第93話 ガルを、寝床へ招く
森から運んだ木を人間たちへ任せた翌朝、俺は村長に、少し遠くまで飛んでくると伝えた。
戦場から戻って以来、ガルには会っていない。
一緒に魚を捕った川で別れた時、あいつは北へ向かった。あの川へ戻れば必ず会えるわけではないが、飛んでいく先も分からず待っているよりは、見つかるかもしれなかった。
『明後日までには戻るつもりだ。何かあれば、セドルへ人を出してくれ。帰りに、そちらの様子も見てくる』
「分かりました。こちらは普段通りにやっておりますから、気をつけて行ってきてください」
村長はそう答え、道の脇へ寄ってくれた。
少し向こうでは、トーヴェンが村人と木を見ている。昨日まで俺の運ぶものを待っていた者たちが、今日は俺のいない間に仕事を進めてくれる。
俺は家並みから離れた草地まで歩き、東へ向けて翼を広げた。
◇
人間の道を離れると、空から見えるものの大半は森になった。
木々の色が変わるところに沢があり、尾根の向こうには、岩の露出した斜面が続いている。村の近くを飛ぶ時より高度を取り、上がってくる風へ身体を乗せた。
腹の下を流れていく景色が、ゆっくり遠ざかる。
木を運んでいた時には、脚の下で揺れる幹ばかり気にしていた。今は爪を軽く曲げたまま、尾の向きを変えるだけで、進む方向を選べる。
少し大きく旋回すると、片側の翼へ風が強く当たった。身体が傾き、森の上へ自分の影が長く滑っていく。
誰かに呼ばれて急いでいるわけでも、敵の矢が届かない高さを探しているわけでもない。
俺はそのまま尾根を越え、見覚えのある川筋へ向かった。
途中で水を飲み、開けた場所へ下りて脚を休める。川へ着くころには日が傾き始めていたが、岸を見つけた時には、まだ明るさが残っていた。
ガルと魚を食べた砂利の広がりが見える。
俺は上空を一度回ってから、そこへ下りた。
◇
川岸に、ガルの姿はなかった。
以前、火を使った辺りを見ても、草の間に黒ずんだ石が残っているだけだ。水の流れは少し変わっていたが、大きな岩の陰には、同じように魚の影が寄っていた。
俺は水へ鼻先を近づけてから、顔を上げた。
ここで食べ物を置いて待てば、ガルが来るというものでもない。川は広いし、あいつにはあいつの狩り場がある。
それでも、少しは探してみたかった。
日が落ちる前に、川の上流を短く往復する。岩場を見つけるたびに速度を緩め、翼を畳んだ影がないか目を凝らした。
最初に見つかったのは、ガルではない二頭だった。
川から少し離れた斜面へ下りていたワイバーンが、俺の影に気づいて首を上げる。一頭が低く身を伏せ、もう一頭は岩の上へ前脚を掛けた。
俺はすぐには近づかなかった。
風下へ大きく回り、互いの姿が見える距離を保って飛ぶ。こちらを警戒する感覚が《魔獣感応》へ触れたところで、争うつもりがないという意思を返した。
向こうの警戒は、消えなかった。
俺ほどのものが頭上を回っていれば、それも当然だろう。
さらに距離を取ろうとした時、斜面の向こうから、もう一つの影が上がった。
夕日を受けた首から胸へ、古い傷が走っている。身体を傾けた拍子に、翼の端の欠けた部分が見えた。
『ガル。ここにいたのか』
声を掛けると、そいつはこちらへ首を向けた。
警戒とは違う、覚えのある相手を見つけた時の反応が伝わってくる。ガルは俺へ真っすぐ迫らず、横を通り抜けてから、川の方へ向きを変えた。
俺もその後へ続いた。
◇
ガルが下りたのは、ほかの二頭から離れた川岸だった。
俺が着地する間、あいつは翼を半分開いたまま待っていた。砂利を踏み直して身体を落ち着けると、ようやく翼を畳む。
首を寄せてくるのでも、俺の下へ潜り込むのでもない。互いの尾が届かないくらいのところへ立ち、こちらを見ていた。
『村へ戻っていたんだ。寝る場所もできたし、しばらくは、そちらで暮らすつもりでいる』
どこまで言葉が通じたかは、分からない。
俺は落ち着いた気持ちを向け、首を低くした。ガルも頭を下げたが、すぐに川の方へ目を移した。
その鼻先を追うと、少し上流で水が跳ねた。
ガルは俺を残してそちらへ歩き、浅いところへ脚を入れる。しばらく動かずに待ったあと、素早く首を突き出した。
戻ってきた口には、大きな魚が一尾、横向きに挟まっていた。
俺は思わず、腹の奥で笑った。
『挨拶より、そっちが先か。俺も腹が減っている』
ガルは魚を砂利へ置き、前脚で押さえた。
俺も少し離れたところへ移り、川底へ視線を落とす。水面に映った夕日が眩しく、最初は魚の位置が見えなかった。
急いで飛び込む代わりに、岩の陰へ首を寄せて待つ。
ガルが食べ終えるころには、俺も何尾か腹へ収めていた。
それでも足りずに上流へ向かうと、あいつは途中まで付いてきたが、斜面の上から聞こえた鳴き声へ顔を向けた。
さっきの二頭のうち、一頭が岩場を動いている。
ガルは俺へ一度目を向け、それから翼を開いた。
俺が呼び止める前に、川岸を蹴って上がっていく。こちらへ戻ってくるかと思ったが、そのまま岩場へ下りた。
俺は首を上げ、その影が斜面の向こうへ消えるのを見送った。
群れへ戻ったのだろう。
そこで暮らしているなら、俺のために川へ残る理由はない。俺も食事を済ませ、ほかのワイバーンの休む場所から離れた砂利へ腹を下ろした。
◇
翌朝、川へ下りてきたのはガル一頭だった。
砂利を踏む音で顔を上げると、あいつは俺の寝ていた場所を眺め、それから、まだ冷たい川へ目を向けた。
俺は前脚を伸ばし、腹を地面から離した。
『今日は戻る。よかったら、途中まで一緒に飛ぶか』
西へ顔を向けて翼を開くと、ガルから、こちらへ近づこうとする意思が伝わってきた。
それだけで村まで来ると決まったわけではない。俺は先に川岸を離れ、ガルが上がるのを待った。
しばらくは二頭で川に沿って飛んだ。
俺が高度を上げると、ガルも少し遅れて上がってくる。尾根を越える前に大きく回って様子を見たが、向きを変えて帰ろうとはしなかった。
俺は速度を緩めたまま、西へ進んだ。
途中で休んだ岩場でも、ガルは俺の近くへ下りた。日が高くなり、見える川筋が変わってからも、一定の間隔で横を飛んでいる。
どうやら、もう少し先まで来るつもりらしい。
俺は人間の家が点在し始めたところで、進む方角を少し変えた。セドルの上空へ二頭で近づくのはやめ、外を回る。
村長には様子を見てくると伝えていたが、ガルを伴って急に町へ下りる方が、余計な騒ぎになる。町へ寄るのは、別の機会にすることにした。
ルーエへ近づいてからも、村の方へは向かわなかった。
ガルの姿を知る者は、まだ少ない。まずは、川の向こうにある俺の寝床へ案内したかった。
◇
岩の庇が見えたところで、俺はゆっくり高度を下げた。
村人たちが草を払ってくれた入口と、土を寄せた跡が、上からでも分かる。近くに人がいないのを確かめてから、手前の開けたところへ下りた。
ガルは一度上を回り、俺が翼を畳むのを待って、少し離れた地面へ着地した。
『ここで寝ている。雨が降っても、背中を濡らさずに済むんだ』
俺が庇の下へ入ると、ガルは入口まで歩いてきた。
鼻先を岩へ近づけ、次に、敷いてある草へ目を向ける。俺が腹を下ろしても、すぐに隣へ入ろうとはしなかった。
人間の匂いが気になるのかもしれない。
ここには村長も、木を集める男も、リナも来た。俺の寝床ではあるが、俺一頭の匂いだけがする場所ではない。
ガルはしばらく入口を確かめてから、庇の端へ身体を伏せた。
雨の当たらない場所には入っている。ただし、翼を開けばすぐ外へ出られる位置だった。
俺はそちらへ身体を寄せず、顎を草へ載せた。
自分が落ち着いたあとで気づいたが、ここへ別の魔獣が腹を下ろしているのを見るのは、初めてだった。
岩の下で二頭分の呼吸が聞こえる。
ガルは目を閉じず、川の音がする方へ顔を向けていた。
◇
村から人が来たのは、俺たちが休み始めてから少し経ってからだった。
草を踏む音にガルが首を上げ、俺も入口へ目を向ける。沢沿いの道に、籠を背負った男が立っていた。
俺の寝床を作る時に手伝ってくれた村人だ。森へ行った帰りなのだろうが、ガルの姿を見て、その場で足を止めていた。
ガルの肩が持ち上がる。
俺は先に男へ声を掛けた。
『そのまま待っていてくれ。俺の知っている相手だが、人間の傍で暮らしているわけじゃない』
男は頷き、背負った籠を地面へ下ろさずに待った。
俺は身体を起こし、庇の下から外へ出る。ガルが後ろへ下がれる場所を空け、自分も男へ近づきすぎないところで止まった。
『戦場の近くで会ったワイバーンで、ガルと呼んでいる。今日は俺に付いてきたんだ』
「では、近づかない方がよさそうですな。私はここから村へ戻ります」
『村長へ、戻ったと伝えてくれるか。ガルも来ている。あとで俺から話す』
男はもう一度頷くと、ゆっくり道を戻り始めた。
走らずに離れてくれたのは、助かった。ガルも目で追っていたが、庇の下から出ていこうとはしない。
俺はその様子を見ながら、ここへ案内するなら、先に人間にも知らせておくべきだったと考えた。
俺は二日ほど留守にすると伝えていた。男が驚いたのは、俺が戻ったことより、寝床に別の魔獣がいたからだろう。
会えたのが嬉しくて、その先のことまで考えていなかった。
俺はガルへ、争う必要がないという気持ちを向けた。
向こうから返ってくる警戒は、少しずつ薄くなった。やがて肩が下がり、頭も地面へ近づいていく。
俺も庇へ戻り、さっきと同じ場所へ伏せた。
村の人間を急にここへ集めるつもりはない。ガルが帰りたくなれば、そのまま飛び立てるように、入口も空けておいた。
そうして待っているうちに、隣から長く息を吐く音がした。
ガルの顎が、敷いてあった草へ下りている。
俺は顔を向けすぎないようにして、自分も目を閉じた。
村長へ話しに行くまで、もう少しだけ、このまま休んでいたかった。




