第91話 この村で、家を直す
荷車から下りた子供は、母親の服を掴んだまま、俺を見上げていた。
父親から話を聞いていても、目の前に竜が寝そべっていれば怖いのだろう。俺が顔を向けると、細い肩が母親の陰へ隠れたので、首を動かすのをやめた。
代わりに、少し離れた場所から家族を待っていた村長が、村の入口を指した。
「今夜は私の家で休んでください。三人が横になる場所くらいは空けられます。荷車は、道から外しておきましょう」
「ありがとうございます。荷を下ろしたら、薪割りでも何でもお手伝いします」
「それは明るくなってからで結構です。暗いところで刃物を使われて、怪我をされても困りますからな」
村長が先に歩き出すと、男は背負っていた道具袋を持ち直し、妻を促した。
荷車には、家族の物と思われる包みがいくつか残っている。大きな家具も、食料を積んだ樽もない。ここまで来る間に使い切ったのか、最初から持ち出せなかったのかは、見ただけでは分からなかった。
男は村へ入る前に、もう一度こちらを振り返った。
「セドルで、竜に助けられたという人たちに会いました。西へ逃げる道を守ってもらったと聞いて、それなら、家族を連れていける場所かもしれないと思ったんです」
俺が助けた人の中に、この男へ話をした者もいたらしい。
戦場では、逃げる人を道へ通すだけで精一杯だった。その先で誰と会い、何を話していたのかまでは、知らなかった。
『ここには俺だけじゃなく、暮らしている人たちがいる。まずは休んで、明日、村長と話してくれ』
「はい。仕事をさせてもらえるなら、長く置いていただきたいと思っています」
男が頭を下げる間、子供は母親の陰から顔だけを出していた。
その目が俺の翼へ向き、次に尾の方へ動く。怖がってはいるが、気にもなるらしい。
俺は身体を伏せたまま、家族が村へ入っていくのを見送った。
◇
翌朝、村へ戻ると、男は入口に近い家の前で戸板を外していた。
家の中から椅子を運んできた村長が、俺に気づいて手を上げる。昨夜は遅くなったので、家族の話は食事をさせるだけで終え、詳しいことは今朝聞いたそうだ。
「この家なら使えるかと思いましてな。村で預かっている空き家ですが、雨漏りがひどくなってからは、物も置かなくなっていました」
村の端にある、小さな家だった。
屋根の片側が沈み、軒先の板も何枚か外れている。戸は閉まりきらなかったらしく、入口の土には、板を引きずった跡が残っていた。
俺は家から離れた草地へ腹を下ろし、戸を持ち上げている男へ目を向けた。
『住めそうな具合か』
「屋根を開けてみないと、どこまで傷んでいるかは分かりません。ただ、柱の下はまだ堅いです。戸も、こちらを削ってやれば使えます」
男は戸板の端を示し、足下へ置いた。
昨日は何度もこちらへ頭を下げていたが、今は手元を見て話している。木の表面を指で撫で、反りを確かめる動きに迷いがなかった。
「先に屋根を見ます。残せる木まで外すと、材料も手間も増えますから」
そう言って道具袋を開けると、使い込んだ鋸と、小さな鉋を取り出した。
村長の話では、男は家を建てる仕事だけでなく、戸や荷車の木の部分を直すこともできるらしい。逃げる途中でも、持っていける物を減らしながら、道具だけは残してきたという。
家の横では、妻が草を払っていた。
まだ眠そうな子供が入口の椅子へ座り、膝に載せた包みを抱えている。家の中へ入らないのは、男が屋根を確かめるまで待つよう言ったからだった。
『俺に動かせるものがあれば、言ってくれ。家の中へは入れないが、外なら手を貸せる』
男は俺の前脚へ目を向け、それから家の大きさを見た。
「ありがとうございます。今は、外した板を置く場所を空けたいです。あちらの石なら、少し脇へ寄せてもらえるでしょうか」
示されたのは、草地の端に半ば埋まった石だった。
俺は家との間隔を確かめてから前脚を伸ばし、爪を土へ差し入れた。人間には両腕でも抱えにくい石だが、俺には指先で押せる大きさでしかない。
それでも、勢いをつければ、その先にある柵まで壊しかねない。土から浮かせた石を少しずつ転がし、男が指した場所で止めた。
「そこで大丈夫です。助かりました」
男は空いた場所へ二本の木を並べ、その上へ戸板を寝かせた。
俺が石を動かしている間にも、もう次の仕事を考えていたらしい。
◇
昼前には、家の前へ何人かの村人が集まっていた。
全員が仕事を休んで来たわけではない。畑へ行く前に梯子を運んだ者もいれば、使えそうな板を二枚だけ置いて帰った者もいる。村長が頼んで回るうちに、軒下の長さを測ってほしいという話まで持ち込まれた。
男は梯子から下りると、屋根の上で外した板を妻へ渡した。
「こちらは、もう使えません。端が少し傷んでいるだけのものは、別にしておいてくれ」
妻は受け取った板を地面へ置き、積む場所を分けた。
俺から見れば、どちらも古い木に見える。だが男が指先で押すと、駄目だと言った方は、乾いた音を立てて欠けた。
屋根の下へ雨が入り、支える細い木まで腐っていたらしい。そこを取り替えるために、上の板を幾枚か外す必要があった。
「直せるところだけ塞いでも、また落ちます。ここは一度、開けさせてください」
梯子を支えていた村人が、屋根を見上げて頷いた。
「俺の家の余りなら、短いのがある。長さが足りるか見てもらおう」
「お願いします。こちらへ継げるなら、新しく切る分を減らせます」
二人が木を見に行く間、俺は外された板の山を眺めていた。
こんなに傷んでいた家へ、住む場所のない家族が来た。普通なら、困り事が増えたように見えるだろう。
ところが、木の扱いを知っている男が手を入れると、使えないと思われていた家から、残せるものが見つかっていく。村人が持ってきた半端な板にも、置く場所ができていた。
俺にできるのは、重いものを動かすことくらいだ。
それでも、家の中で仕事をしている者を待つのは嫌ではなかった。木を削る音が途切れるたび、入口から何が出てくるのか、つい首を向けてしまう。
午後になると、草地を渡る風が強くなった。
男が屋根へ持ち上げた板の端を押さえ、梯子の下にいる村人へ何か言っている。その声が風に流され、聞き取りにくくなった。
俺は頭を上げ、家の向こうにある木々を見た。
『そちらへ風が抜けているな。俺が風上へ回れば、少しは弱まるかもしれない』
男は屋根の上から俺を見た。
「来てもらえるなら助かります。ただ、こちらの梯子へ近づきすぎないよう、お願いします」
俺は尾を引く場所を確かめ、家から離れた草地を回った。
風上へ身体を伏せ、家と反対側へ脚を収める。それから片方の翼を、ゆっくり持ち上げた。飛び立つために打ち下ろすのではなく、風を受ける角度で止める。
翼膜が張り、肩へ押される重さが掛かった。
屋根の上で暴れていた男の服が、少し静かになる。彼は板を置き直し、下にいる村人へ声を掛けた。
「そのまま押さえていてください。先に、こちらを留めます」
槌の音が続き、板が屋根へ収まっていく。
俺は翼を動かさず、風の向きが変わるたびに肩の角度だけを少し直した。
戦場では、翼を守るために身体を捻った。今はその翼で、一軒の家に当たる風を遮っている。
屋根の上にいる男は、俺を振り返らずに仕事をしていた。
◇
日が傾くころには、大きく開いていた屋根の穴が塞がった。
ただ、それで全部が済んだわけではない。
男は梯子を下りると、入口に立って屋根を見上げた。家の中へ回り、薄暗い天井を確かめてから、待っていた妻へ首を振る。
「下の木をもう一本替えたい。今夜も、村長さんのところへ頼もう」
妻は残っていた包みを抱え直した。
ここへ置けると思っていた荷物なのだろう。少しだけ目を伏せたが、すぐに子供へ手を差し出した。
「もう一晩、お世話になりましょう。明日は、床も綺麗にしておくから」
俺は畳んだ翼の付け根を動かしながら、そのやり取りを聞いていた。
風を遮ったくらいで、今日のうちに家が直ると思っていた自分が、少し恥ずかしかった。外から見える穴が塞がっても、住めるかどうかは別らしい。
村長は、男が言い出す前に家の方へ歩き始めた。
「夕飯の支度を頼んであります。明日の木は、朝に探しましょう」
男は道具を布で拭き、一本ずつ袋へ戻した。
その手元を見ていた子供が、小さな木片を拾って父親へ渡す。削ったあとに出たものらしく、片側が綺麗に丸くなっていた。
「これは捨てなくていい。後で、何か作ってやる」
男が受け取って袋へ入れると、子供はようやく父親の顔を見て笑った。
俺も草地から立ち上がった。
ここで身体を揺すれば、まだ並べてある板へ土が掛かる。家から十分に離れてから脚を伸ばし、村長たちとは反対へ歩き出した。
今夜、俺には雨を避けられる寝床がある。あの家族にも、早くそういう場所ができればいいと思った。
◇
家の戸がきちんと閉まるようになったのは、その翌日の午後だった。
男は残してあった戸板を削り、金具を付け直すと、何度か開け閉めして具合を見た。昨日まで地面を擦っていた下端が、土を掻かずに動いている。
中では妻が床を掃き、開いた窓から埃を外へ出していた。家族の荷物は、まだ入口の外にまとめてある。
男が戸を開けたまま、村長へ場所を譲った。
「屋根と床は見ました。まだ直したいところはありますが、三人で寝る分には使えます。雨が来たら、漏れるところがないかも確かめます」
村長は家へ入り、窓の下や壁際を見て回った。
俺には入口の中まで覗き込めないので、外から待つしかない。やがて戻ってきた村長が、家族の荷物を指した。
「中へ入れていいでしょう。使えるようにしてもらえて、こちらも助かりました」
妻が包みへ手を掛け、男も道具袋を肩から下ろした。
「ここで暮らさせてください。畑の仕事は教えてもらわないと分かりませんが、家の修理なら働けます」
「では、明日は私と村を回ってください。直したいという話が、もういくつも来ていますからな」
村長が言うと、男は一度、自分の直した戸へ目を向けた。
それから、昨日よりもしっかりした声で礼を言った。
俺は家族が荷物を運ぶのを見ながら、村長へ声を掛けた。
『木が必要なら、森で倒れているものを見てくる。使えるかどうかは、この男に選んでもらいたい』
「それはありがたい。薪にするつもりだった木も、一度見てもらいましょう」
家の中から出てきた男が、こちらへ頷いた。
「運んでいただく前に、私も見に行きます。重いものを動かせるなら、切り方も変えられますから」
俺は森の方を見た。
自分だけなら、邪魔なところを折って運ぶだろう。それでは捨てることになる部分も、この男なら何かに使えるのかもしれない。
家の入口では、子供が戸を開けたり閉めたりしていた。
母親に指を挟まないよう注意されると、今度は取っ手を両手で握り、ゆっくり引いている。隙間が閉じる寸前で、内側からこちらへ顔を出した。
「竜は、ここへ住まないの?」
俺は家の屋根と、自分の肩を見比べた。
『俺には、少し小さいな。川の向こうに寝床を作ってもらったから、そっちへ帰る』
子供も同じように俺の肩を見上げ、納得したらしく、取っ手へ目を戻した。
男が入口の脇へしゃがみ、閉まる時に引っ掛からないか、最後に確かめている。
俺はその手が離れるのを待ってから、草地へ下がった。
村には、まだ直してほしい家がある。森には運べる木もあり、俺には、それを持ってくる力があった。
男は道具を家の中へ運び込み、開けておいた戸を、家族のいる方へ引いた。




