第92話 竜が運ぶ、一本の木
「ヴァル、その木は、真ん中で折らずに運べそうでしょうか」
幹へ前脚を掛けようとしていた俺は、大工の声で動きを止めた。
森の斜面に倒れた木は、根元から先まで見渡すだけでも、かなりの長さがある。村へ運ぶなら、邪魔な枝を落とし、持ちやすいところで折るつもりだった。
だが、大工は幹の表面へ手を当て、しばらく木目を追ってから、俺を見上げた。
「ここまで真っすぐな部分は、長く残したいんです。短い木で済む仕事もありますが、長い木でなければ直せないところもありますから」
『俺が勝手に折ったら、使い道が減るわけか』
「はい。持って帰ってから切る方が、家に合わせられます」
俺は前脚を下ろし、木の端から端まで、もう一度眺めた。
今朝、村へ顔を出した時には、男と一緒に森へ行き、使える木を選んでもらう約束をしていた。村長が木を集める男へ案内を頼み、もう一人、鋸を扱える村人も加わっている。
人間たちは道を歩き、俺は上から木々の切れ目を探した。全員が沢の傍の開けた場所へ着くのを待ってから、森の縁に沿って、ここまで来たのだ。
倒木を見つけた時は、すぐ終わる仕事だと思った。
どうやら、運ぶ前にも考えることがあるらしい。
◇
大工の名は、トーヴェンといった。
村長に呼ばれて知ったその名前を、俺は倒木の傍で口にした。
『トーヴェン。俺には、どこが使えて、どこが駄目なのか分からない。残す場所と、力を掛けていい場所を教えてくれ』
彼は頷き、道具袋から小さな斧を出した。
「先に枝を落とします。持ち上げる時に、ほかの木へ引っ掛かると危ないので」
案内をしてくれた男が、倒木の下側へ回り込む。
そこには、折れた枝が地面へ突き刺さるように残っていた。幹そのものが浮いているように見えたのは、それらに支えられていたからだった。
俺が木を動かせば、下へ潜った人間を挟んでしまう。
『全員が離れるまで、俺は触らない。下を見たいなら、先に済ませてくれ』
男が屈み、枝の間から地面を覗いた。幹の下へ身体を入れず、細い棒で落ち葉を払っている。
その間、トーヴェンは根元の割れたところへ斧を入れた。表面を薄く削ると、その下から、明るい色の木が現れる。
「ここは残っています。沢の向こうで見たものより、ずっといい」
ここへ来るまでにも、倒れた木を何本か見ていた。
俺なら運べると思ったものの一つは、触っただけで皮の下が崩れた。別の木は、真っすぐに見えても、割れ目が幹の奥まで走っていたらしい。
トーヴェンは使えない理由を短く説明すると、案内の男へ礼を言い、次の場所へ進んだ。見つけた木を全部欲しがるわけでも、俺に立ち木を倒させようとするわけでもなかった。
ようやく選ばれた一本だ。
俺は傍の土へ腹を下ろし、人間たちが枝を払うのを待った。
斧を振るう者と、落とした枝を引き出す者が、声を掛け合って動く。幹の反対側へ鋸を入れていた村人は、歯が挟まると無理に引かず、トーヴェンを呼んだ。
二人で枝の重さを支え直すと、また鋸の音が続き始める。
俺の爪なら、一度で折れる枝だろう。
だが、残したい幹まで裂かないように切るには、人間の道具と手が必要だった。
鼻先へ飛んできた木屑を息で払うと、幹の向こうにいた男が顔を上げた。俺は慌てて口を閉じ、首を風下へ向け直した。
手伝うつもりで、仕事を増やすところだった。
◇
枝が落ち、根元の割れた部分を切り離したころには、日が高くなっていた。
人間たちは少し離れて水を飲み、俺は沢へ首を伸ばした。口へ流れ込む冷たい水で喉を潤してから戻ると、トーヴェンが地面の草を払っていた。
木を、まずそこへ動かしてほしいという。
「一度、平らなところへ出しましょう。斜面に載ったままでは、どちらへ転がるか分かりません」
『持ち上げて、そのまま運ぶつもりだったが、先に下ろせる場所を作るんだな』
「爪を掛ける位置も、見やすくなります。重さが偏っていれば、その時に分かると思います」
彼らが退いたのを確かめ、俺は幹の中ほどへ前脚を掛けた。
少し押すと、下に残っていた細い枝が折れ、木が低い音を立てて動いた。反対側の端が斜面へ向きかけたので、脚を止め、胸を寄せる位置を変える。
重くて動かないのではない。
力を掛ける場所が悪ければ、俺の思わぬ方へ動いてしまうのだ。
土を掘り返さないよう、幹を少しずつ草の上へ出した。最後に根元側の端が落ち着くと、待っていた人間たちが戻ってくる。
トーヴェンは幹を確かめ、持ち上げる場所を二か所、指で示した。
俺は後脚の爪で幹を掴み、翼を広げた。
すぐに飛び上がらず、まずは重さを脚へ受ける。太い方へ引かれる感覚があったので、片方の脚の位置をずらし、もう一度確かめた。
その動きに、トーヴェンの目が向けられている。
『こっちの方が、落ち着く。さっきの場所だと、根元側へ傾きそうだった』
「それでお願いします。下からは、重さまでは分かりませんでした」
人間たちが森の道へ下がり、木の下にも、翼の届く範囲にも誰もいなくなった。
俺は爪を掛け直し、地面を蹴った。
翼を打ち下ろすと、落ち葉が一斉に裏返った。腹の下で木が地面を離れ、肩から背へ、普段とは違う重さが伝わる。
幹の端が揺れたが、枝は残っていない。
俺は森の外へ真っすぐ上がり、木々へ十分な間隔を取ってから、村の方へ向きを変えた。
いつもなら、もう少し高く飛ぶところだった。
だが、脚の下に長い木がある。急に曲がれば端が大きく振れそうだったし、村まで競争をしているわけでもない。
森を歩く人間たちの姿が見えなくなってからも、俺はゆっくり翼を動かした。
◇
村へ着くと、木を下ろすつもりだった草地に、リナが立っていた。
一人ではない。村長と、畑から戻ったらしい男たちもいる。
俺の姿に気づいたリナが手を上げかけ、そのまま空中で止めた。視線が俺の脚の方へ下がっていく。
『そこへ下ろす。道の向こうまで離れていてくれ』
声を掛けながら草地を一度通り過ぎ、大きく回って戻る。
その間に村長が皆を下がらせてくれた。俺は木の長さと地面の傾きを確かめ、速度を落として近づいた。
村の上は通らない。
家並みの外へ回り込み、翼で身体を支えながら、幹の太い端をゆっくり地面へ触れさせる。そこから細い方を下ろすと、草が潰れ、乾いた土がわずかに上がった。
爪を離して脇へ着地した時、ようやく息が抜けた。
運んでいる間より、下ろす時の方が気を遣った気がする。
道の向こうで待っていた村長が、木の端へ歩いてきた。
「立っているところは何度も見ていますが、こうして横になると、長いものですな」
『途中で折ろうとしたら、止められた。長いままの方が役に立つらしい』
村長は幹を眺め、隣の男と何か話し始めた。
リナは俺の傍まで来ると、草地に残った爪の跡を覗いた。
「家の屋根に使う木なんでしょう。これを全部、あの大工さんが切るの?」
『ほかの家で使う分も取れるそうだ。俺には見分けがつかないから、切る場所は任せる』
彼女は木へ目を向け、俺の脚と見比べた。
森から運べば、これくらいの木でもすぐ着く。人間が引こうとしたら、道の枝を払い、足場を直し、何人も集めなければならないのだろう。
ただ、ここへ置いたままでは、長い木が一本増えただけだ。
俺は村長へ、人間たちが戻るまで動かさずに待っていてほしいと頼んだ。
◇
トーヴェンたちが戻ってきたのは、昼を過ぎてからだった。
幹の周りを一度歩き、傷が増えていないのを確かめると、彼は道具袋を地面へ置いた。
「ありがとうございます。これなら、長いところを取れます」
『途中で少し揺れたが、落としはしなかった。ほかにも運ぶなら、あの草地まで出しておいてくれると助かる』
「先に、これを使う順番を決めます。たくさん運んでもらっても、切る方が追いつきませんから」
彼が言うと、村長が頷いた。
持ってくる木の数だけ増やしても、仕事が早く終わるわけではないらしい。
トーヴェンは村長と一緒に、修理を頼まれている家の方へ歩いていった。俺は草地で休み、その間に案内をしてくれた男たちから、森の別の場所にも倒木があるという話を聞いた。
次に見る時は、運べそうかどうかだけで決めずに済む。
どこまで木が残っているかを確かめるトーヴェンの手つきを思い出し、俺は土のついた前脚を眺めた。
あの細かな仕事はできないが、選んでもらったものを運ぶことならできた。
ほどなくして、彼の妻と子供がやってきた。
妻は包みを抱え、夫の姿を探して家並みへ目を向けている。中身を尋ねる前に、子供が小さなものを両手で持ち上げた。
「お父さんが、これを作ってくれた」
俺は首を低くした。
掌に載るほどの木片に、脚と尾が付いている。背中には二枚の翼が広がり、頭の先には小さな角まであった。
竜だと分かる形だった。
木目を残した胴は丸く、触って怪我をしないようにしたのか、翼の端も滑らかに削ってある。
『俺を見て作ったのか。翼まであるんだな』
「こうやって飛ばせるんだよ」
子供が木の竜を持ち上げ、俺の顔の前で動かした。
さっきまでは母親の傍へ立っていたのに、今は自分の足で少し近づいている。俺はその場を動かず、小さな竜が鼻先を横切っていくのを眺めた。
家の間から戻ってきたトーヴェンが、それを見て歩みを緩めた。
「朝から、見せると言っていたんです。仕事で残った木ですが、気に入ったようで」
『よくできている。俺の爪じゃ、最初に触ったところで割ってしまいそうだ』
彼は子供へ目を向け、口元を緩めた。
妻が抱えていた包みを開くと、中にはパンと卵が入っていた。昨日直した戸の礼にと、村の女が持ってきてくれたそうだ。
「今夜は、これを食べましょう。卵を割らないうちに、家へ置いてくるね」
そう言われた子供は、木の竜を胸へ抱え直した。
トーヴェンは妻の包みへ一度手を添え、それから草地の大木を振り返る。
「午後は、あちらの家を見てきます。長い木があれば直せると言ったら、家主がすぐ来てくれました」
村長が、家の前から彼を呼んだ。
トーヴェンは道具袋を拾い上げ、妻へ声を掛けてから、そちらへ向かった。俺も頭を上げると、並んで歩いていた子供が振り返り、木の竜を高く持ち上げた。
俺は翼を半分だけ開いて見せた。
子供の手の中でも、小さな竜が同じ方へ傾く。母親に道を見て歩くよう言われるまで、その翼は上下に揺れていた。
草地には、森から運んだ木が横たわっている。
その傍へ、村人が二人、鋸を持ってやってきた。俺は作業の邪魔にならないところまで身体をずらし、トーヴェンが戻ってくるのを待った。




