第87話 家へ帰る道
村へ戻る人間より、持って帰る荷物の方が先に並んでいた。
朝の炊き出しが終わったばかりの広場で、男が鍬の柄へ布包みを結びつけている。隣の女は空の籠へ小さな鍋を収め、その上から何度も紐を掛け直していた。逃げる時には背負ってきたらしいが、帰りは途中まで荷車へ載せてもらえるという。
それでも、手放すのが不安なのだろう。車輪の傍へ置いたあとも、女の視線は鍋から離れなかった。
俺は広場の外へ伏せ、荷車を驚かせないよう尾を身体の横へ寄せていた。ガレスがその前を通り、出発を待つ兵へ声を掛ける。
「村を調べた者と、帰る者を案内する者は分けてある。先行の合図が出るまで、村人を家へ散らすな」
敵の本隊が退いたからといって、道も家もすぐ元通りになるわけではない。林へ逃げ込んだ兵がいるかもしれないし、壊れた建物や置き去りの武器も残っている。
昨日のうちにフェルゼン側の兵が近くの集落を見て回り、今朝は道を確かめる者が先に出た。戻ってよいと判断された村から、歩ける大人が少人数で家の様子を見に行くことになったのだ。
子供や怪我人まで一斉に連れて帰るのは、そのあとだった。
『俺も途中まで一緒に行く。上から見えるところは確かめるが、家の中は人間に任せるぞ』
「そうしてくれ。屋根が残っているからといって、下まで無事とは限らん」
ガレスは俺の前脚へ目を向け、それから村人たちを見た。
「戻ったら、見たままを教えてほしい。住める家が何軒あるかで、こちらに残る人数も変わる」
『分かった。食べ物が残っているかも、確かめてくる』
荷車の後ろでは、エルマーが出発する者の顔と手元の記録を見比べていた。呼ばれた男が返事をし、自分の隣に立つ女の肩へ手を添える。
ガレスへ報告する時の声とは違った。
「家まで行ければ、あとは見れば分かります。逃げる前に戸を閉めたんですが、あれで少しでも残っていれば」
女は頷いたものの、鍋を押さえたまま何も言わなかった。
◇
俺は一度だけ先へ飛び、道に人影がないかを見てから、畑の外れへ降りた。
荷車のすぐ傍を飛び続ければ馬が落ち着かない。低く降りれば風で荷を散らすし、上空にいる俺からは木陰の小さな動きまで拾えないので、見通しの利く場所で待ち、兵たちが来たら次へ移ることにした。
道には、東へ向かった車輪の跡が幾筋も残っていた。
深く沈んだ溝の途中に折れた車輪が落ち、草の上には荷を縛っていたらしい縄が散らばっている。兵はその脇で足を止め、残った荷や藪の陰を確かめてから、荷車を通した。
捨てられていた袋の一つには、馬の餌が少しだけ残っていた。底が破れ、土と混ざっている。
補給の荷を失い、馬を疲れさせ、それでも持って帰る物を選んで退いた。その跡を、今は鍬と鍋を載せた荷車が進んでいる。
俺は畑の縁を歩きながら、道から十分離れた場所へ脚を置いた。
空からではただの荒れ地に見えたところにも、踏み倒された畝がある。枯れかけた葉の間に、まだ青い葉が残っていた。
『この辺りにも、何か植えてあるんだな。俺が通らない方がいい場所を教えてくれ』
先ほどの男が俺を見上げ、それから畑へ目を向けた。
「そちらは豆です。もう駄目かと思っていましたが……あの端なら、まだ取れるかもしれません」
言いながら、男は道を外れかけた。すぐ前の兵が手で制すると、苦い顔をして戻ってくる。
「先に家の方でしたね。すみません、つい」
『畑は逃げない。俺も踏まないようにするから、あとで見てくれ』
男が少し笑った。
その顔を見て、俺は足下をもう一度確かめた。戦っている時なら、踏み込みやすい地面かどうかで見ていた場所だった。
今は、大きな爪を下ろす場所を探す方が難しい。
◇
村の入口には、俺の胸より低い柵が残っていた。
片側の門が倒れ、向こうには家の壁へ立て掛けられた板や、散らばった藁が見える。人の暮らしていた匂いに、古い煙と馬の匂いが重なっていた。
先行していた兵が出てきて、荷車を止める。道の確認を終えたことを伝えたあと、壊れた納屋の方へ腕を向けた。
「あちらの軒下には入らないでください。柱が一つ外れています。家は一軒ずつ、こちらの者と見てもらいます」
男は自分の家を示し、女と並んで歩き出した。
村の中の道へ入るには、俺の身体は大きすぎる。翼を畳んでも、振り返れば尾が柵を払ってしまうので、入口の外に残って首だけを伸ばした。
戸口まで来た女が、そこで立ち止まる。
扉は閉まっていたが、留め木は折られ、片方の蝶番が壁から浮いていた。男が扉を支え、兵が先に中を覗く。その後ろから入った女の姿が、暗がりへ消えた。
しばらくして、割れた器を片づける音がした。
俺が何か声を掛けようとした時、別の家の裏から男の叫びが上がった。
「こっちに麦が残ってる! 壁が倒れた下だ、袋の口が見える!」
村人が何人かそちらへ向かい、兵も後を追った。俺は家と家の間へ身体を押し込まず、柵の外を回って裏手へ出る。
小さな穀物小屋だった。
屋根の片側が落ち、太い梁が斜めに突き出している。外れた壁板の隙間に、布の端が見えていた。小屋の中へ入り込もうとした男を、兵が腕を掴んで引き戻す。
「今、梁が動きました。袋を引けば、上まで落ちるかもしれません」
「だが、あれを雨に濡らしたら、残っている分まで」
『俺が外から持ち上げる。先に、人と荷車を離してくれ』
男たちが俺を振り返った。
袋を掴んで引きずり出すのは簡単そうに見えたが、その前に柱が倒れれば、人間が下敷きになる。俺には、どの木が何を支えているのかまでは分からなかった。
『動かしていい梁を教えてくれ。適当に壊すと、麦まで潰しそうだ』
小屋の持ち主らしい男が、兵と相談しながら外を回った。俺の爪が届く場所を見て、落ちた屋根から突き出す一本を指す。
「あの太い木です。端を少し上げてもらえれば、上の板を外せます。柱の方へは押さないでください」
俺は地面へ腹を近づけ、前脚を伸ばした。
爪先を木の下へ差し込むと、乾いた藁がぱらぱら落ちる。力を掛ける前に人が離れたことを確かめ、それからゆっくり脚を持ち上げた。
梁が軋み、屋根の傾きが変わった。
軽い、と言い切れるほどではないが、戦場で荷車を押し返した時ほどの力はいらない。ただし、持ち上がったからといって、そのまま上へ放り投げるわけにはいかなかった。
「そこで止めてください。今、板を抜きます」
俺は脚を止めた。
外側から長い棒を差し入れた男たちが、浮いた壁板を順番に引きずり出す。狭い穴へ潜る代わりに、横から袋へ手が届くようにしているのだ。
土埃が鼻先へ流れてきたので、俺は息を止めて顔を背けた。
ここでくしゃみをすれば、梁より先に人間を吹き飛ばしそうだった。
やがて最初の袋が運び出され、次の袋がその後を追った。一つは破れていたが、別の男が持ってきた布を下へ敷き、こぼれる麦ごと包んでいる。
「これで全部です。皆、下がってくれ!」
人が離れるのを待ち、俺は梁を元の瓦礫へ下ろした。
最後に爪を抜くと、男たちは袋の口を開いて中を見た。手のひらへ掬った麦に息を吹きかけ、土埃を飛ばす。
「濡れてない。上の藁が残っていたんだな」
男の声が、途中から少し掠れた。
周りにいた者も袋へ手を伸ばし、粒を摘まんで確かめている。俺が身体を起こしても、もう怯えて下がる者はいなかった。
『使える分が残っていてよかった。運ぶのは、その荷車で足りるか』
「まず、無事な家へ入れます。あとは村の者と分けますから」
男は袋を抱え直し、深く頭を下げた。
俺の爪には、潰れた藁と土が挟まっていた。戦ったあとより、そちらの方がずっと気になった。
◇
昼前、北の尾根へガルが降りた。
欠けた翼の端が、畳まれる直前に見えた。俺にはすぐ分かったが、村人たちはそうではない。顔を上げた男が息を呑み、兵の一人も反射的に弓へ手を掛けた。
『あの個体には手を出さないでくれ。人を襲いに来たわけじゃない。俺が、ここに人間がいると伝える』
弓へ伸びていた手が止まった。
俺はガルのいる尾根を向き、《魔獣感応》へ意識を向ける。こちらへの関心と、村へ集まった人間を警戒する気配が返ってきた。
言葉で事情を説明できるわけではない。それでも、争わないことと、こちらへ降りてこなくていいという意図を、繰り返し伝えた。
ガルは首を動かし、村の屋根を見下ろしたあと、その場で翼を畳んだ。
俺の横にいた男が、低い声で言った。
「軍が連れていたものとは、違うんですね」
『山で暮らしている個体だ。俺が頼んだからといって、何でもするわけじゃないし、ここで飼っているわけでもない』
「それなら、追い払おうとして石を投げる方が危ないでしょうね。子供にも伝えておきます」
『近づいて確かめるのも、やめておいてくれ。俺が近くにいる時と、人間だけの時では違うだろうからな』
男は尾根を見上げて頷いた。
ガルが何を考えて座っているのか、俺にも全部は分からない。だが、村人が弓を構えず、ガルも村へ降りてこないまま、屋根の下では片づけの音が続いていた。
俺はその間に挟まって伏せ、前脚の爪から藁を外した。
◇
あの鍋から、昼飯の湯気が上がっていた。
朝、何度も紐を掛け直していた女が、家の外に組んだ小さな竈へ薪を足している。家の中の炉は、落ちた物を片づけるまで使わないことにしたらしい。
鍋には、持ってきた食料と、畑の端で取れた豆が入っていた。
「兵の方には、先に食べてもらっています。ヴァル様にもお出ししたいんですが、これではとても足りませんね」
女は俺の頭を見上げ、困ったように笑った。
『一口分だけ、味を見せてもらえるか。腹をいっぱいにする分は、自分で何とかする』
女は木の器へ少しだけよそい、門の外にある平たい石へ置いてくれた。
俺は器ごと噛まないよう注意しながら、舌先で汁を掬った。豆はまだ硬く、塩も薄かったが、温かな汁には薪の煙がほんの少し混じっていた。
『豆は、さっきの畑のものか』
「はい。主人が、踏まれずに残ったところを見つけました。もう少し煮た方がよかったですね」
『俺には、これくらいでも食べられる。残っていてよかったな』
女は鍋の方へ目を向けた。
夫が兵へ何か話しながら、折れた戸の留め木を削っている。屋根の下から運び出された器は、割れた物と使える物に分けて並べられていた。
「子供たちを連れて戻る前に、寝るところくらいは片づけておきます。あの子たちにも、家で食べさせたいので」
そう言って、女は俺の器を持ち上げた。
家を見つけた時より、足取りが速くなっていた。
◇
帰りの荷車には、持ち帰るつもりだった鍋が載っていなかった。
女は夫と一緒に、村へ残ると決めた。ほかにも何人かが家の片づけを続けることになり、フェルゼンの兵が残って見回りを受け持つ。
俺は戻る兵から村の様子を聞き、ガレスへ伝えることを頭の中で確かめた。住める家は残っていたが、直す必要のある屋根もある。食料は少し取り戻せたものの、それだけで村全体が暮らせるほどではない。
それでも、門の内側では夕方までに終えたい仕事の話が始まっていた。
荷車が動き出すと、女が竈の傍から手を上げた。俺も首を下げて応え、豆の畑を踏まないよう大きく外へ回る。
北の尾根から、ガルが飛び立った。
こちらへ真っ直ぐ来るのではなく、山沿いに旋回してから、俺の頭上を離れていく。《魔獣感応》に触れたのは、空腹と、飛ぶ先への関心だった。
俺の腹も、その時になって大きな音を立てた。
一口分の豆の汁で、この身体が満足するはずもない。振り返りかけた兵へ気にしなくていいと伝え、俺は翼を広げられる場所まで歩いた。
『先へ戻って、ガレスに話をしてくる。道の確認は、あと一度上から見るぞ』
兵の返事を聞いてから地面を蹴ると、村の竈から昇る細い煙が見えた。
屋根より高く上がったところで、俺は風に乗った。まず報告を済ませたら、今日は俺も、ちゃんと飯を食おうと思った。




