第94話 柵の中は、狩り場じゃない
村長へ戻ったことを伝えに行った時、ガルはまだ岩の庇の下で休んでいた。
俺が身体を起こすと、一度だけ顔を上げたが、出てくる様子はない。入口を塞がないよう外へ回り、村へ向かう草地を歩いた。
森の道を使う人間たちには、ガルが来ていることを知らせておかなければならない。
俺を見慣れたからといって、ほかの魔獣まで怖くなくなるわけではないだろう。寝床へ来た男が足を止めた時の顔を思い出し、村へ入る道から離れた場所で、畑帰りの女へ村長を呼んでもらった。
ほどなくして、村長がこちらへ歩いてくる。
「お帰りなさい。ワイバーンも一緒だとは聞きましたが、こちらまで付いてきたのですな」
『途中で帰るかと思ったんだが、寝床まで来た。人間には慣れていないから、見に行くなら先に俺へ声を掛けてほしい』
「森へ入る者には伝えておきましょう。しばらく、あちらで過ごすのでしょうか」
『そこまでは分からない。あいつにも、東に戻る場所がある』
そう答えた時、村長の肩越しに、畑を横切る影が見えた。
俺は首を上げた。
翼の片端が欠けた影が、森の上を回っている。
ガルは目を覚まし、庇の下から出てきたらしい。こちらへ首を向け、俺のいる草地へ近づきかけたが、途中で身体を傾けた。
向かった先に、家畜の柵があった。
◇
柵の中には、山羊が数頭いた。
低い屋根のある囲いと、その前に広がった草地だ。人間の腰ほどの柵で区切られ、男が一本の杭へ縄を結び直している。
そこへガルの影が掛かった。
最初に気づいた山羊が首を上げ、次の瞬間には、ほかの山羊と一緒に囲いの隅へ駆け出した。
ガルの翼が狭まり、身体が下へ向く。
俺は立ち上がった。
『ガル、その山羊は襲うな!』
声と一緒に、強く制止する意思を向けた。
ガルがこちらを見る。だが、それだけで元の高さへ戻ったわけではなかった。下りかけた身体を起こし、柵の外へ脚を向けている。
俺は村長が離れたのを見てから、家並みと反対側へ踏み出した。
畑へ入らず、囲いの外へ回り込む。柵から十分な距離を取り、ガルと山羊の間へ身体を置くと、首を高く上げた。
ガルが翼を開いた。
風に草が伏せ、柵の傍にいた男が腕で顔を覆う。山羊たちが鳴き、囲いの奥で身体をぶつけ合った。
俺はガルへ向けて、もう一度、近づくなという意思を送った。
今度は、その目が俺を捉えたまま動かなくなる。
ガルは少し離れた地面へ下り、翼を畳みきらずに立った。
こちらへ向けられた感覚には、戸惑いと警戒が混じっていた。
俺が何を守ろうとしているか、分からないのかもしれない。ガルから見れば、草を食っている山羊がいただけなのだ。
柵も、縄も、人間が餌をやっていることも、狩ってはいけない理由にはなっていない。
俺はガルを睨みつけず、ただ間に立ち続けた。
腹の下で、自分の脚が土へ沈む感触があった。
◇
囲いの男は、山羊を屋根の下へ追い込み、戸を閉めた。
その間に、村の方から二人が駆けてくる。一人は弓を持っていたが、村長が声を掛けると、その場で足を止めた。
「まだ矢はつがえないでください。山羊は中へ入りました。まず、人が離れましょう」
男は弓を握ったまま、ガルを見ていた。
俺の身体越しでは、全身は見えないだろう。それでも、左右へ動く翼の端と、こちらを向く頭は見える。
村長は山羊の飼い主へ寄り、怪我がないか確かめてから、俺の方へ顔を向けた。
『誰も襲われていないな』
「はい。山羊も、今のところ血は出ていません。ただ、戸はしばらく開けられませんな」
飼い主の声は硬かった。
当然だと思った。
俺が友人を連れてきたつもりでも、この男は大事な家畜を食われかけたのだ。俺の知り合いだから安心してくれと言われても、納得はできないだろう。
『驚かせてしまった。俺が寝床へ連れてきた相手だ。まず、ここから離れる』
村長が頷き、男たちを柵の傍から下がらせた。
俺はガルへ背を向けず、身体を斜めにして、森の外側へ歩き始める。
近づくなと伝えた直後に、今度は来いと押しつけるのも難しい。何度も振り返って命令する代わりに、十分な間隔を空けて待った。
ガルは囲いの方を見たが、やがて俺へ顔を戻した。
数歩進み、一度止まる。それから翼を開き、低く飛んで、森の縁の岩場へ下りた。
俺は地上を回り、そちらへ向かった。
◇
岩場で待っていたガルは、俺が近づくと首を持ち上げた。
怒って襲いかかる様子はない。だが、川で会った時や、庇の下で休んでいた時とも違っていた。
俺は少し離れた場所へ伏せた。
『さっきの山羊は、人間が育てている。あれを食われると、困るんだ』
言葉だけで全部が伝わるとは思わなかった。
俺は村のある方へ目を向け、守るという意思を返した。それからガルへ視線を戻し、争うつもりがないことも伝える。
向こうの警戒は、すぐには消えない。
俺も急がなかった。
川岸なら、一緒に魚を捕って食べられた。けれど、人間の暮らす場所へ来れば、それだけでは済まないらしい。
ガルにとって食べ物であるものを、ここでは人間が育てている。
俺はそれを知っているから、見ても襲わない。ガルは知らないまま、俺に付いてきた。
連れてくる前に、どうすれば伝えられるかを考えるべきだった。
俺は首を下げ、目の前の石へ顎を載せた。
ガルも、やがて翼を畳んだ。俺を見ていた目が森の方へ動き、細く開いていた口も閉じる。
しばらくして、あいつは岩から飛び立った。
俺は頭を上げたが、追いかけなかった。
ガルは村とは反対の方へ進み、尾根を越えていった。
◇
村へ戻ると、山羊の飼い主が、囲いの横で柵を直していた。
ガルが壊したのではない。山羊が一斉に押し寄せたせいで、一本の横木が外れかけていたのだ。
俺は傍へ寄らず、男がこちらに気づくのを待った。
『ガルは山の方へ飛んでいった。山羊の具合はどうだ』
「怪我はありません。しばらくは、餌を出しても寄ってきませんでしたが」
男は答え、縄を引き締めた。
俺はその手元を見ながら、頭を低くする。
『すまなかった。先に、俺が気をつけるべきだった』
男は少し黙ってから、手にしていた縄を杭へ掛けた。
「ヴァルが止めてくれたのは見ていました。ですが、あれがまた来た時に、私が怖がらずにいられるかは分かりません」
『怖がるなとは言わない。俺も、何をしても構わないと思って連れてきたわけじゃないんだ』
「それなら、こちらへ下りてくる前に分かると助かります。山羊を中へ入れるだけでも違いますから」
俺は頷いた。
ガルが俺の寝床へまた来るとしても、村の上を飛んでほしいわけではない。できるなら、家畜のいる場所へ近づかずに済む方へ案内したかった。
ただ、あいつが俺のいないところで、何を見つけてどう動くかまで、分かったつもりにはなれない。
男へそう伝えると、彼は囲いの戸へ目を向けた。
「森に魔獣がいるのは、今に始まったことではありません。あのワイバーンだけ、飼っているもののように扱われるのでなければ、私も気をつけます」
『あいつは野生の相手だ。俺に付いてきたからといって、俺の言うことを何でも聞くわけじゃない』
男が顔を戻したので、俺も目を逸らさずに続けた。
『だから、家畜を狙うなら、今日のように止める。俺の知り合いでも、そこは変えない』
男は一度頷き、ほどけかけていた縄を持ち直した。
俺は仕事を邪魔しないように身体を引き、村長の待つ道の方へ戻った。
◇
ガルが戻ってきたのは、日が傾き始めたころだった。
俺は村長との話を済ませ、岩の庇の外へ伏せていた。森の上から近づく影に気づき、首を上げる。
ガルは村へ寄らず、川向こうから回り込んできた。
脚には鹿を一頭掴んでいる。
手前の開けた場所へ獲物を下ろすと、俺から少し離れて着地し、そのまま肉を食べ始めた。
さっきのことを気にして戻ってきたのか、ただ休める場所を覚えていたのかは分からない。
俺は食事の傍へ近づかず、庇の下から見ていた。
ガルの腹が膨らむにつれ、獲物の上へ寄せていた翼が緩んでいく。食べ終えると首を上げ、嘴の先ではなく、顎についたものを草へ擦りつけた。
その動きを見ているうちに、俺の肩からも力が抜けた。
寝床へ近づく足音が聞こえたのは、その時だった。
道の曲がるところに、村長とリナが立っている。
村長には、あとで様子を見に来てもいいと伝えてあった。ただ、ガルが戻っていれば、俺が声を掛けるまで近づかないようにも頼んでいる。
二人はそこで止まり、ガルと俺の方を見比べていた。
『そこからなら見えるだろう。今は食べ終えたところだが、獲物には近づかないでくれ』
村長がリナへ何か話し、彼女も頷いた。
ガルは顔を上げ、二人を見た。
俺はそちらへ争う必要がないと伝えたが、ガルの代わりに身体を動かしたり、頭を下げさせたりはしなかった。
あいつはしばらく見てから、獲物の残りへ目を戻した。
リナが、村長の隣で少し背を伸ばした。
「ヴァル、翼の端が欠けているのは、前からなの?」
『俺が会った時には、もうあの形だった。首から胸にも、古い傷がある』
リナはガルの身体へ目を移したが、歩いて近づこうとはしなかった。
ガルが翼を一度広げると、彼女の肩が小さく動く。
俺も初めて間近で見た時には、大きいと思った。今の俺より小さくても、人間から見れば、十分に恐ろしい大きさだ。
村長はその翼を見ながら、静かに言った。
「飛んでいるところを遠くから見ても、これで見分けられそうですな」
『似た傷がなければ、分かると思う。名前はガルだ。ほかのワイバーンまで、同じように俺を知っているわけじゃない』
「森へ行く者にも、そのように伝えておきます」
二人は、それ以上近づかなかった。
リナが小さく手を動かしたが、ガルは顔を寄せる代わりに、獲物の傍へ座り直した。村長に促されると、彼女も来た道を戻っていった。
俺は二人の姿が木々の間へ消えるのを見送り、ガルへ顔を戻した。
今日は山羊を止め、食事をする姿を人間たちに見てもらった。
ガルが人間をどう受け取ったのかまでは、俺にも分からない。ただ、二人が帰るまで、あいつはその場所で落ち着いていた。
やがてガルは残った獲物を掴み、岩場から離れた。
俺の頭上を大きく回ってから、東へ向く。
俺も立ち上がったが、翼は広げなかった。
『俺は、ここにいる。また会おう、ガル』
声が届いたかは分からない。それでも、こちらを向いた頭が一度見えてから、ガルは森の向こうへ飛んでいった。
俺は影が見えなくなるまで見送り、寝床へ戻った。
敷いてあった草には、ガルが伏せていた跡が残っている。俺はそこを踏まずに奥へ入り、自分の場所へ腹を下ろした。




