変わるものなんだな』
「俺一人で使う時とは、違いますからね」
彼は道具を脇へ置き、ようやく器を受け取った。
その横で子供が何かを言い、父親の袖を引いている。小屋の柱を指したあと、俺の方へ目を向けた。
リュストが少しこちらへ身体を寄せる。
「この子が、ヴァル殿も、あそこで寝るのかと」
『あの屋根へ入ったら、皆が外へ出ることになるな。俺は、こっちで眠る』
顎を載せていた前脚を少し動かし、身体の下を示す。
子供は小屋と俺を見比べた。母親の肩の陰から、もう一度、尾まで目で辿っている。
「……寒くない?」
その声は、小さかったが聞こえた。
俺は首を低くしたまま答えた。
『今は平気だ。雨が続く時には、岩の下に寝床もある。ここで眠れない日まで、無理をするつもりはない』
子供は頷き、器へ目を戻した。
自分から話しかけたことに、父親の方が少し驚いていた。だが、リュストは何も言わず、子供の膝から落ちかけたパンを拾ってやった。
俺もそれ以上は近づかず、前脚へ顎を戻す。
鍋を囲む声を聞いているうちに、目を閉じても、誰がどの辺りにいるのか分かるようになってきた。
◇
夜になると、小屋の中はなかなか静かにならなかった。
寝具の位置を直す音がして、誰かが外へ出れば、ほかの者が足を引く。眠りかけた子供が母親を呼び、返事が聞こえると、また声が小さくなった。
森にいる音を聞き分けようとしていた俺は、そのたびに耳を動かした。
最初の晩には、大人たちが疲れて早々に眠っていた。今日は、疲れていても、まだ眠れない者がいるらしかった。
火の傍へ出てきたイーゼが、腕をさすりながら小屋を振り返る。
「明日は、少し遅くまで寝ている子もいそうですね。いつもより歩きましたし、場所も変わりましたから」
『朝から材を落として起こさないようにする。大きな音の出る仕事は、皆が起きてからだな』
「こちらも、鍋をひっくり返さないよう気をつけます。暗いところで、まだ物の場所が分からなくて」
彼女は水の入った器を持ち、小屋へ戻っていった。
入口のところで誰かと小声を交わし、布を持ち上げて中へ入る。その隙間から、寝床の上へ並んだ足が見えた。
俺は、首をゆっくり下ろした。
昼間、荷車から降ろしていたのは、箱や袋だけではなかったのだと、今になって思った。眠る時間も、鍋を置く場所も、誰かを呼ぶ声も、一緒にここへ移ってきた。
明日には、また直したいところが見つかるだろう。
小屋の入口から水場へ向かう道だけでも、朝の混み方は変わるはずだ。だが、それを今、一人で考えて決める必要はなかった。
中から、小さなくしゃみが聞こえた。
続いて母親の声がして、布を引き上げる音がする。
俺は顔を少しだけ森へ向け、人の声を背中で聞きながら、眠りについた。




