第96話 空からは、いい土地に見えた
川の曲がり角に広がる草地を見つけた時、俺は思わず高度を落とした。
朝日に照らされた水面が、木々の間を緩やかに続いている。その脇には森の途切れた場所があり、家を幾つか建てても、まだ余りそうだった。街道からも大きく外れていない。途中の藪を抜ければ、歩いて行き来できるだろう。
昨夜、エルマーに見せてもらった地図では、この辺りに集落の印はなかった。
使える土地かどうかは、館で確かめてもらわなければならない。それでも、水と広さの両方がある場所を見つけられたことが嬉しくて、俺は草地の上をもう一度回った。
川から少し離れた、石の多い場所へ降りる。
翼を畳むと、葉の擦れる音に混じって、水の流れる音が聞こえた。魚もいるらしく、浅いところで小さな影が散っていく。家を建てるなら、毎朝こんな音を聞きながら起きることになるのかもしれない。
草地へ一歩踏み出した途端、前脚が思ったより深く沈んだ。
湿った土が指の間へ盛り上がり、抜いた脚の跡に水が滲む。俺の重さを考えれば不思議ではないが、数歩先まで歩いても、足裏に返ってくる感触は柔らかいままだった。
『家を建てる場所としては、少し湿っているのか』
川辺なのだから、水気があるのは当たり前だと思っていた。
だが、腹を地面へ近づけてみると、草の根元には枯れ葉や細い枝が絡みついていた。木の幹にも、似たようなものが引っ掛かっている。
俺が歩いたせいで付いたものではない。
首を伸ばし、川と木々を見比べた。今の水面からは離れているのに、枝は人間の腰ほどの高さにまで残っていた。
ここまで、水が来たことがあるのかもしれない。
さっきまで頭の中に並べていた家を、川から遠い方へ動かしてみる。だが、その先には斜面が迫り、平らな場所は急に狭くなった。
空から眺めていた時には、こんな具合だとは分からなかった。
俺は草地を歩き回るのをやめ、降りた場所へ戻った。足跡へ溜まった水が、朝の光を細く返している。
見つけたと急いで知らせる前に、一度降りてよかった。
◇
ルーエへ戻るまでに、ほかにも二か所を見た。
一つは水場から遠く、もう一つは近くに人の使った道があった。伐った木の切り株も新しい。家がないからといって、誰も使っていない場所ではないらしかった。
村へ着くころには、何も考えずに飛んでいた時より、ずっと首が疲れていた。
村長は畑から戻る途中で、俺の脚を見て眉を上げた。
「セドルへ行ってきたにしちゃ、妙に泥だらけだな」
『帰りに、川の近くへ降りてきた。話しておきたいことがあるんだが、昼の仕事が済んでからでもいい』
「その脚で歩かれる前に聞く方がよさそうだ。そこで待ってろ。皆にも、近寄るなら足元を見ろと言ってくる」
言われて初めて、自分が畑の脇へ泥を落としかけていることに気づいた。
俺は来た方へ少し戻り、村外れの草地で待った。前脚にこびりついた土を擦り落としていると、村長が水の入った椀を片手にやってくる。
セドルで聞いた話を伝える間、彼は黙って耳を傾けていた。
帰る家のことがまだ分からない者がいること。こちらに残りたいと、家族で決めた者もいること。ルーエへ全員を連れてくるのではなく、新しく暮らせる土地を探せないかと、館へ相談していること。
村長は椀の水を飲み、村の家並みへ目を向けた。
「ここへ来た大工が働けているから、ほかの連中も何とかなると思われると困る。あいつには頼みたい仕事があったし、空いていた家も使えた。次も同じとは限らんからな」
『それは向こうでも話した。だから、土地を見てきたんだが、俺の目だけじゃ分からないことが多い』
泥の残った前脚を見せながら、川辺の様子を説明した。
水面の高さと、木に引っ掛かっていた枝の位置まで話すと、村長は俺の顔から脚へ視線を落とした。
「そこへ家を建てるのは待て。昔から住んでいる連中でも、川が大人しい時の顔だけ見て失敗する」
『俺も、木の枝を見て気になった。人が暮らす場所を探すなら、畑を知っている人間に歩いてもらった方がいい』
「なら、その話も館へ伝えておけ。こっちからなら、森へ入る連中に道を聞ける。トーヴェンにも、家を建てる場所としてどう見るか、一度聞いてみよう」
村長は立ち上がり、俺の前脚の脇へ屈んだ。
落ちた泥を指で摘まみ、親指で擦り合わせている。
「乾いた時のことも見なきゃ分からんが、これじゃ床下を作る前に苦労しそうだな」
俺には、ただ脚へ重く張りついた泥だった。
同じものを見ていても、考えていることが違う。俺は村長の指先を眺めながら、セドルで言ったことを思い返していた。
暮らす人間に、見て決めてもらう。
そう頼んでおいて、最初からいい場所を見つけて渡すつもりになっていたらしい。
◇
四日後、俺たちは例の川辺へ向かった。
その間にエルマーから人が来て、候補の場所を一緒に歩く段取りが決まっている。館では土地の使われ方も調べている最中で、今日するのは下見だけだと、参加する者には先に伝えられていた。
セドルから来たのは、木槌を持っていた男と、種豆を残していた女、それに杖の男だった。
エルマーは街道で三人と合流し、ルーエへ寄ってきた。村長に頼まれた森歩きの男が道を案内し、トーヴェンも家の修理を一日空けて加わっている。
俺は先に飛んで待ち、皆は人間の通れる道を歩いてきた。
最後の藪から姿を現したトーヴェンは、俺を見るより先に、足元へ目を落とした。
「村長から聞いていた土は、これですね」
『川に近い方は、もっと柔らかい。俺が歩いた跡も残っているから、踏み込むなら気をつけてくれ』
「それなら、先に端から見ます。家を建てたい場所へ着く前に、靴を置いて帰ることになりそうですから」
彼は木の棒を拾い、草地へ差し込んだ。
隣では女が裾を結び、少し高い方から地面を見ている。杖の男は無理に奥へ進まず、川と草の傾きを確かめながら歩いていた。
俺は全員が動けるよう、石の多い場所へ身体を寄せた。
やがて女が屈み、小さな鍬で土を起こし始めた。表面の草を剥がすと、その下から黒っぽい土が出てくる。
ところが、彼女の顔は明るくならなかった。
「上は草がよく育っていますけど、下は水を抱えていますね。これでは、すぐに畑へ変えるのは難しいと思います」
『水を抜く溝を作っても、使えないか』
「溝は要るでしょう。ただ、川の方が高くなった時に、水を逃がせるかどうかです。豆を植えてから根が腐っても、別の畑へ持ってはいけませんから」
彼女は掘った土を崩し、指に張りついたものを草で拭った。
少し離れたところで、杖の男が木の幹を叩いた。
「ヴァル殿が見たのは、この辺りでしょう。ほら、こちらにも泥が残っています」
幹に付いた線を、皆が見上げる。
木槌の男が、自分の腰へ手を当てて高さを比べた。そこへ水が来た景色を想像したのか、川の方を振り返った時には、口元が固くなっていた。
「家の中へ入る高さですね」
「雨のたびにこうなるのか、滅多にない大水なのかは、近くの者に聞きたいところです。ですが、今すぐ家族を連れてくる場所には選びたくありません」
杖の男の言葉に、エルマーが頷いた。
俺は川辺の草地を見渡した。
水を汲むのも楽そうだし、木を運び込む場所もある。そう考えていたのに、人間が歩いて確かめると、心配が次々に出てくる。
『最初にここを見つけた時は、かなり期待したんだがな』
思わず零すと、鍬を持った女が顔を上げた。
「でも、連れてきてもらわなければ、私たちはここを知りませんでした。住めないと分かるのも、家を建ててからよりは助かります」
慰めるような言い方ではなかった。
彼女はもう草地から視線を外し、背後の斜面を見ている。
「上の方は、歩けるんでしょうか。川から離れたところも見たいです」
◇
案内の男が知っていた獣道を辿ると、木々の間に、緩く傾いた土地が続いていた。
川辺ほど開けてはいない。低い木があちこちに生え、倒木も横たわっている。それでも、足元はさっきよりしっかりしており、人間たちの靴が沈むことはなかった。
俺は木の間へ無理に入らず、一度飛び上がって先の開けた場所へ回った。
歩いて追いついてきた者たちは、休む前にまた土を掘り始める。女が浅く起こした土には細い根が混じり、その下からは茶色い土が出てきた。
掌に載せて崩す彼女の手元へ、杖の男も顔を寄せた。
「こちらなら、下の土地より扱いやすそうですね。石の多さは、もう少し掘ってみたいですが」
「家は、あの少し高いところへ寄せられます」
トーヴェンが示したのは、俺の降りた場所に近い一角だった。
「全部を平らにしなくても、建てる向きを考えれば使えそうです。ただ、木を退ける仕事は増えますね」
木槌の男は、その辺りを自分の足で歩き回った。
何本かの木を見比べ、片方の目を細めて斜面を確かめる。それから、腰へ手を当てて俺を見上げた。
「家を建てる分の木だけでも、使えるものがありそうです。勝手に伐ってよいかは、これから確かめるとして」
『その木を選ぶところから、頼む。俺が先に倒してしまうと、使いたかった長さをなくすかもしれない』
「大工が同じことを言っていましたか」
トーヴェンを見ると、彼は少し笑っていた。
「村で、一度お願いしました。運べるからといって、どこで折ってもよいわけではありませんので」
男は頷き、木の幹へ手を置いた。
二人の大工が、どの木を残し、どちらへ道を通すかを話し始める。女はその脇を通り、もう少し低いところでも土を確かめていた。
誰も、最初の家の形を急いで決めようとはしなかった。
水を汲む場所まで歩いたエルマーが戻ってきたのは、持ってきたパンを分け始めたころだった。
「川へ下りる道は作れそうです。ただ、毎日の水運びを考えると、この距離は覚えておいてください」
話を聞いた女が、パンを持ったまま川の方を見た。
「下に住めば近いんでしょうけど、水が家まで来るより、私たちが汲みに行く方がいいです」
その答えを聞いて、俺はようやく、この場所を見せられてよかったと思えた。
何でも揃った土地ではない。
木を退け、道を作り、水を運ぶ。今日見た土だけで畑全体を判断することもできず、館の確認が済むまで、ここへ家を建てられるかも決まらない。
それでも、三人は困ることを見つけるたびに、互いの仕事を思い出して話していた。
◇
帰る前に、種豆の女が、掘った土を穴へ戻していた。
俺が見ていると、彼女は腰を伸ばし、鍬の先に付いた土を落とした。
「今日は、まだ植えませんよ。使ってよい土地になってから、家族にも見せて、それからです」
『俺は何も急かしていないぞ。ただ、下の土を触っていた時と、顔が違うと思ったんだ』
彼女は自分の頬へ手をやり、少し困ったように笑った。
「ここなら、何を植えようかと考えられたので。あちらでは、水が来たらどうしようと、そればかりでしたから」
その脇で、木槌の男が地面に棒を並べていた。
家を建てる線ではなく、歩いてきた道へ戻るための目印だった。まだ何も決まっていないと分かっていても、もう一度ここへ来たいとは思っているらしい。
俺はエルマーへ顔を向けた。
『館で確かめる場所は、下の草地より、こっちを先にしてもらえるか。皆が帰って家族と話す時にも、今日見た場所のことが分かった方がいい』
「そのように伝えます。近くの村が使っている範囲と、開く場合の条件を確認しましょう」
エルマーが答えると、三人はそれぞれ礼を言った。
案内の男が道へ入り、杖の男がその後を追う。俺は皆が木の間へ消えるまで待ち、翼を広げられる場所へ身体を移した。
飛び上がってから見下ろすと、川辺の草地は相変わらず明るく、広々としていた。その上の、俺たちが歩いていた土地は、木々に隠れてほとんど見えない。
今朝ここを通っただけなら、俺はまた、川の脇へ目を向けただろう。
だが今は、木の間を進む人々の姿を探していた。杖の男を待って歩調を緩めた女が、隣の大工へ何かを指している。
俺も帰ったら、村長へ土のことを話そう。
今度は泥を脚へ付けていかなくても、何を見てきたのか、少しは説明できそうだった。




