第89話 黒パンの村へ帰る
人間たちのいる場所へ戻ると、広場の釜が一つ片づけられていた。
火を落とした跡で、男たちが灰を掻き出している。傍には空の荷車が寄せられ、積み重ねた器や余った薪を運び込んでいた。
俺は建物から離れた草地へ降り、翼を畳んだ。着地の音に顔を上げた兵が、手を上げて奥へ声を掛ける。やがてガレスが出てきたが、こちらへ来る途中でも、荷車を動かす者へ何か指示していた。
『帰る支度をしているのか。釜まで片づけていたから、何か動きがあったのかと思った』
「明日、西へ戻す荷車だ。歩けない負傷者と、こちらで使わなくなった道具を載せる」
ガレスは俺の前で立ち止まり、背後の広場を見た。
「フェルゼン側から知らせが来た。大きな旗を立てていた本隊は、領境を越えて東へ抜けたそうだ。途中で捨てた荷車や、道具を降ろされた馬も見つかっている」
俺は首を持ち上げた。
東の空には、薄い雲が広がっていた。あの下のどこかを、敵だった人間たちが歩いているのだろう。
『戻ってきそうな動きはあるのか』
「今のところはない。失った荷も馬も、すぐには戻らん。ただ、こちらも全員を引き揚げさせるわけではない。残った兵が集落へ入っていないか、フェルゼンの兵と確かめている」
敵の旗が見えなくなれば、それで仕事が終わるわけではなかった。
広場の向こうでは、担架へ敷く藁を運ぶ者がいる。別の兵は車輪を外し、傷んだ軸を覗き込んでいた。戦うために必要だった荷車が、今度は人を帰すために使われる。
『俺にも、見ておく場所があるなら教えてくれ』
「明日の朝、東側を一度見てもらえると助かる。それが済んだら、お前も戻っていい」
ガレスはそこで、少し声を緩めた。
「ルーエにも、待っている者がいるだろう」
村の名前を聞くと、思っていたよりはっきり、リナの顔が浮かんだ。
俺は頷き、地面へ腹を下ろした。
◇
翌朝の空は、冷えていた。
俺は日が高くなる前に飛び立ち、敵が退いていった道を上から辿った。荷車の溝は何本も重なっていたが、西へ向かって新しく進む大きな列は見えない。
途中の開けた場所では、フェルゼン側の兵が、残された荷を調べていた。
俺が高度を落とすと、一人が顔を上げ、手にした布を振った。離れた場所へ降りて話を聞くと、昨日見つけた荷車を道から退けているところだという。
荷台には予備の車輪と、折れた槍の柄が積まれていた。運んでいた馬はおらず、車軸も大きく傾いている。
「使える物は持っていったようです。こちらへ置かれた荷は、壊れた物が多いですね」
『直せるかどうか、俺には分からない。持ち上げるなら手を貸せるぞ』
「では、車輪の下へ木を入れる間だけ、こちらを浮かせてもらえますか」
人を離してもらい、荷台の丈夫そうな部分へ前脚を掛けた。
少し持ち上げると、傾いていた車輪が土から離れる。兵たちは下へ木を差し込み、声を掛け合って位置を直した。俺が静かに下ろすと、荷車はようやく水平に近い形で止まった。
「助かりました。あとは、こちらで運べます」
兵が額の汗を拭い、道の先を指した。
「この辺りは引き続き見ます。村へ帰った人たちにも、何かあれば知らせてもらうよう話してあります」
俺はそこからもう少し東を見て回った。
空から見える範囲に、大きな旗も、こちらへ戻る荷車の列もなかった。ただし、木々の下まで見通せるわけではない。そのままをガレスへ伝えると、彼は手元の図へ目を落とし、地上を見てきた兵の話と照らし合わせた。
隣ではエルマーが、帰る者へ渡す包みを分けている。
俺が飛び立つ前から続けていた作業らしい。紐を結び終えると、次に来た男へ包みを渡し、行き先を確かめていた。
『俺は、西へ戻ろうと思う。まずセドルへ寄って、それから村へ帰る』
エルマーが顔を上げた。
「セドルでしたら、こちらの様子を伝えていただけると助かります。避難している方たちも、帰れる場所が増えたと聞けば安心するでしょうから」
『調べ終えた村からだな。まだ全員が戻っていいとは言わない』
「ええ。詳しい場所と人数は、人を通じて送ります」
ガレスは図を畳み、俺の方へ向き直った。
「ここまで助けてもらった。あとは、こちらで続ける」
差し出される手も、渡される物もなかった。それでも、彼が俺を見上げたまま言葉を待っていたので、俺も首を下げた。
『世話になった。お前たちも、ちゃんと飯を食ってくれ』
ガレスは口元を緩め、広場の釜を指した。
「出発する連中と一緒に食べる。お前がいない間に、全部片づけるわけにはいかんからな」
エルマーも仕事の手を止め、見送ってくれた。
俺は荷車の出入りする道を避けて歩き、広く空いた場所から飛び立った。
◇
西へ向かう途中、何度か地上へ降りた。
水を飲み、翼を休め、また空へ上がる。敵のいる場所を探していた時とは違い、今は通り過ぎた道を何度も振り返る必要がない。
それでも、遠くで煙が上がっていれば、つい目を向けてしまった。
近づいてみると、畑の脇で枯れ枝を焼いているだけだった。地上の男が俺を見つけ、慌てて鍬を置く。十分離れて通り過ぎると、その姿はまた小さくなった。
セドルへ着いた時には、荷車が門の前で列を作っていた。
以前は西へ逃れるために集まっていた人間たちの中に、今は東へ戻る者もいる。空の籠を重ねた荷車へ、鍬や布包みが載せられていた。
俺は門へ近づかず、外の草地へ降りた。
それでも、門番たちはすぐに気づいた。駆けてきた男へ名乗ると、彼は俺の顔を見上げ、ようやく息を吐いた。
「ヴァル殿でしたか。遠くから見えた時は、別の竜が来たのかと」
『驚かせたな。東から戻った。ガレスたちは残って、道と集落を調べている』
男は後ろの兵へ人を呼ぶよう頼み、俺の話を聞いてくれた。
伝えられるのは、自分で見たことと、ガレスから聞いたことだけだ。敵の本隊は退いたが、帰る先は一か所ずつ確かめている。まだ歩けない負傷者もいて、荷車で西へ送る支度をしていた。
話しているうちに、門の傍へ人が集まり始めた。
東の村の様子を尋ねる者もいたが、俺が知らないと答えると、門番が名前と村を聞き取り、別の者へ引き継いでくれた。
俺へ聞けば何でも分かる、という空気にはならなかった。
そのことに、少しほっとした。
◇
セドルで一晩休み、次の朝、ルーエへ向かった。
街の外で身体を伸ばしている間にも、人や荷車は行き来していた。俺のいる場所を大きく避ける馬もいれば、もう慣れたように顔だけ向けて通る人間もいる。
飛び立つ前に道が空くのを待っていると、昨日話した門番が手を上げた。俺も首を下げ、それから翼を広げた。
山が近づくにつれ、見覚えのある谷が増えてきた。
同じように見える森の中にも、岩の出方や沢の曲がり方には違いがある。まだ小さかったころ、腹を空かせて歩いた斜面を見つけた時には、思わず高度を落とした。
木々の間は、今の俺には狭すぎる。
あのころは身体を隠せた岩陰も、上から見れば小さな窪みにしか見えなかった。俺はその上を通り過ぎ、村から離れた、木の少ない場所へ降りた。
翼を畳み、足下を確かめながら歩く。
村へ続く道まで出ると、畑にいた男がこちらを見つけた。鍬を握ったまま固まったので、俺はそれ以上近づかずに声を掛けた。
『ヴァルだ。村長に、戻ったと伝えてもらえるか』
男は俺の顔を見てから、ゆっくり頷いた。道へ出て走り始め、少し行ったところで、村へ向かって大声で名を呼ぶ。
俺は畑から離れた場所へ伏せた。
尾を道へ出さないよう身体へ寄せると、それだけで草が広い範囲に倒れた。戻ってきたばかりで、誰かの仕事を増やしたくはなかった。
◇
村長と一緒に来たリナは、少し手前で足を止めた。
俺の前脚から肩へ目を移し、畳んだ翼を見て、それからようやく顔を上げる。俺が首を低くすると、彼女もまた歩き出した。
「おかえり、ヴァル。もう少し近づいても大丈夫だよね。私、ここからじゃ顔がよく見えない」
『前脚の外側までなら大丈夫だ。急には動かない』
リナは爪の前を通らず、横へ回ってきた。
その後ろで、村長が俺を見上げている。喜んでくれているらしいが、近くで見る身体の大きさには、さすがに戸惑っているようだった。
「戻ってきてくれて、よかった。東で戦っているとは聞いていたが、こちらでは詳しいことまでは分からんのでな」
『向こうの軍は退いた。まだ兵が残って道を見ているが、俺がずっと止めていなければならない状態ではなくなった』
村長は長く息を吐いた。
背後で様子を窺っていた村人たちへ顔を向け、聞いたことを伝える。何人かが肩の力を抜き、畑へ置いた道具を取りに戻っていった。
リナはまだ俺の傍にいた。
頬の横へ顔を近づけると、彼女が手を伸ばしかけ、それから一度、俺を見る。俺が動かずに待っていると、指先が鱗へ触れた。
「硬くなったね。前は、この辺りも、もっと小さかったのに」
『俺も、村へ続く道がこんなに細かったかと思っていたところだ』
リナは道を振り返り、それから俺の前脚へ目を落とした。
「柵の中まで来るのは難しそう。私たちが、こっちへ来る方がいいね」
俺は頷いた。
村長も畑と道の位置を確かめ、俺が休むなら、この場所の方がよいと言った。人が通る道を塞がずに済むし、村からも声を掛けに来られる。
リナが何か思い出したように、持っていた布を握り直した。
「家へパンを取りに戻るところだったの。少し持ってくるから、待ってて。今日は、またすぐ出かけたりしない?」
『しばらくここで休む。村の話も聞きたいからな』
リナは頷き、村へ戻っていった。
◇
村長から畑のことを聞いているうちに、リナがパンを持ってきた。
小さな籠へ布を敷き、その上に黒パンを載せている。俺の前まで来ると、どこへ置けばよいか迷ったように周囲を見た。
『そこの平たい石へ置いてくれ。籠まで食うつもりはないが、口で取ろうとすると引っ掛けそうだ』
リナは籠からパンを出し、石へ載せた。
一つでも、俺の腹を満たすには足りない。それは彼女にも分かるらしく、パンを置いたあとで、少し困った顔をした。
「これだけじゃ、足りないね。家にある分を全部持ってきても、ヴァルのお腹はいっぱいにならなさそう」
『俺の飯まで、村で用意しなくていい。山で食ってくる。今は、そのパンを貰えるだけで嬉しい』
俺は石へ顎を近づけた。
鼻先を地面へぶつけないよう首を傾け、舌先でパンを掬う。硬い皮が歯に当たり、噛むと、覚えていた匂いが口の中へ広がった。
リナは俺が飲み込むまで見ていた。
「前は、半分だったね」
『あれは助かった。何も食えなくて、どうしたものかと思っていたんだ』
「私も、全部渡したら怒られると思ったの。少しなら、分けてもいいかなって」
彼女は石の上へ残ったパン屑を集め、俺の方へ寄せた。
俺はそれも舐め取り、草の上へ顎を下ろした。リナが傍の石へ座り、村長も道具を置いて腰を落ち着ける。
畑の向こうから、人を呼ぶ声がした。
俺が顔を上げかけると、村長がそちらを見て、干した物を取り込むよう頼んでいるのだと教えてくれた。しばらくして、家の間を籠を抱えた女が通っていく。
俺はまた顎を下ろした。
リナが、留守の間に村であったことを話し始める。沢へ水を汲みに行く途中で転びかけたことや、雨のあとに皆で畑の溝をさらったことまで、思い出す順に聞かせてくれた。
途中で村長が口を挟み、リナが自分は転んでいないと言い直す。
俺は二人の話を聞きながら、身体の横へ尾を寄せ直した。今日はここを立つ前に、まだ聞きたい話がいくつもあった。




