第88話 翼を並べて、狩りに行く
ガレスへ村の様子を伝え終えると、ちょうど東から戻った兵が、馬を引いて広場へ入ってきた。
兵は水を受け取り、喉を潤してから報告を始めた。敵が使っていた道では、今日も東へ向かう小さな集団を見たという。荷車に載れない負傷者を仲間が支え、馬にまで道具を背負わせていたらしい。
ただし、林の向こうまで見届けたわけではない。ガレスは聞いた範囲を確かめると、交代の兵へ見張りを引き継がせた。
『俺も、もう一度飛んだ方がいいか』
「お前は朝から、村へ帰る者に付き合ってくれただろう。こちらの見張りも出してある。何か起きたら知らせるから、まず腹を満たしてきてくれ」
そう言われて、俺は広場に並ぶ釜を見た。
人間の食事なら、まだ何人分か残っているらしい。しかし、今の俺がここで腹いっぱい食べようとすれば、釜を空にするだけでは済まない。昨日も今日も、人の飯の匂いを嗅いでいるせいか、余計に腹が減っていた。
『分かった。日が落ちる前には戻る。俺が飛び立っても驚かないよう、馬を少し離してくれ』
手綱を持つ兵が頷き、馬を建物の陰へ連れていった。
俺は人のいない草地まで歩き、翼を広げた。身体を浮かせる風を受けながら振り返ると、ガレスはもう、戻ってきた兵と地面に広げた図を覗き込んでいた。
◇
村へ向かう時より、高いところを飛んだ。
道の人影を探さずに済むだけで、ずいぶん景色が違って見える。西の畑から離れるにつれ、家は木々に隠れ、川の光だけが森の間に続いていた。
首へ当たる風が気持ちよくて、俺は一度、大きく旋回した。
誰かへ知らせるためでも、地上の弓を避けるためでもない。傾いた翼へ風が掛かり、思った通りに身体が曲がっていくのが、ただ面白かった。
その時、北側から別の影が近づいてきた。
ガルだった。
俺より低いところを飛び、少し前へ出てから首をこちらへ向ける。翼の端にある欠け目を確かめるより先に、《魔獣感応》へ馴染みのある気配が触れた。
空腹と、進む先への強い関心が伝わってくる。
『俺も飯を探している。一緒に行っていいなら、邪魔にならないところを飛ぶぞ』
声が届いたかどうかは分からない。俺は敵意がないことを伝え、ガルの真後ろを避けて、少し高い位置へ移った。
ガルはこちらをしばらく見ていたが、やがて森に沿って向きを変えた。
地上からでは道に見えない、木々の切れ目を辿っている。俺がその上を追うと、川幅が広がり、白い砂利の岸が現れた。
ガルはそこで高度を落とした。
◇
最初は、水を飲むつもりなのだと思った。
ところが、ガルは川へ顔を近づけず、少し高い岩へ降りた。翼を畳み、首を伸ばして、水面をじっと見つめている。
その視線の先で、銀色のものが跳ねた。
魚だった。
俺が知っている川魚より、はるかに大きい。水面を割った背が長く光り、太い尾が水を叩いたあと、対岸近くの深みに消えた。
『あれを狙っているのか。確かに、食いでがありそうだな』
川の上流には浅い瀬があり、その下で流れが岩へぶつかって曲がっている。曲がり角の内側は深く、岸の木が水へ影を落としていた。
俺も降りようとしたが、ガルのいる岩では狭かった。少し下流の砂利へ脚を下ろし、翼を畳む。
着地の風で、水面に細かな波が広がった。
さっきまで見えていた魚の影が、一斉に深い方へ逃げていく。
ガルが俺を見た。
首を向けただけなのに、何を気にしたのかはよく分かった。
『悪い。もう少し離れて降りるべきだった』
俺が首を低くすると、ガルはまた川へ目を戻した。怒ってはいないらしいが、すぐに獲物へ飛びかかる気もないようだった。
俺もその場で伏せ、動かずに待った。
身体が大きくなり、矢を鱗で弾けるようになった。荷車を押し返し、落ちた梁を持ち上げる力もある。それでも、魚をこちらへ戻す方法は分からない。
空腹のまま水を眺めていると、川の音ばかりが耳についた。
◇
先に動いたのは、ガルだった。
岩の上で身体を低くし、首をわずかに傾ける。その姿勢のまま待っていたかと思うと、突然、岸から浅瀬へ踏み込んだ。
水飛沫の向こうで顎が閉じる。
ガルが首を持ち上げた時には、大きな魚が口から垂れていた。尾が激しく振れ、飛び散った水が岩を濡らす。ガルは岸へ戻ると、獲物を地面へ押さえ、しっかり噛み直した。
俺は思わず身体を起こした。
『あんな浅いところにも来るんだな。俺も、深い方ばかり見ていた』
ガルから返ってきたのは、獲物を得た時の満足だった。
そのまま魚を食べ始めたので、俺は少し下流へ移った。ガルが狩っている場所へ首を突っ込むつもりはない。
浅い水の中へ前脚を入れると、砂利が沈み、水が左右へ分かれた。足下にいた小さな魚が散り、その先で大きな影も向きを変える。
俺は首を伸ばして追った。
魚は水の下で曲がり、鼻先が届くより早く、濃い影の中へ消えてしまった。
顔を上げると、鼻から水が流れた。
噛みつく速さなら足りると思っていたが、そもそも狙ったところへ口が届いていない。水の上から見た位置と、実際に魚がいた位置が、少し違っていたらしい。
岩の上で、ガルが食事を止めてこちらを見ていた。
『見ている分には簡単そうだったんだがな。俺がやると、川へ顔を洗いに来ただけになる』
鼻へ入った水を吹き出すと、ガルの喉が小さく鳴った。
笑ったのかどうかまでは分からなかったが、俺にはそう聞こえた。
◇
二度目は、むやみに追わなかった。
首を動かすたび、魚はこちらから離れる。足を踏み替えれば、その振動と水の動きでも逃げていく。
俺は前脚を水の中へ置いたまま、岸の方へ顎を寄せて待つことにした。
しばらくすると、魚の影が少しずつ戻ってきた。大きなものはまだ深みに残っていたが、何匹かは浅瀬の手前まで泳いでくる。
その向こうで、ガルが岩を降りた。
食べ終えたらしい。口元を水で濡らしたあと、こちらへ近づいてくる。ただし、俺と並んで同じ場所へ顔を下ろすのではなく、深みの上流側へ回った。
警戒と、獲物への集中が伝わってきた。
俺は動きを止めた。
ガルが浅瀬へ踏み込み、水面へ口を突き入れる。大きな魚が身を翻し、深みから下流へ走った。
俺の前を、黒い背が横切った。
今度は、水の上から見える姿を追わず、浅瀬へ上がってきたところへ首を落とした。顎の間で硬いものが滑り、慌てて噛み締めると、太い身体が口の中で跳ねた。
首を持ち上げ、岸へ向ける。
魚は俺の顎から半分以上はみ出していた。暴れる尾が頬へ当たったが、鱗には何ともない。それより、逃がさず砂利の上へ運ぶ方に気を使った。
ようやく獲物を押さえると、ガルが川の向こうからこちらを見ていた。
俺は口を離さないまま、喉を鳴らした。
ガルにも俺の満足が伝わったのか、その首が少しだけ持ち上がる。
あいつが俺の方へ追ったのか、俺がたまたま逃げ道にいたのかは、断言できない。それでも、ガルが動いたおかげで捕れたことは確かだった。
◇
魚は、腹を満たすには一匹では足りなかった。
ただ、捕り方が少し分かると、次はさっきほど苦労しなかった。ガルが上流側を動き、俺は浅いところで待つ。魚が深みに留まれば場所を変え、二頭とも空振りすることもありながら、少しずつ獲物を増やした。
俺が顎を空しく閉じた時に、ガルがすぐ横で一匹捕ったこともある。
『そいつは、お前の分だ。俺が逃がしたからといって、取り上げたりはしないぞ』
ガルは魚を咥えたまま、俺の届かない方へ首を向けた。
疑われたらしい。
俺は笑って、自分の獲物へ戻った。
最初の一匹を噛んでみると、引き締まった肉は生のままでもうまかった。人間だったころなら躊躇しただろうが、今の身体は、目の前の魚を食べることに何の迷いもない。
それでも、二匹目を見下ろしているうちに、別の食べ方が頭へ浮かんだ。
川岸には木のない砂利が広がり、流れ着いた枝が何本か乾いていた。
俺は魚を水から離れた場所へ置き、燃えそうな枝を前脚で集めた。太すぎる木は避け、折れるものだけを爪の間に挟んで並べる。
ガルは食事を続けていたが、俺が口を開くと、顔を上げた。
胸の奥へ熱を集め、枝へ短く炎を吐く。
乾いた木が音を立て、火がついた。
ガルが首を引いたので、俺はすぐ口を閉じ、火から離れた場所へ身体を伏せた。攻撃するつもりがないことを伝えると、ガルも逃げずにこちらを見ていた。
敵の縄を焼く時より、ずっと弱くしたつもりだった。それでも、細い枝の一部は、火が回る前に黒く崩れていた。
俺は残った木を寄せ直した。
腹が減っている時に飯の支度で失敗すると、妙に悔しい。
◇
魚をそのまま火へ載せるのはやめた。
厚い胴を丸ごと炙っても、外側だけ焦げて中が温まらない気がしたからだ。爪を使って肉をいくつかに分け、火の近くに置いた平たい石へ載せる。
人間の手ほど器用には動かせず、肉の形はひどいものになったが、しばらくすると脂が音を立て始めた。
匂いが変わった。
さっきまで生の魚で十分だと思っていたのに、焦げ目のつく匂いを嗅ぐと、待つのが急につらくなる。
俺は一切れを爪先で裏返し、崩れたところを見て、小さく息を吐いた。
塩もないし、串さえ作っていない。前世で誰かに出されたら、焼き方について何か言ったかもしれない。
それでも、自分で捕って、自分で焼いた魚だった。
少し冷めるのを待ってから口へ運ぶと、表面は香ばしく、中の肉から温かな脂が出てきた。
『……これだ。やっぱり、焼いたものも食いたかったんだな』
俺の独り言に、ガルが反応した。
正確には声ではなく、俺が食べた肉へ目を向けている。生の魚を食べ終えたあとも、火の近くへは来ず、少し離れた砂利の上に座っていた。
俺は焼けた肉を一切れ選び、十分冷めたところで、ガルとの間にある石へ置いた。それから身体を引く。
ガルはすぐには近づかなかった。
首を伸ばし、匂いを確かめ、俺と肉を交互に見る。俺が残りを食べ始めると、ようやく石の方へ一歩出た。
大きな口が、肉を咥えた。
一度噛んだあと、ガルは顔を止めた。嫌がって吐き出す様子はなく、やがて残りも飲み込む。
俺がもう一切れ焼け具合を確かめていると、その視線が爪先へついてきた。
『気に入ったなら、もう少し待ってくれ。まだ中が生だ』
言葉は分からなくても、肉が来ないことは分かったらしい。ガルはその場へ腰を下ろし、俺が食べる方まで、じっと見つめた。
急に、自分の分を先に食うのが難しくなった。
◇
火が小さくなるころには、腹もようやく落ち着いた。
俺は川の水を口へ含み、残った火へ少しずつ掛けた。白い湯気が上がり、最後に湿った砂利を被せると、ガルが近づいてきて、焼いた肉を置いていた石を覗き込んだ。
『もう残っていないぞ。生の方なら、上流にまだいるだろう』
ガルは石へ鼻先を寄せたあと、俺を見た。
獲物を待っている時とは、少し違う感じがした。だが、それを都合よく、もっと焼いてくれという意味に決めつけるのも違うだろう。
俺は立ち上がり、翼についた砂を落とした。
西へ戻るには、まだ十分な明るさがある。川を離れる前に、火を使った場所をもう一度確かめると、ガルは先に大きな岩へ上がっていた。
『俺は人間のいるところへ戻る。また会ったら、一緒に狩りをしよう』
ガルは首を傾けた。
俺は無理に意味を送り込もうとせず、敵意のないまま離れることだけを伝えた。翼を広げ、川沿いの風を受けて飛び上がる。
少し遅れて、ガルも岩を蹴った。
二頭の影が、水面へ並んだ。
途中までは同じ方へ飛んでいたが、森が広く続くところで、ガルは北へ向きを変えた。俺も少しだけそちらへ首を向け、やがて西の道を探した。
ついてこないのを寂しく感じた自分に気づき、俺は鼻を鳴らした。
今日は一緒に魚を捕って、腹いっぱい食った。それだけでも、十分に楽しかった。
川の曲がり角と白い砂利の岸を振り返り、場所を覚えてから、俺は人間たちの待つ方へ翼を傾けた。




