第90話 竜の家を作る
村へ戻ってから二度目の夜は、雨だった。
鱗へ落ちる水は大して気にならなかったが、鼻先へ雫が掛かるたびに目が覚めた。少し首を動かせば避けられるものの、今度は顎の下へ水が流れ込んでくる。
夜明けには雨が上がった。
俺は草地から身体を起こし、前脚についた泥を見下ろした。寝ている間に腹の下まで濡れていたらしい。村から離れたところで水を振り落とすと、翼の縁から雫が飛んだ。
戦場では、横になれるだけでもありがたかった。
だが、せっかく戻ってきたのだから、もう少し寝心地のいい場所が欲しい。村の家へ入れない大きさになった以上、自分の寝床も探し直す必要があった。
俺が森の方を見ていると、道を歩いてきた村長に呼ばれた。
「ちょうどよかった。お前の寝るところを、少し見に行かんか。昨日、薪を取りに行った者から話を聞いてな」
『俺も探そうと思っていたところだ。ここでは、雨が降ると顎の下まで水が来る』
「今朝の泥を見れば分かる。昨夜のうちに、もう少し早く思いつけばよかったが」
村長は俺の腹の下へ目を向け、申し訳なさそうに眉を寄せた。
『一晩くらいは平気だ。場所を知っているなら、案内してくれ』
◇
村長が話を聞いた相手は、薪取りに使う背負子を持って待っていた。
村の裏から沢へ下り、斜面を回った先に、大きく張り出した岩があるという。ただし、人間の通る道は木々の間を縫っているので、俺がそのままついていくのは難しかった。
男に方角と沢の曲がり方を教えてもらい、俺は空から回ることにした。
『近くの開けたところへ降りて待つ。岩の上には降りないから、下まで来たら声を掛けてくれ』
「沢の手前に草地がある。あそこなら、家も畑もないよ」
言われた通りの場所は、上からでも見つけられた。
沢沿いの木々が途切れ、その奥に岩肌が出ている。俺は草地へ降り、翼を畳んで待った。しばらくすると、木の間から男が手を振り、その後ろに村長の姿が見えた。
岩は斜面から大きく突き出していた。
下は奥へ抉れ、洞窟と呼ぶほど深くはないが、雨を避けられる広さがある。入口の前は開けており、木々も俺の翼へ届かない。
俺は首を低くし、張り出した岩の下を覗いた。
枯れ葉と細い枝が溜まっている。大きな獣が寝ていた形跡は見当たらず、地面の奥の方は、昨夜の雨のあとでも乾いていた。
『広さは足りそうだな。少し入ってみるから、離れていてくれ』
村長たちが草地へ下がるのを待ち、俺は一歩ずつ身体を入れた。
肩を少し下げれば、岩へ擦らずに通れる。翼をきちんと畳み、尾を入口側へ伸ばして腹を下ろすと、頭から背中までが岩の下へ収まった。
村長が横から確かめてくれる。
「尾の先は出ておるが、身体は隠れるな。奥へ詰めれば、もう少し入るか」
『今の位置なら、寝返りを打たずに首を動かせる。これ以上は詰めない方がよさそうだ』
尾まで無理に押し込めようとすれば、出入りする時に苦労するだろう。身体を起こす余裕も残しておきたかった。
俺は顎を下ろした。
乾いた土の匂いがする。頭上から雫が落ちてくることもない。
昨日まで寝ていた草地より、ずっとよかった。
◇
村へ戻って話をすると、昼前には何人かが道具を持って集まってきた。
鍬と籠、長い棒に縄まである。俺はまた草地へ降り、村長たちが来るのを待っていたが、道具の多さを見て少し驚いた。
『寝る場所の葉を退けるだけなら、俺でもできるぞ。皆の仕事は大丈夫なのか』
「昼までなら手を空けられる者に来てもらった。畑を放っておくわけにはいかんので、午後は戻る」
村長は背負ってきた籠を下ろした。
「それに、お前の脚で掻けば、土まで随分持っていくだろう。まずは、わしらに見せてくれ」
俺は張り出した岩から離れた。
男たちが中へ入り、棒で落ち葉を寄せ始める。奥に溜まった細い枝を籠へ詰め、石を拾って外へ運び出した。
草地から眺めていると、寝床の広さが改めて分かった。
俺が腹を下ろす場所で、人間が何人も並んで働いている。自分一頭が休むために、これほど場所を使うのだと思うと、少し落ち着かなくなった。
手伝えることを探していると、一人の男が入口の横にある倒木を指した。
「ヴァル、あれを向こうへ寄せてもらえるか。出入りするたびに跨ぐことになる」
根から倒れて、ずいぶん経った木だった。
俺は幹の下へ爪を差し込んだが、持ち上げかけたところで、乾いた木が割れる音を立てた。慌てて力を緩めると、男が近づいてきて、少し太い部分を指す。
「こっちの方が残ってる。そこを押してくれれば、あとは転がせる」
『分かった。手を離してくれ。動かすぞ』
男が下がったあと、俺は前脚を当てて押した。
幹が回り、下へ溜まっていた葉がこぼれる。もう一度押すと、倒木は入口から外れ、草地の端で止まった。
「それくらいでいい。薪にする分は、あとで割るよ」
男はもう次の枝を拾っていた。
俺も足を引き、踏み潰さずに済んだ木を眺めた。何でも一息で片づけようとしなければ、手伝えることはありそうだった。
◇
地面を出してみると、入口の近くには浅い窪みがあった。
昨夜の雨水が少し残っており、土へ触れた男が、ここはそのままでは濡れると言った。
「寝るのは奥だから、すぐには困らんと思う。ただ、出る時に毎回泥を踏むことになるな」
別の者が鍬で外の土を掻き、溜まった水の行き先を探した。俺は横から首を伸ばしたが、村長に顎の置き場所を少しずらしてくれと頼まれる。
見ようとして近づいただけで、作業する場所を塞いでいた。
俺は首を引き、人のいない方へ身体を伏せ直した。
村人たちは浅く土を切り、水が外へ抜ける筋を作った。深い溝を掘るのではなく、入口の低いところから、草地の傾いている方へ流すだけだ。
水が動き始めると、男は鍬を止め、しばらくその流れを見ていた。
『土を運ぶなら、何かに載せてくれ。爪で掴むより、その方がこぼさずに済む』
「では、この皮へ載せよう。端を咥えて引いてもらえるか」
古い皮へ土を積み、縄を掛ける。俺は縄を歯の間へ挟み、男に教えられた場所まで、ゆっくり引いた。
人間が何度か往復する量でも、俺には大した重さではない。それでも、引き始める時には力を抑えた。皮が破れれば、土を積み直す方が大変になる。
三度ほど運ぶうちに、入口へ乾いた場所が広がった。
奥では、運び出した枝の代わりに、乾いた草を敷いている。俺の身体なら、柔らかくしたつもりでも、寝ればすぐ潰れてしまうかもしれない。
それでも、男たちは籠を空けるたび、足で草を広げてくれていた。
◇
リナが来たのは、日が高くなってからだった。
水の入った袋を抱え、先に歩く女のあとへ続いている。俺を見つけると手を上げたが、すぐには近づかず、村人たちが働いている方を覗いた。
「ここが、ヴァルの寝るところになるんだね。村から来る道も、思っていたより歩きやすかったよ」
『俺は途中を通れないから、上から回ってきた。リナたちには近くても、俺には少し遠回りだな』
「木の間を無理に通るより、その方がいいと思う。あそこ、背負子を引っ掛けそうになるところもあったから」
リナは運んできた水を女へ渡した。
皆が順に手を止め、草地へ出てくる。日向へ置いた道具を木陰へ寄せ、俺の寝床にする場所を眺めながら腰を下ろした。
村長が、俺にも一度横になってみるよう言った。
俺は人が外へ出たことを確かめ、ゆっくり岩の下へ入った。乾いた草を踏む音がして、腹を下ろすと、土の硬さが少し和らぐ。
顎も、濡れずに置けた。
『これなら眠れそうだ。朝来た時より、ずっと具合がいい』
男の一人が、入口から俺の肩と岩の間を見た。
「立つ時に頭を上げすぎなければ、大丈夫そうだな。入口の石は、もう少し外へ退けておく」
俺が身体を起こすと、彼は残った石を拾いに入った。リナはその手前で待ち、俺の横顔が見えるところへ回ってくる。
彼女の持っていた布の端から、木の椀が覗いていた。
「皆の分を持ってきたの。ヴァルには小さすぎるけど、水は沢で飲めるんだよね」
『ああ。俺の分は気にしなくていい。ここまで運んでくれた連中に、先に飲ませてやってくれ』
リナは頷き、椀を持って村長の方へ戻った。
水を飲む音や、道具を置く音が、岩の下まで届いてくる。俺は横になったまま、その様子を見ていた。
いつもなら、村人たちが困っているところへ俺が来る。
今日は俺のために、皆がここまで歩いてきてくれたのだ。
◇
昼を過ぎると、村人たちは少しずつ畑へ戻っていった。
最後まで残った男が、入口の外へ棒を二本立てた。俺が何に使うのか見ていると、間へ縄を渡し、濡れた布を掛ける。
「しばらく乾かしておいてくれ。明日、薪を取りに来る時に回収する」
『俺が出入りする時、引っ掛けない場所へ頼む』
「そこは見てある。こっちなら、お前の翼からも離れてるだろう」
男は岩と俺の身体を見比べ、棒をもう少し外へ差し直した。
寝床の中には乾いた草が広がり、入口の脇には、薪にする木が積まれている。村へ続く道の口も、俺が見つけやすいように、落ちた枝を寄せてくれていた。
リナは帰る前に、岩の下をもう一度見た。
「雨が降っても、今夜は眠れそうだね。明日、水を汲みに来る時に寄ってもいい?」
『起きていたら話そう。寝ていたら、顔の横で呼んでくれ。尾の方から近づかれると気づきにくい』
「分かった。村長も来るなら、一緒に案内するよ」
村長は、明日はまず畑だと言いながら、道具を肩へ担いだ。
二人の姿が木々に隠れるまで見送り、俺は入口の外へ出た。
翼を広げても、枝には当たらない。地面を蹴って浮き上がり、沢へ下りる場所も、空からならすぐに分かった。
ここなら、自分で水を飲みに行ける。腹が減れば、村人の使う場所を避けて狩りにも出られる。
俺は一度だけ岩の上を回り、草地へ戻った。
さっきまで人が集まっていた場所には、まだ靴の跡が残っていた。
◇
その日の夕方、村から一人、俺を呼びに来た。
最初は、畑で何かあったのかと思った。だが、道を上がってきた男は息を整えると、村へ荷車が一台着いたのだと言った。
「セドルから来たそうだ。ヴァルに会いたいと言っているが、村長が先に用を聞いている」
『分かった。俺は空から回る。村の中へは入れないから、いつもの草地で待つと伝えてくれ』
男が引き返すのを見届け、俺は岩の下から出た。
荷車は村の外に止まっていた。
遠くから降りる俺を見て、荷台の布が動く。人の顔が二つ覗き、すぐにまた引っ込んだ。馬を驚かせないよう離れた場所へ降りると、村長が一人の男を連れて歩いてきた。
男は何度も俺を見上げ、途中で足を止めた。
肩へ掛けた袋から、鋸の柄が出ている。着ている服は汚れていたが、袋の口は革紐でしっかり縛られていた。
「セドルで、こちらへ戻られたと聞きました。逃げる途中で助けられた者たちからも、ヴァル殿のことを聞いています」
俺は首を低くした。
『俺に会いに来たと聞いた。まず、何があったか話してくれ』
男は荷車を振り返った。
布の下から、女がこちらを見ている。その隣には、小さな子供の頭も見えた。
「家を失いました。家族は無事ですが、帰っても、今は住めるところがありません」
村長は口を挟まずに聞いていた。
男は肩の袋を下ろし、鋸の柄へ手を置いた。
「木を扱う仕事ならできます。こちらで、家を直す仕事でも、薪を割る仕事でもあれば、働かせてもらえないでしょうか」
俺は、自分の腹の下に残っていた乾いた草を思い出した。
今日、俺の寝る場所は、村人たちに手伝ってもらってようやく整ったばかりだった。
村長を見ると、彼も俺へ顔を向けた。それから男の方へ戻り、荷車を指す。
「まずは、奥さんたちも下りて休ませなさい。働く話をするにも、家族を荷台へ置いたままでは落ち着かんだろう」
男が頭を下げ、荷車へ駆け戻った。
俺はその場へ腹を下ろした。村長も隣に立ったまま、家族が下りてくるのを待っていた。




