第95話 帰る荷車に、乗らない
セドルの外で荷車を待っていた人々は、俺が降りる前からこちらを見上げていた。
街道を挟んだ空き地には、荷をまとめた家族が集まっている。馬の近くへ降りれば驚かせると思い、少し離れた草地を選んだのだが、俺が翼を広げた途端、子供を抱き寄せる女の姿が見えた。
風を落とし、脚を伸ばして地面へ触れる。翼を畳んでからも、その場でしばらく待っていると、門の方から兵士が一人、手を振りながら走ってきた。
「ヴァル殿でしたか。東から大きな影が来ると聞いて、少し騒ぎになっていました」
『西から回ってきたんだが、途中で向きを変えたからな。驚かせて悪かった』
「見張りにも伝えておきます。今日は、どなたかに用が?」
『避難してきた人たちの様子を見に来た。しばらく顔を出していなかったから、気になっていたんだ』
ガルと一緒だった時には、立ち寄るのをやめた場所だった。
あいつは昨日、鹿の残りを抱えて東へ飛んでいった。今朝も寝床の入口には姿がなく、俺は村長に行き先を伝えてから、一頭でルーエを出てきている。
兵士は俺の後ろに誰もいないことを確かめると、門の脇に張られた天幕を指した。
「でしたら、館から来ているエルマー殿が詳しいはずです。帰村する者の確認と、残る者の仕事の相談で、今朝からこちらに詰めています」
『それなら、手が空いた時に声を掛けてくれ。俺はここで待っている』
街の中へ首を突っ込まずに済むのはありがたかった。
地面に腹を下ろし、尾を街道とは反対側へ寄せる。俺が腰を落ち着けたのを見て、荷車の傍にいた男たちも、途中で止めていた荷積みを再開した。
その中で、一台だけ妙に荷の少ない車があった。
積まれているのは鍋と毛布、それに口を縛った袋が幾つか。空いた場所には、人が座れるよう藁が敷かれている。
帰れるようになったのかと思って眺めていると、天幕から出てきたエルマーが、俺の視線を追った。
「東へ戻る家族を乗せる車です。道が確かめられた集落から、少しずつ人を帰しています」
『フェルゼン側から、迎えが来たのか』
「ええ。あちらで人数を受け取り、途中の警備も引き継いでもらいます。全員を一度に送り出せるほど、馬も車も揃ってはいませんが」
エルマーは手にした紙を丸め、俺の顔が見える位置まで歩いてきた。
目の下に薄く疲れが残っていたが、天幕の中から誰かに呼ばれると、すぐにそちらを振り向く。紙に付いた墨が、指の脇まで黒く染めていた。
『忙しいところへ来たらしいな。急ぎの話じゃないから、先にそっちを済ませてくれ』
「助かります。ただ、あとで聞いていただきたいことがあります。ヴァル殿がいらっしゃるなら、直接話したいという者がいまして」
◇
帰る人々を見送るのは、思っていたより時間が掛かった。
子供の姿が見えなくなって母親が捜し始めたと思えば、本人は車の下へ転がった木の実を拾っている。荷を積み終えた老人は、近くの家で借りた椀をまだ返していないと言い出し、付き添いの男が門へ駆けていった。
兵士が急かしかけたところで、車の持ち主が手綱を緩めた。
「椀ぐらい返してこい。借りたものをそのままにして帰ったら、俺まで落ち着かん」
その言い方がおかしくて、つい鼻から息が漏れた。
俺の方を見た老人が、皺の深い顔を綻ばせる。
「竜に笑われちまったな」
『笑ったのはあんたじゃなくて、車の方だ。帰る道が開いたと聞いたら、すぐに出たくなるものかと思っていた』
「出たいさ。だが、世話になった家へ何も言わずには行けんよ」
老人はそう答え、戻ってきた男から椀を受け取った。今度は自分で歩こうとしたので、男に肩を押されて車へ乗せられている。
帰る家がある。
出てきた時には、それだけで十分に思えたはずなのに、去る場所にも挨拶をしたい相手ができているらしかった。
俺は荷車が動きだすまで、腹を地面に付けたまま待った。
近くを通る馬が耳を伏せたので、顔も上げない。車上の子供が手を振ってきた時だけ、地面に置いた前脚の指を少し動かした。
子供はそれを見て、隣の大人の袖を引っ張っていた。
荷車が街道の曲がり角へ消えると、エルマーが三人の男を連れて戻ってきた。
いずれも武器は持っていない。一人は杖を使い、もう一人は袖を肘まで捲っていた。最後の男の手には、使い込まれた木の槌が握られている。
「先ほどお話しした者たちです。街の外で、荷車の修理や薪割りを手伝ってもらっています」
紹介された男たちは、俺の頭の高さを見てから、互いに立つ場所を譲り合った。
あまり近いと話しづらいだろう。顎を草の上へ下ろすと、木槌の男がようやく口を開いた。
「ルーエへ行った大工の家族がいると聞きました。あちらでは、家を借りて仕事を始められたそうで」
『トーヴェンたちのことだな。今も村で働いている。屋根を直したり、森から運んだ木を見たりしているところだ』
男の肩から、少し力が抜けた。
「それなら、話は本当だったんですね。俺たちも、こちらで暮らす道を探したいんです」
俺は、荷車の消えた街道へ一度目を向けた。
帰る順番が回ってこないから、頼みに来たのだと思っていた。だが、男は俺の考えを察したように、木槌を両手で持ち直した。
「戻れば、畑を起こし直すところからです。家が残っているかも、まだ分からない。向こうにいる親類を頼る者もいますが、俺たちは別の場所でやり直せないかと、家族で話しました」
杖の男が、その隣で頷いた。
「帰りたくないわけじゃありません。ただ、帰れば元の暮らしに戻れるとも思えなくてね」
爪の間に土が残った手で、杖の柄を撫でている。
知らない土地で暮らす方が楽だと考えている顔ではなかった。どちらを選んでも苦しいと分かったうえで、ここへ残る方に少しでも見込みを探している。
『俺に頼みたいのは、ルーエの村長へ話を繋ぐことか』
「まずは、それをお願いできればと。ただ、皆で押しかけるつもりはありません。寝る場所も畑も、急には増えないでしょうから」
男たちの向こうには、薪を束ねている女と、水桶を運ぶ若者がいた。こちらを気にしているが、仕事の手は止めていない。
俺が見ていることに気づいた木槌の男が、振り返ってから言った。
「ほかにも、同じように考えている家族がいます。今は別々の家や納屋を借りていますが、いつまでも借りたままではいられません」
◇
男たちが作業へ戻ったあと、エルマーは天幕から地図を持ってきた。
俺が見下ろせるよう、平たい板の上へ広げる。紙の端を押さえる石を置いてから、彼はルーエのある辺りへ指を伸ばした。
「ルーエだけで受け入れるのは難しいでしょう。大工の家族が入れたのも、使っていなかった家と、村で必要な仕事が合ったからです」
『それは、俺も見てきた。あの家に何家族も入れれば済む話じゃない』
トーヴェンの妻が片づけていた部屋を思い出した。
ようやく雨を避けて眠れるようになったところへ、さらに人を詰め込むわけにはいかない。村の人々だって、畑で採れたものを全て余らせて暮らしているのではなかった。
「セドルで職を得た者もいます。親類のいる村へ移る者も。ただ、家族ごと受け入れられる先は、そう多くありません」
エルマーは地図から手を離し、作業をしている人々へ目を向けた。
「彼らも働いています。ですが、戦の間に増えた荷車や薪の仕事が、同じだけ続くわけではありません。畑を持っていた者なら、次に何を植えられるかも考えねばならない」
『新しく畑を作る場所はないのか。今ある村へ入る以外にも、やり方はあるだろう』
口にすると、エルマーが俺を見た。
少し黙ってから、彼は紙の上を指で辿り、集落の印がない場所で止めた。
「候補になりそうな土地はあります。ただし、地図で空いて見えるところを、そのまま使ってよいわけではありません。近くの村が木を伐る場所だったり、家畜を放していたりします。領主側の確認も必要です」
『なら、そこから確かめよう。俺が誰かの畑を勝手に渡すわけにはいかないが、使える場所を一緒に探すことはできる』
「開くとなれば、家を建てるまでの食料も、種も、道具も要りますよ」
止めるために言っているのではないのは、声を聞けば分かった。
俺は前脚の傍に落ちていた小枝を見つめた。拾おうとして爪を寄せると、先が草へ刺さる。こんな細いもの一つでも、人間の指のようには扱えない。
大きな木を運ぶことならできる。
石を退けたり、危ない魔獣を遠ざけたりもするだろう。だが、俺が一日働いただけで、畑に豆が実るわけではなかった。
『俺にできる仕事と、できない仕事がある。だから、あの人たちにも見てほしい。俺が運べる木の大きさより、そこで冬を越せるかどうかの方が大事だ』
エルマーは頷き、地図の端を巻いた。
「では、まず現地を見に行く話を進めます。土地の扱いはこちらで確かめますので、その間に、彼らにも一緒に暮らす家族と相談してもらいましょう」
『ルーエの村長にも話しておく。近くで土地を探すなら、地図より詳しいことを知っているはずだ』
そこまで話したところで、乾いた音が続けて響いた。
車輪の傍で、木槌の男が楔を打ち直している。隣では杖の男が腰を下ろし、割れた部材を押さえていた。
俺たちの会話を待つ間も、自分たちの手でできる仕事を続けていたのだ。
◇
夕方、俺は街の外れで、もう一度男たちと話した。
今度は家族も一緒だった。子供が母親の後ろへ隠れたので、最初から顎を低くして待つ。俺を怖がらなくなるまで近づけなくても、声は十分届く距離だった。
『まだ、住める土地が見つかったわけじゃない。館で確かめてもらっているし、場所が決まっても、すぐに家と畑が揃うわけじゃない』
話を聞く顔に、落胆は見えなかった。
女の一人が、膝に載せた籠の縁を握り直す。
「土地を見に行く時は、私も連れていってください。畑なら、うちでは私の方が長く出ていましたから」
「川が近ければいいというものでもありません。雨で水が上がる場所は、見ておきたいです」
杖の男が言うと、木槌の男も頷いた。
皆、家を失う前は、それぞれの仕事をしていた。
避難する時には、足の速さや持てる荷物の量でしか分からなかったことが、こうして座って話すと、一人ずつ見えてくる。
『俺は上から地形を見てくる。だが、降りて歩く時には、あんたたちの目を貸してくれ。家を建てる場所も、畑を作る場所も、暮らす人間が見て決めた方がいい』
「竜が見つけた場所なら、間違いないと言われるかと思っていました」
木槌の男が、少し意外そうに俺を見た。
『俺にとって寝やすい場所は見つけたが、人間向きじゃないぞ。家を建てるなら、まず岩の下から出ろと言われるだろうな』
女が口元を緩め、その傍で、母親の背中から半分だけ顔を出していた子供が俺の腹を見た。
俺がそこへ寝れば、人間の寝床はなくなる。
そう気づいたらしく、また母親の服を掴み直した。怖がらせる話をしたかと思ったが、今度は隠れずに、俺の顔を見上げている。
木槌の男が子供の頭へ手を置き、それから俺に向き直った。
「もし場所が見つかったら、俺たちにも働かせてください。運んでもらった木を、家にするところは引き受けます」
『頼む。俺が運んだ木を、そのまま並べて寝床にしてもらうわけにはいかないからな』
男は木槌を持つ手を見下ろし、深く息をついた。
その隣で、畑を見たいと言った女が、籠から小さな布包みを取り出した。中には、皺の寄った豆が入っている。
「逃げる時、食べる分とは別にして持ってきたんです。途中で何度も、これも煮ようかと思いました」
指先で一粒を転がす手を、俺は黙って見ていた。
「植える場所が決まるまで、残しておきます」
さっきまで、必要なものの一つとして聞いていた種だった。
それを目の前へ出されると、まだ見てもいない土地の景色が、少しだけ変わった。木を倒して平らにすれば終わる場所ではない。家が建ち、誰かが朝から鍬を持って出ていく場所を、これから探すのだ。
俺は顔を上げ、エルマーを見た。
『明日の朝、ルーエへ戻る前に、空から見てくる。人の畑や家がある場所は避けて、川と道がどう通っているかを確かめたい』
「地図をもう一度お見せします。下見の範囲を決めておきましょう」
エルマーが天幕へ向かうと、男たちは家族の方を振り返った。
誰も、東へ帰る車の順番を聞こうとはしなかった。
女が包みを結び直し、籠の底へそっと戻している。俺は爪の先で地面に付けてしまった小さな穴を土で埋め、それから、彼女たちが暮らすことになるかもしれない方角へ首を向けた。




