第97話 最初の夜は、ここで眠る
根株が持ち上がると、絡みついていた土が、俺の前脚へどさりと落ちた。
脇に積まれた枝の向こうから、男たちが顔を覗かせる。俺は根を噛んだまま首を横へ向け、家を建てる場所から離れたところへ、それを下ろした。
ようやく口を開くと、舌に土の味が残っている。
『これで、柱を立てる場所は空いたか。まだ邪魔な根があれば、先に教えてくれ』
トーヴェンはすぐには近づかず、根株が動かないことを確かめてから、掘り返された地面へ歩いた。隣では、セドルから来た大工の男が、土から突き出た細い根を斧で切っている。
「こちらは空きました。ただ、穴は埋め直して踏み固めます。この上へ、そのまま柱は置けませんので」
『なら、俺が踏まない方がいいな。平らにするつもりで、また穴を増やしそうだ』
「そこは、我々でやります。ヴァル殿には、向こうの材を運んでいただければ」
示された先には、枝を落とした木が横たわっていた。
俺はそちらへ身体を向け、作業している人間の位置を確かめる。尾を振れば届きそうな場所にいた男が、俺の視線に気づいて、持っていた籠を抱え直した。
「こっちは空けます。土を運ぶ場所も、反対へ変えておきましょう」
男が離れるのを待って、ゆっくり歩きだす。
木を一本退けただけなのに、先ほどまで人が立っていた場所へ、もう別の者が縄を張っていた。俺には同じ地面に見えていたところが、少しずつ、使う場所に分かれていく。
◇
館から返事が来たのは、土地を歩いて見てから数日後だった。
領主側から、確かめた範囲を開いて暮らすことが認められた。ただし、近くの村が使っている薪取りの場所や、そこへ通じる道まで塞いでよいという話ではない。
エルマーは現地へ来て、案内をしてくれた男と一緒に、その境を確かめていた。
その間、移りたい家族もそれぞれ話し合ったらしい。
すぐに子供や荷物を全て連れてくるのではなく、まず働ける大人が入り、寝る場所と荷を濡らさずに置ける場所を作る。水を運ぶ道を整えたところで、残っている家族にも来てもらうことになった。
今日集まっているのは、その最初の仕事をする者たちだった。
食料と道具は、セドルから持ち込んでいる。開いた畑で何かが採れるまで待っていたら、家を建てる前に腹が減って動けなくなる。
トーヴェンも、最初の屋根を掛ける仕事に加わってくれた。ルーエで頼まれている修理があるので、毎日こちらへ来るわけにはいかない。それでも、セドルから来た大工と一緒に材を見て、どこへ何を使うかを決めていた。
俺が木を運んで戻ると、二人は長い材の両端へ立っていた。
「この太さなら、こちらへ回した方がよさそうです。あちらは継ぎ足さずに使いたい」
「分かった。では、短く切るのは後だな」
木の上へ縄を当て、長さを見比べている。
俺は邪魔にならないところへ材を置いた。二人とも顔を上げて礼を言ったが、すぐにまた、木の節へ目を戻す。
その様子を見ていると、運び込む方も張り合いがあった。
大きければ何でもよいわけではない。俺が森から運んだものが、どこを支える木になるのか、少しずつ分かってくる。
◇
昼前には、柱を立て始めた。
最初に作るのは、皆で使う仮の小屋だ。家族ごとの家を一度に建てる余裕はないので、先に仕事をする者が泊まり、道具や食料を置ける屋根を用意する。
新しく伐った木を使った簡単な造りで、壁も全部は塞がない。これで長く暮らすのではなく、腰を落ち着けて家を建てるための場所だった。
俺が柱の一本を支えている間に、男たちが周囲へ土と石を入れて固める。
爪を少しずらそうとすると、トーヴェンが手を上げた。
「今の向きで、もう少しお願いします。こちらを決めてから、支えを付けます」
『このままでいい。急がなくていいから、足元だけ気をつけてくれ』
俺の脚の脇で、木槌が鳴った。
柱が傾かないよう見ている男と、土を突き固める男が、短く声を交わす。少し離れたところでは、種豆を残していた女が、持ってきた布を広げていた。
彼女も家族をセドルに残し、今日は仕事をする側に来ている。
畑を作る場所を見て回ったあと、今はほかの女と一緒に、屋根へ掛ける布の傷を繕っていた。糸を引く手を止めずに顔を上げ、こちらへ声を掛ける。
「上で広げてから破れているのが分かると困りますから。そちらが立つまでには済ませます」
俺は頷いてから、柱へ目を戻した。
力を入れているつもりはなくても、注意を外すわけにはいかない。木の重さより、人間が傍で働いていることの方が、ずっと気を遣った。
やがて斜めの支えが据えられ、トーヴェンが柱を押した。
反対側からもう一人が確かめ、二人の目が合う。
「ヴァル殿、手を離していただいて大丈夫です」
言われた通り、少しずつ爪を浮かせた。
柱は動かなかった。
俺が完全に脚を引くと、大工の男がその下へ立ち、自分の肩越しに上を見た。額の汗を腕で拭い、隣の柱まで歩いていく。
「次を繋げられるな。材をこちらへ寄せてくれ」
その声で、待っていた者たちが動きだした。
俺は土の付いた爪を地面へ置き、立ったままの柱をもう一度見上げた。自分には低い屋根になるはずなのに、一本立っただけで、ここへ来た時より広く感じた。
◇
人間たちが昼の食事を取っている間、俺は森の外を回ってきた。
周囲に危ないものがいないかを見て、少し離れたところで、自分の食事になる獣も探す。人間のために運んできた食料を、俺まで一緒になって食べるわけにはいかなかった。
戻るころには、柱の上へ渡す材が並べられている。
俺が持ち帰った獲物を作業場から離して置くと、杖を使っていた男が、腰を上げかけた。
『あんたは座っていてくれ。これは、俺が食べる分だ』
「解体する場所を、こちらで空けておこうと思いましてね。皆が働くすぐ脇では、足元も汚れますから」
男が示したところには、枝を払った低い木と、平たい石があった。
無理に重いものを持たなくても、彼には見えている仕事があるらしい。俺は教えられた場所へ移り、先に腹を満たした。
人間が使える肉は、切り分けてもらって残すことにした。全部を渡すと言う前に、女が俺の腹と獲物を見比べる。
「そちらの分は足りていますか。足りないなら、遠慮して残さなくていいんですよ」
『大丈夫だ。俺はまた自分で獲りに行けるが、今は家を建てる手を減らしたくない。使える分だけ持っていってくれ』
「それなら、ありがたく。ただ、今夜食べる分からですね。保存する場所まで、一度に増やせませんから」
女は必要な分を受け取り、布を掛けた器へ収めた。
何でも持っていくわけではない。そのやり取りが済むと、俺も午後の仕事へ戻った。
長い材を載せる時には、男たちが組んだ足場から声が飛んできた。
俺は首を低くし、噛んで支えていた木を、受ける場所へゆっくり寄せる。片側が収まっても、すぐには離さない。人間たちがもう一方を合わせ、動かないよう留めるまで、そのまま待った。
口を開けてよいと言われた時には、顎が少し疲れていた。
『これは、運んで置くより気を遣うな。噛むところを間違えると、家にする木へ穴を増やしてしまう』
「そこは、あとで見えなくなりますよ」
足場から下りてきたトーヴェンが、木に付いた跡へ手をやった。
「傷が深すぎなければ使えます。何より、人の手だけでは上げるのに手間取る材でしたから」
彼が木を見ている間に、俺も口の中へ残った樹皮を吐き出した。
家を建てる仕事には、いろいろな味がする。
今のところ、土より木の方がまだましだった。
◇
日が傾くころ、最初の屋根が掛かった。
布を張り、雨が溜まらないよう傾きをつける。下には乾いた枝を薄く敷き、その上へ寝具を広げた。道具は入口の脇へまとめ、食料を置く場所は、土から離して板を渡している。
人が入ると、すぐに狭くなった。
それでも、セドルから来た大工は、柱の間を何度も歩いた。まだ壁のないところへ手を当て、外から見直してから、ようやく荷物を下ろす。
「今日は、ここで眠れるな」
そう言った声が、それまで仕事を頼んでいた時とは違って聞こえた。
女たちも縫い終えた布を畳み、小屋の中へ腰を下ろしている。一人が脚を伸ばし、隣の者へ、そこは荷物を置く場所だと笑いながら押し戻された。
俺は入口の外へ顔を寄せた。
柱を立てる前には、どこへ人が座るのかさえ分からなかった。今は、同じ地面の上で、誰かが靴を脱いでいる。
森歩きの男とトーヴェンは、暗くなる前にルーエへ戻ることになった。
俺も村へ戻って報告をするつもりだったが、帰り支度をする二人へ声を掛けた。
『村長に、今夜は俺もここへ残ると伝えてくれ。屋根ができたことも、一緒に頼む』
トーヴェンが道具袋の紐を結びながら、俺を見上げた。
「村へ戻らず、こちらで夜を越すのですか」
『ああ。まだ周りの様子を、昼しか見ていない。最初の晩くらいは、傍にいたいと思ってな』
「分かりました。奥さんにも、屋根を掛けるところまで済んだと伝えておきます」
大工の男が、そこで顔を上げた。
「頼む。子供には、まだ走り回る場所はないと言っておいてくれ。昼間の穴も、全部は埋めきれていないからな」
トーヴェンは頷き、森歩きの男と一緒に道へ入っていった。
俺は二人の姿が見えなくなるまで待ってから、小屋の裏手へ回った。
寝るには、木のない場所が要る。翼を畳んだままでも、尾を無理なく伸ばせるところを選び、尖った石を爪で脇へ寄せた。
それを見ていた女が、乾いた草の束を抱えてくる。
「これくらいでは、足りませんけど。石の上よりは、少し楽でしょう」
『人間の寝床へ使う分は、残しておいてくれよ』
「そちらは、もう敷いてあります。これは入口に置いていた残りです」
草を地面へ広げた彼女は、俺が腹を下ろす場所を見比べ、端の方へ少し寄せ直した。
全部を覆うにはほど遠い。
それでも、胸を下ろすところへ集められた草を見ていると、断る気にはならなかった。
『助かる。明日の朝、俺の下から抜くことになっても怒らないでくれ』
「使うために持ってきたんですから、敷いたままでいいですよ」
彼女は空いた腕で腰を支え、夕食の火へ戻っていった。
◇
暗くなると、昼間には聞こえなかった音が増えた。
遠くで枝が鳴り、川の方から何かが水へ入る音がする。小屋の中では、話していた声が一度止まった。
俺も首を上げ、森へ意識を向けた。
はっきりした姿は見えないが、水辺から離れていく気配がある。こちらへ寄ってくる様子はなかったので、すぐには動かず、音が遠ざかるのを待った。
やがて小屋の入口から、大工の男が顔を出した。
「近くに、何かいましたか」
『川へ来ていたらしい。今は離れている。見えたわけじゃないから、何かまでは分からないがな』
男は暗い木々を見て、それから火の傍へ戻った。
鍋の中では、昼に分けた肉が煮えている。器を持った者が順に受け取り、空になった手へパンを載せてもらっていた。
しばらくすると、俺の前にも、板に載せた焼き肉が運ばれてきた。
「昼にいただいた分から、こちらは焼いておきました。煮た方は、この器では食べにくいでしょうから」
持ってきたのは、杖の男だった。
俺は顎を上げ、焼けた肉へ鼻先を寄せた。自分が昼に食べたものとは、匂いが違う。
『わざわざ、俺の分まで焼いてくれたのか』
「火は使っていましたから。こっちは少し硬くなりましたが、味を見てもらえれば」
俺は肉を口へ入れ、ゆっくり噛んだ。
脂が熱く、表面には焦げたところもある。生のまま食べた時より、肉の匂いが濃かった。
『うまい。俺なら、ここまで焼く前に食っていたな』
男は口元を緩め、俺が食べ終わるのを待って板を拾った。
小屋へ戻った彼に、誰かが味はどうだったと尋ねている。その返事を聞きながら、俺は草の上へ胸を下ろした。
人間たちの食事は、まだ続いていた。
家族が来たら寝床をどちらへ分けるか、川へ下りる道の枝を明日はどこまで払うか。そんな話の間に、鍋の底へ残った肉を誰が取ったのかと、少しだけ声が大きくなる。
俺は目を閉じかけ、また開いた。
ルーエの傍で眠る夜には、聞き慣れた村の音があった。ここでは、今日初めて、その音を作っている連中がいる。
火が小さくなり、一人ずつ屋根の下へ入っていった。
最後に外を見に出てきた大工の男は、俺と目が合うと、手にしていた薪を火の脇へ置いた。
「ヴァル殿も、休んでください。朝になったら、また材を運ぶのを手伝っていただきたいので」
『分かっている。あんたも、暗いうちから木を切り始めないでくれ。起きた時に、倒れてくるところへ首を出したくない』
「それは、こちらも困ります。起こす時は声を掛けますよ」
男が小屋へ戻ると、俺は前脚へ顎を載せた。
明日運ぶ材は、開けた場所の端にまとめてある。その向こうには、まだ枝を払っていない木々が続いていた。
今夜は、その森と、眠り始めた人間たちの間で休む。
胸の下へ敷いてもらった草が、身体を動かすたびに、かすかに乾いた音を立てていた。




